第三十四章 17

 ケイトの、双方に矛を収めろという呼びかけを、ヴァンダムは一人、録画で視ていた。


「ふふふ……ケイトらしい。加えて、よいタイミングで現れたものだ。計算したな」


 妻のことが誇らしく思え、自然と笑みがこぼれる。


 ここは退いた方が得策であろうと、ヴァンダムの理性が訴えている。損得勘定だけを考えてみても、それが正しい道だとわかる。以前のヴァンダムなら迷うことなく退いていた。

 そのうえケイトが、互いに退きやすいようにお膳立てを立ててくれた。実にありがたいことだ。女にここまで動いてもらうなど、男冥利に尽きるとも言えるし、情け無いとも言える。ここで退かなければ――彼女にここまでやらせて、それでもなお意地を張るのは、ひどく不恰好でみっともない。ケイトの顔にも泥を塗る。


「悪いが飲み込めんよ」


 それらを全ての承知のうえでなお、ヴァンダムの出した結論は、退く事無く戦い続け、我を通す事であった。


「君は穢れなき心を持つ女神だ。私が尊敬し、崇拝する存在だ。私の爛れた心に潤いを与えてくれる存在だ。君との出会い、そして君と結ばれたことは奇跡だと思っている。それだけは、神とかいう愚物に感謝したい。しかし……私は薄汚れた心を持つ悪人なのだ」


 すでに映像は途切れている。録画した配信は終わっている。ディスプレイを見つめながら、小さく微笑み、ヴァンダムは夢見るような口調で、ここにはいないケイトに語りかける。


「君はどこまでいっても綺麗で、そして眩しい存在だ。正にこの世の奇跡だ。そんな君を妻とした事への感謝は、いつになっても私は忘れない。しかし……私の心の闇の中の影まで照らしきることはできない。何よりも……」


 そこでヴァンダムの肉声は途切れた。


(何よりもケイト、君のせいで私は今、意地を張っているのだよ。君と会う前のもっと悪い私であれば、損得勘定だけを考えて矛を収めたであろう。いや、それ以前に、戦いもしなかっただろう。君のために、君のせいで私は戦っている。なのに君が戦うのをやめろと言う。そんな状況で……私が引き下がれると思うか? 君にはそれがわからないのか?)


 心の中で、決して答えが返ってこない問いかけをひとしきり行った後、ヴァンダムは自嘲するかのように微笑んでかぶりを振ると、投影しっぱなしだったディスプレイを消した。


***


 ケイトの呼びかけがあった翌日。


 ケイトが公の場で、双方に退くように訴える――これは義久が最初に考えていた手だ。だが、いきなりこのカードを切っても、効果が無い。この争いで、双方が消耗するか、あるいは世間がどちらに対しても信用を損なった時、このカードを切れば効果的であると見なしていた。


「素直に聞き入れないのはわかっている。でも、世間はこう思う。ケイトさんの言うとおりにした方がいいんじゃないかってな。多くが無かった事にしろと望む中で、両巨頭だけが意地を張って争い続け、あまつさえ世の中の仕組みを勝手に変えようとしている。こうなるとさらに不審や反感は加速するわけだ」


