第三十八章 24

?月??日


 辛い幼少時代を送れば、それだけ人間の幅が広がり、深みも増す可能性があると、漸浄斎は自らの体験を経て、考えている。

 もちろん歪みが生じる可能性も高いが、それは人生の中で歪みを得たという事であると解釈している。

 全ての体験は宝であると、そう思いこもうと、漸浄斎は心がけている。この世の全ては美しい。醜いものさえ愛おしく美しいと。


 否。そう思いこもうとしているだけだ。実際に心底その域に達しているわけではない。まだ自身の心の修行が足りないのだと、漸浄斎は自身に言い聞かせる。

 漸浄斎とて、過去の闇を完全には払拭しきっていない。仏門に身をやつしても、たとえ還暦を迎えても、引きずっている。傷は癒えない。


 電々院漸浄斎はいろいろと悪名高い名家である、電々院家に生まれた。

 電々院家は分家が進み、最早本家など無いに等しい状態である。しかしいずれの分家も資産家であり、各界に多大な影響を持ち、そして様々な闇を抱えていた。電々院の血を引いた者は、生まれながらに呪われていると、一族の間で囁かれていた。


「呪いなんて迷信よ。お前は立派に育ち、人の上に立つ者となるのよ。誰よりも強く、誰よりも賢く、誰にもみくびられない存在になるのよ」


 母親はいつもそう言い聞かせていた。自分が出来なかったことをしろと、息子に言う。自分がなれなかった者に、息子にはなれという。自分のコンプレックスを払拭するために、代わりに息子にそれを強要する。

 最初は親の顔色を必死で伺いながら従っていた漸浄斎であるが、成長して知恵と人間性を備えてからは――特に反抗期に入ってからは、母親が途轍もなく醜悪でちっぽけな存在に映るようになった。


 母親を殺すのは簡単だった。裏通りのチンピラを雇って、強盗の手引きをするついでに殺すように依頼した。目の前で輪姦されて殺される母親の姿を見ても、何の恐怖も罪悪感も無かった。それどころか心底ざまあみろと思えて、すっとした。これで身も心も自由になったと思った。


 だが、心は自由になりきれていなかった。ハズレの親を引いてしまったという意識が、そして他者への嫉みと自身への引け目は、いつまで経っても拭えなかった。


 そして親という生き物への不信感が心にこびりついた。他人の親の話を聞いても、フィクションで親が出る場面を見ても、親が子を苦しませる話を見たり聞いたりするだけで、昔のことを思い出して腹の中が焼かれるような感覚を味わう。

 そのため、漸浄斎は女遊びこそ激しかったが、結婚をしようとしなかった。子供を持ち、自分が親となる事を忌避したが故に。一人の女性に入れ込もうともしなかった。女はいずれ母親となり、鬼になるという恐れがあったが故に。


