第三十七章 10

 アドニスと真はカンドービル内にある喫茶店『キーウィ』にて、暇を持て余していた。李磊はトイレで上官と電話中だ。

 警察の動きを様子見しつつ動くことになるので、能動的には動けない。よって暇になる。李磊は真とアドニスに、何かあったら呼ぶから好きにしていていいと言っているが、できるだけ固まって行動していないと、何かあった際に素早く動けないということで、しばらく行動を共にする運びになった。


「熱心に読んでいるようだが、何の本だ? それ」


 日本語は喋れるがまだ読み書きが苦手なアドニスが、向かいの席で真が読んでいる本を見て問う。


「悪魔崇拝に通じた、わりと過激な内容の思想書だな」


『快い人との接し方について学ぶ! デリカシーのある人間へと成長』というタイトルの本に目を落としたまま、真は答えた。

 日頃からみどりに「デリカシー無い」「空気読もう」などと言われまくっているので、真も自分のその辺を改めるため、このような書を手に取った次第であった。


「カバーを見た限りそんな本には見えないが、わからんもんだな。そしてそんな趣味があったのか」

「ちょっとした興味だよ」


 アドニスへ適当に相槌を打ちつつ、読書に集中する真。


(ふむふむ。細かい所でもちゃんと挨拶。ちょっと席を立った相手が戻ってきた時も、微笑みながら「おかえり」と言える人は好感度が上がります……か)


 途轍も無い難関のように、真には感じられる。


(でもここで臆してたら駄目だ。清水の舞台にICBMを撃ちこむつもりで……)


 やがて李磊がこちらに戻ってきたので、早速本に書かれていた内容を実践してみる事にする。


「おかえり」


 李磊に向かって非常にぎこちない愛想笑いを見せ、真は声をかける。


「何か悪いものでも食ったの……?」


 驚愕のあまり真顔になり、軽くのけぞって問う李磊。


(普段からやりなれてないせいかな。繰り返していけば、きっと周囲も馴染んできて、こんなリアクションもされなくなるだろう)


 しかし真はへこたれなかった。


 李磊は先ほどの王秀蘭との会話内容を、真とアドニスに報告した。


「俺達も警察を敵に回すのか?」

「まさかだろ。逮捕されるか射殺されるか。あるいはそれらを逃れても、俺は今後の活動がしづらくなっちゃうよ」


 アドニスの質問に、李磊はうんざりした顔で言った。


「俺達はしばらく何もせず、様子見ってのも考えたんだけどね。それで状況が勝手に動いて出遅れたとかいう展開もやばいんだよ」

「しかし俺達に何ができると?」

「今はこのまま警察の御機嫌取りをするよ。んで、中国の工作員達が強硬手段に出てきたら、その時がチャンスだと思うんだわ」

「何でそれがチャンスなんだ?」


 アドニスが肩をすくめ、不思議そうな顔になる。真も李磊も、アドニスがぶっきらぼうで素っ気無い男かと思っていたが――実際ぶっきらぼうな所はあるが、付き合っていると、わりとこまめにジェスチャー付きのリアクションを返してくる事を知った。


「警察に情報を渡して恩を売りつつ、同胞だから俺が説得すると言って、また恩を売る。で、中国秘密工作員側にも、自分が警察と懇意だから無駄に争わずに済むようにと伝える。ただし後者は、工作員サイドにある程度の死人が出てからの話な」

「ひどい奴だな……」


 李磊の計画を聞いて呆れるアドニス。


「そういうの、二重スパイっていうんじゃないか? そんなに上手くいくものか?」


 真が懐疑的な眼差しで李磊を見る。


「二重スパイじゃないよ。どちらに与するわけでもないし。俺は煉瓦が受けた指令の達成を第二に、そして煉瓦のメンバーの身の安全を第一に考える。そのための最善策だからね」

「軍人の言葉と思えんな。異なる隊の同胞の命は何とも思わんのか?」

「俺が守る範囲の世界は、煉瓦だけなんだな」


 呆れるアドニスに、李磊はにやりと笑って言い切った。


「もちろん一緒に組むからには、お前らのことだってちゃんと守るさ。その程度の仁義は弁えるよ」


 と、その時、王秀蘭ワンシゥランからまた電話がかかってきたので、わざわざトイレに移動する李磊。


『悪辣かつ武闘派で知られた華虱の連中が、わざわざ関西から安楽市まで御苦労です』

「うわぁ、最悪。了解ですよっと」


 顔をしかめ、電話を切り、そしてまた席へと戻る李磊。


「情報売り渡し案はともかく、交渉は無理になったわ。話の通じない連中が出てきちゃってさ」


 真とアドニスに、溜息混じりに報告する。


「数が多くて手が早いだけで、大したことの無い連中だが、一般人も躊躇無く殺すどーしょーもない奴等なんだよね。マフィアともつるんで、ヤバい商売もしているって、もっぱらの評判だ。かつてはチベットで鎮圧処理をしていたけど、やりすぎて逆に反乱を起こされるに至ったし、上も持て余していたから、日本に送ったんだよ。日本で暴れないように金だけ与えて、飼い殺しにしていたらしい。とにかく政府の目から離したかったんだとさ」