 自宅にて、いつも通り犬飼とケイトを前にして、義久は腕組みしながら喋る。


「世間の反応を見た限りでね、かなりの有効打にはなっている」


 ネットを閲覧しながら、犬飼が言う。ケイトに賛同する声は、どこを見ても六割から七割に及んだ。


「でも……決定打ではないぞ? 最後のトドメは考えてあるのか?」

「うーん……それが無いんだよなあ、これが」


 犬飼に問われ、義久が頭をかく。


「これで退いてくれればいいという、希望的観測でしかない。もし退かなかったら……また次の手が要る。それはわかってたけど、俺の頭じゃここまでが限界だった」


 義久が言った。まだヴァンダムもテオドールも反応は無い。台詞からして犬飼は退かないと見ているなと、義久は思う。


「よし、純子達に相談するか。知恵を貸してもらうだけでもいいだろ」


 犬飼がぽんと手を叩いて提案する。


「知恵を貸すだけで実験台になれとか言われなければいいけどねえ」


 冗談めかして義久は言った。


***


 グリムペニスビル前に大きな変化が起こった。列を作ってがっちりとビル周辺を守っていた警察官とパトカーが、一斉に引き上げ始めたのだ。

 銀嵐館の護衛はまだ残っているが、警察に比べればまるで数が少ない。


 離れた場所でテントを張って待機していた刺客集団は、それまで呑気にだらだらしていたが、警察が撤退したのを見て、気を引き締める。


「何で急に撤退したんだろうね?」


 シャルルが腕組みして疑問を口にするが、答えられる者などいるはずがない。


「これ、もう突撃していいってこと? そういうことだよね? 私はいいと思いまーす。じゃあ行こう。すぐ行こう」

「待て」


 さっさとバイクに乗ろうとする正美を、アドニスが止めた。


「何か罠かもしれないな。一応依頼者に報告して指示を仰ぐ」


 そう言ってアドニスがテオドールに電話をかける。


『もう撤退してしまったのか……。予想より大分早かったな。さらに追加の刺客をそちらに向かわせるので、それまで静観していてくれ』


 テオドールからアドニスへの指示は、以上のようなものであった。


「つまり撤退させたのは、貸切油田屋の政治力による干渉ってことかなあ?」

「今の口ぶりからするとそうだな」


 シャルルが言い、アドニスが頷いた。


「いずれにせよ、そろそろこの無駄に平和な時間もおしまいだな」

「無駄なんかじゃありませーん。私、皆とお喋りして楽しかったよ? だからこれを無駄とは言わせませーん。アドニスさんは私とお喋りしたの、無駄だとでも思ってたの?」

「わかったわかった。無駄じゃないな。悪かった」


 言葉尻をとらえてきた正美に、アドニスは適当に謝罪しておいた。


(そっちが一方的に喋ってたのを、適当に相槌打っていただけだったがな)


 という事実は、この場で口にしなかった。一応はそれでも退屈凌ぎになっていたから。


***


 グリムペニスビル内では、警察が退いた件で、少しどよめいていた。


「どうして退いたんだ?」

「銀嵐館は残ってくれているみたいだけど」

「奴等はまだ動かないようね」


 エントランスに海チワワの面々が集り、ビルの外に注意を払いつつ、会話をかわしている。


「警察が守ってくれた日の間に、私も含め負傷者は皆戦線復帰できるようになったけど、本調子ってわけでもないわ」


 強化吸血鬼十一名を横目に、キャサリンが言った。皮膚移植を行ったので、火傷の痕は残っていない。


「敵が今すぐ来ないってことは、増援待ちでしょうね。それなりに数を揃えてくるはずです」

 と、テレンス。


「銀嵐館も戦ってくれるようだけど、あの中の何人かは私に色目を使ってたのよ。いやらしいわ。でも許しちゃう」

「それは気のせいですよ」

「まー、ボスったら嫉妬しちゃってえ」


 自分だけの世界の話をするキャサリンに、テレンスが笑顔で突っ込んだが、彼女は自分だけの世界から出てくることはなかった。


「警察が見放したからには、その気になれば物流を止めて兵糧攻めにもできますね。それが一番厄介です」

 と、テレンス。


「それは当分心配いらん」


 エントランスに現れたヴァンダムが言った。一応、様子を見に来た。


「そうなる気配もあったから、警察がいるうちに大量に保存食を仕込んでおいた。半年くらいはもつのではないか?」

「半年も立てこもるつもりでいるんですか?」

「ミスター・ヴァンダムは限度というものを知らないようね」


 ヴァンダムの言葉に、引き気味になるテレンスとキャサリン。


「まあ、このまま防戦ばかりでいるつもりはない。そろそろ私も動く」


 不敵な表情で宣言すると、ヴァンダムは踵を返し、執務室へと戻った。

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