***


B月6日 14:24


 享命会が根城としている弥生子の屋敷。

 漸浄斎、佐胸、アンナが出かけている中、幹部扱いの信者は憲三、久美、弥生子の三名しかいない。来夢と克彦も出かけている。

 その三人でもって、居間でのんびりと雑談していた。


「漸浄斎さん、最近頻繁に出かけるよね。佐胸さんと行動すること多いようだし」


 久美が部屋に張られてあるタペストリーを眺めつつ、何とはなしに言う。


「う、うん……忙しいこと、いろいろあるんだろう」


 その理由を知っている憲三が言葉を濁す。


「教団を大きくするプラン、いろいろ考えているのに、肝心の教祖様が他のことに気をとられているんじゃあね。これじゃあ私、まるで道化じゃない」


 不満げな面持ちで大きな溜息をつき、久美は寝転がる。


「久美さんが教祖でもいいのではないかしら?」


 いつも通りにこにこと笑いながら、弥生子が言った。


「私じゃまだ子供だから、誰もついてこないよ。何のかんのいって皆、漸浄斎さんのあの豪放磊落さに惹かれているんだし、あんな生臭坊主でも、ちゃんと貫禄あるからね」


 久美がそう言った直後、廊下を誰かが歩いてくる音がした。


「久美さん、お母さんと名乗る方が来られていますが……」

「はあっ!?」


 新参信者が戸惑いながら報告し、久美はがばって起き上がり、思わず大きな声をあげてしまう。


「こんな所まで来るなんて……」

「親子さん、心配で探し回ったのよ。その気持ちは心にセットしておかないと」


 忌々しげに整った顔を歪める久美に、弥生子がやんわりとなだめたが、その弥生子の言葉ですら、今の久美には非常に煩わしく感じられた。


(久美も俺みたいに、家族と喧嘩して家出してきたのかな?」


 そう勘繰ってしまう憲三。


 久美は怒りを顔に張り付かせたまま、屋敷の玄関へと向かう。憲三と弥生子も一応ついていった。

 屋敷の玄関には、久美がよく知る眼鏡をかけた中年女が佇んでいた。


「久美ぃいぃっ! 本当にこんな所にいるなんて! きぃぃいぃーっ! あんた私がどれだけウッキィイィィィ! 心配したと思ってんのおぉぉっ! 学校サボって怪しい宗教してるって興信所の人に言われて、私がどれだけキィィイィ!」


 興奮するあまり喋っている途中に、猿のように歯を剥いて耳障りな金切り声で叫ぶ女性を見て、憲三は呆然としてしまう。憲三の母親も大概だったが、これはさらにひどいと感じてしまった。


「お母さん、黙って家出してごめんなさい。今までお世話になりました。でももう親子の縁切ってくれていいから」


 猿のように喚く母親を睨みつけ、歯切れのいい口調できっぱりと告げる久美。


 娘のその言葉を聞き、母親はますますその表情を歪める。歯茎まで剥きだしにして、血走らせた目もひん剥いて、鼻の穴も広げて鼻毛が露出している。

 人間は興奮して狂うと、ここまで醜くなれるものなのかと、憲三は驚いていた。そして何より悲しいのは、こんな醜い姿を人前で晒す母親を見ても、冷然としている久美だ。自分の母親に対して、冷めきっている。完全に見切りをつけてしまっている。


「ワワワワダヂがあんたを産んだのよおぉぉっ! 育でだのよぉぉおぉっ! 私があんたにどれだけ期待ヂてたド思ってるのおぉおぼぼぼぼぼぼっぉっ! あんたを手塩にガゲデ育てだのに、学校をサボる不良娘になっちゃって、しかもシューキョーに走るとか! 今の私の……この悲しみが! この絶望が! この怒りがあああぁぁっ! あんダにわ・ガ・ル・かあぁああぁあぁっ! アキャアァァーッ! シキャアァアーッ!」


 勝手なことを喚く久美の母親に、憲三は気分が悪くなる。


(世の親共って、皆こうなのか? こんな風に狂ってるのか? 子は親の持ち物で、自分の思い通りにならないと知ると、怒り狂うのか? こんなもんに、世の親共は、『うんうん、わかる』と共感するのか?)


 胸糞が悪くなって仕方がない。そして興味が沸いてしまう。氷の刃のような視線を自分の母親にぶつけている久美が、今、どんな気持ちなのかと。話をしてみたいと思う。そして……甘えかもしれないが、自分の話も聞いてほしいと、こんな時なのに考えてしまう。


「色眼鏡で見すぎ。そして人を見下しすぎ。自分を被害者に置き換えて甘やかしすぎ。そのうえ思考停止。いっつも母さんはそれ。うんざり。あんたみたいなもんの腹の中から出てきたって事が、私の人生の恥なんだけど」

「何でしゅっでえぇええぇぇ! そそそそこまで言うなんて、許せなあぁぁぁい! あ、あんたみたいな子供に何がわかるのよっ! 私がどれだけあんだにギダイじで、お金かけて塾通わせてっ、テストの点数見て一喜一憂して胃もオカジグなって、私の苦労がわがるがああああぁぁっ! キィイィィッ!」

「子供に論破されて癇癪起こす中年女。それが今ここで起こっている現実。世界は広いけど、貴女の視界はとても狭い。親は子の満足を満たすための道具にあらず。育むためには、生活だけではなく、心も守らねばならない。心を認めて、見守らなければならない。支えなければならない。導くはこの望む道筋へ。それが務め」