「そんなふざけた奴等を政府が庇護するってのは、ようするにお偉いさんの身内が、その中にいるってことか」

「当たり。公私混同はうちらの国も日本に負けてないからね」


 真の指摘に、李磊はへらへら笑いながら答えた。


***


 光男と銀二は尾行に対して念入りに注意しながら、肉塊の尊厳のアジトへと帰還した。

 構成員達からはねぎらいの言葉がかかったが、一人、不機嫌そうな顔で二人を出迎えた男がいる。名目上はナンバー2という事になっている剣持だ。


「仕留め損ねるとは……やはりお前は間抜けで無能で役立たずだ」


 名目上はボスである光男に向かって、剣持が冷たくなじる。光男は少しだけ顔をしかめたが、言い返そうとはしない。失敗したのは事実だとして、受け止めようとしている。

 構成員の何人かが見ている前で、剣持は嫌味たらたらの説教を行う。光男を晒し者にしてやっているつもりでいる。


「これまで俺達は上手くやってきた。お前達のような使えない奴等を上手く引っ張って、警察にも捕まらないよう、徹底的に潜伏し続けた。奴等の手口は大体わかっている俺がいたからこそだ。それなのに安心切開と中国マフィアの連中が欲をかいたせいで、こちらまで巻き込まれて、窮地に立たされている」


 元はと言えば、その二つの組織の間に立ち、どんどん仲立ち料を値上げしていった事が原因だが、剣持の頭にそのことは無かった。彼は証拠隠滅の知識と技術には長けていたが、商才は無く、何より人の心がわからない人間である。


「待ってください。光男は光男で頑張りました。留置所からも一人で脱出しましたし、重要な情報も漏らしていません」


 堪えきれずに光男のフォローに回る銀二。それを聞いて、剣持はさらに機嫌を悪くする。


「もう少し温かい目で見てやってください。光男は――」

「おい、俺はそういう友情ごっこが大嫌いだと何度も言ったのに、まだやるのか?」


 剣持が銀二を睨みつけ、有無を言わせぬ口調で銀二の言葉を遮る。


「お前達が組織の運営を破綻させ、借金で首がまわらなくなり、全員揃って売り飛ばされる間際までいって、助けてやったのは誰だ?」


 剣持にこれを言われると、光男はもちろん、旧時代からの幹部達は何も言えなくなってしまう。確かに自分達は、剣持によって救われた。その恩義は計り知れない。


「こいつがどうしても活躍したいというから、信じて送ったというのにな」

「ごめんなさい」


 なおも嫌味を言う剣持に、光男がうなだれたまま涙声で謝罪をする。


「謝ればいいって問題じゃあないが?」


 ネチっこく言い、光男を見下ろしながら鼻で笑う剣持。


 剣持は光男のことを日頃から馬鹿にしているし、心底嫌っていた。頭が足りないくせに努力だけは人一倍するし、性格も良くて人から好かれる。性格が暗くて人から好かれず功利主義の剣持からしてみれば、密かに抱いた嫉妬も手伝って、一番嫌いなタイプだ。


 やがて剣持が嫌味を言い終えて立ち去ってから、二人が言葉で嬲られているのを黙って見ていた構成員達が、声をかけてきた。


「ボス、気にするなよ。失敗は誰にだってある」

「そうだぞ。それに何のかんの言って、ボスはここで一番強いんだぜ。ボスに出来なかったことを、他の誰かなら出来たわけじゃないぞ」

「剣持だって、他にいい人選が出来なくてボスを頼るしかなかったんだ。そんなに文句あるなら自分で出ろっての」


 剣持は構成員の前で晒し者にして光男を辱めてやったつもりでいたが、完全に逆効果であり、構成員達はさらなるねぎらいと励ましの声をかけ続けるのであった。彼等は、剣持のことを心底嫌っていた。


「皆、ありがとうっ。僕皆のためにこれからもすっごく頑張っていくからっ」


 涙を拭い、明るい声を出す光男に、構成員達も顔を綻ばせる。陰惨な環境に有りながら、彼等はこの光男の笑顔とひた向きさに救われて、ここまでやってきたのであった。


「よくやってくれた。しかし遅かったな」


 一方、剣持は自室に戻る途中に、帰還した虹森夕月と顔を合わせ、こちらには素直にねぎらいの言葉をかけていた。


「尾行を懸念し、かなり念入りに遠回りに戻ってきたからな」

「そうか。引き続き何かあったら頼む。あんただけが頼りだ」


 おだてるわけではなく、本気でそう思う剣持。難易度の高い依頼であったにも関わらず、夕月は見事にやり遂げてくれた。

 この組織でまともな戦力になりそうなのは、光男と剣持しかいない。光男はいくら戦闘力が高くても、いろいろと危ういし、剣持は最後の最後まで出るつもりはない。そうなると、一番頼れるのは外部から雇ったこの夕月という事になる。


「わかった」

 言葉少なく、夕月は自室へと戻っていく。


(あの男の爪の垢でも飲ませてやりたい)


 夕月の背を見送りながら、光男を意識しつつ、剣持は口に出さずに毒づいていた。

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