 弥生子が口出ししたので、久美は振り返り、驚いた。いつも穏やかな笑みを絶やさないこの老婆が、怒りの眼差しを久美の母親にぶつけている。


「そして久美ちゃん。最後の言葉は言いすぎ。それは絶対に口にしてはいけないこと。どんな母親でも傷つける」

「……」


 自分の方を見て柔らかい声でなだめる弥生子に、久美はいたたまれない気持ちになり、うなだれてしまう。


「わかったあぁああぁぁぁぁ! あんたここのシューキョーの人に洗脳されたのね! だからそんなこと言えるのよぉおおぉぉ! 訴えてやるううぅうぅっ! いや、その前に教祖出せぇぇぉええぅあおをうあええぇぇぇ! 教祖と話をヅゲルウゥゥゥゥ!」

「ここで騒ぐと迷惑だし、わかったから中に入って。弥生子さん、ごめん。ちょっと上がらせて」


 久美が弥生子に確認すると、弥生子は無言で頷いた。


「フォォォォオッ!? 親に向かって迷惑とは何事おおぉぉぉぉっ!? 私が被害者なのよおおぉぉお! 被害者様に逆らう気いぃ!? ウッキイィーーー! したがわなーい! 子の言うことに従う親なんてありえ・ナーイ! ムッキャあアアぁぁーっ!」


 ところが久美の母親は駄々をこねだし、入ろうともしない。


「どうするの?」

 おそるおそる尋ねる憲三。


「漸浄斎さんが帰ってくるまで待つしかない。恥ずかしいけど、私の手には負えないの。だから出てきたんだし」


 憲三の耳元で、沈んだ声で囁く久美。


「俺の親も似た様なもんだよ……」


 久美を慰めるつもりで、憲三がぽつりと呟く。


「そっか。そのうちそっちの話も聞かせて。そうすれば少しは憲三も楽になるかも」


 久美のありがたい言葉に、憲三は微笑をこぼした。


***


B月6日 16:36


 漸浄斎、佐胸、アンナ、馳の四名は安楽市絶好町繁華街へと向かった。


「いた」


 佐胸が呟き、向かいの歩道を指すと、犬飼の姿があった。


「こんな人通りの多い街中でやる気?」

「裏通りの連中はよーやっとるし、問題あるまいて。カカカ」


 不安げに確認するアンナに、漸浄斎は堂々と車道を横切る。


 突然車道に出てきた小汚い坊主に、車が次々と急ブレーキをかけて止まる。漸浄斎はそんなことなど意に介さず、犬飼へと向かっていく。

 車道の騒ぎに気がついた犬飼の視界に、漸浄斎の姿が入る。


「きやがった。後はよろしく~」


 小声で呟き、犬飼は小走りに近くの薬局の中へと逃げ込む。


 少し離れて後ろを歩いていた睦月と亜希子と咲が薬局の前までやってきて、漸浄斎と向かい合う。

 馳とアンナと佐胸も漸浄斎に追いつき、両陣営が揃って向かい合う格好となった。


「さっきぶりだねえ」

 睦月が馳を見てにやりと笑った。


「殺したと思ったけど、あれを食らって無事だったのか……」


 ぴんぴんしている睦月を見て、驚く馳。驚いているだけではなく、若干恐怖もしている。


「そいつは俺に任せてくれ。サシでやりたい」

 佐胸が睦月を指して申し出た。


「そして……その前に話したいことがある。いいか?」

「あはっ、じゃあ俺とこの人だけ、ちょっと離れるよ?」

「いいよ」

「うん」


 佐胸の誘いに乗った睦月が確認を取り、咲と亜希子は頷いた。


「カッカッカッ、佐胸君、どういうつもりなんじゃろーなー。さて、三対二の勝負だが、よろしいかな、お嬢さんがた」


 漸浄斎が笑いながら錫杖を構える


(三対三だけどな)


 咲が口の中で呟いた。離れた位置に、狙撃銃で支援する葉山がいるはずだ。ついでに観戦に来た純子も。

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