第三十三章 21

「先生に言いつけてやる」


 それが小学生時代の烏腹の決め台詞だった。この言葉さえ出せば、どんな相手も黙らせることができる。烏腹にとっては伝家の宝刀であり、必殺技であった。


 烏腹は子供の頃から、自分以外の他人を全て見下して、馬鹿だと思い込んでいた。

 小学三年生の話だ。頭のいい自分が、馬鹿な他人にいろいろとわからせてやろうと、必死にあれこれ語ったが、ほとんど通じなかった。それどころか逆に馬鹿にされるという始末。

 話の内容は、ケイドロという遊びの仕方について、効率を語っていたような気がする。うろ覚えだ。しかし自分が馬鹿にされたという結果だけが、鮮明に記憶に残った。


(馬鹿のくせに俺を馬鹿にするなんて。ふざけやがって……。いつか目にもの見せてやるっ!)


 一生、脳裏に焼きつく屈辱を味わい、この時、烏腹の人生の方向性が決定づけられたといっても過言では無い。


 しかしそれよりもさらに酷い屈辱を、烏腹は小学四年生の頃に味わう事になる。


 下校中、上履きを洗うために持ち帰る日であったのに、学校に忘れたことを思い出し、学校に戻った時のことだ。

 烏腹は下駄箱に上履きをしまわなかった。イジメっ子の嫌がらせにあうので、教室に隠しておいた。教室までは毎日堂々と靴をはいて行ったが、気付かれることも無かった。


 同じクラスの女子が教室内で倒れていた。

 無防備に倒れている姿と半ズボンから露出した素足を見て、明らかに性の対象として意識してしまった。それが烏腹の性の目覚めであった。

 倒れていた理由は貧血であったが、倒れた女子に近づいて、こっそり体を触っている所を、他の女子グループに発見された。


 痴漢扱いされ、言いつけてやると言われた。実際少しやましい気持ちはあって、おかしな所に触ったのも確かだが、それでも烏腹はこれを屈辱の記憶として焼き付けていたし、自分が悪いことをしたとも思っていない。あんな所に扇情的な姿で倒れていた方が悪いと、今でもそう思っている。


 言いつける立場は自分でなくてはいけないのに、悪者として言いつけられたこと、これが絶対に許せない。あれほどの屈辱は無い。


 その屈辱の体験が、烏腹の原点となった。遮二無二勉強して、受験戦争のレールに跨って一流大学に入り、頭狂新聞の記者となった後、雑誌編集者も経て、今はフリージャーナリストとなったが、いずれにしても、言いつけて晒しあげて叩く側に回り続けた。人生を通して、そのスタイルを貫き続けてきた。


 一方で烏腹は、小学生の頃から反権力を掲げていながら、自身が権威と権力と社会のシステムに頼りっぱなしである事に、還暦を過ぎた今でも気がついていない。自覚が無い。


***


 都内の喫茶店にて接触した烏腹の様子がおかしいことに、肝杉はすぐに気がついた。

 何かあったか問いただすと、烏腹は赤村家前であった出来事を全てぶちまけた。


「そいつは確か……元朝糞新聞の記者だ。いや、嫁売新聞だったかな? あるいは酸刑……まあ、忘れたが、元ブン屋なのは確かだ。今は裏通りの情報屋になって、今は裏通り専門のジャーナリストとなった奴だな」


 肝杉は義久の存在を知っていた。


「裏通りか……本人も言っていたよ」


 正直、烏腹はその言葉だけでも暴力の気配を感じ、背筋が凍りつく想いになってしまう。裏通りの住人が相手では、法に頼ることも困難だ。下手をしたら殺されかねない。


 しかし恐怖よりも、プライドの維持の方が勝る。恐れてはいるが、退くという選択肢は烏腹の中には無かった。


「少し強引な手に出た方がいいかもな」


 烏腹がぽつりと呟く。赤村親子にはいずれまた働いてもらうつもりでいたが、このままではそれがかなわない気もする。それどころか、あの巨漢に言い含められて反旗を翻し、自分の立場が危うくなることも考えられる。


 保身の計算だけには長けた烏腹である。小学生の頃のあの屈辱。最初のケイト叩きへの手ひどい反撃を食らって、笑い者にされた時のあの屈辱。いずれも絶対に忘れない。そしてあんな体験はもう二度と御免だ。自分はもう一生のうちに、二度と晒し者にされて恥をかく経験など味わいたくないと、烏腹は強く思う。


「少し? 手を打つなら少しどころじゃなく大胆にいくべきだ」

 無責任に焚きつける肝杉。


「あんたさ、守りに入ってないか? それじゃダメだろ。今どんな状況かわかってないのか? ここは攻め時だと思わないか?」


 烏腹に対して、こういう言葉が効果的であることを肝杉は知っている。


 論理的に諭しても、プライドが病的に肥大化した烏腹は一切受け付けない。決して認めない。どんなに論破されたとしても、『自分は間違ってない。正しい。世界一正しい』と信じて疑わない男なので、無意味である。ならばそのプライドをチクチクと刺激するのが一番いい。あっさりと思い通りに動いてくれる。

 こういうタイプは烏腹だけに限った話ではなく、同業者に多いことを肝杉は知っていた。


「わかった。やってみる」

 烏腹がにやりと笑う。


(何をやるつもりなのかねえ……)


 二人のすぐ隣の席で、変装した犬飼が口の中で呟く。烏腹と肝杉の会話を側で聞き耳立てて録音していた。


(情報屋がやるべき仕事を素人の俺がするとか、もうね……)


 義久に頼まれて、烏腹を嗅ぎまわっている犬飼であった。


(あいつが烏腹の前に出なければなあ、俺だってこんなことしなくてもいいのに。あいつの体型は目立ちすぎるから、変装しても速攻でバレるだろうし)


 そもそも義久は普段、情報屋として尾行などの仕事をする際、一体どうしているのかと考えると、笑ってしまう。今回のように、尾行だけは他人に頼み込んでいるのだろうかと。


(しかし……こいつらは何でケイトに対して、やたら絡むんだろうねえ。こいつらだけじゃねーけど、そんなにジャーナリストを狂わせる要素があるのか?)


 先日も脳裏に浮かんだ疑問。引っかかっている疑問。しかしその疑問がずっと自分の中にある事も、犬飼は疑問を抱いている。何故その部分がずっと引っかかっているのか。


(記憶の引き出しの中にしまった何かが引っかかっている? あるいは俺も、こいつらと同じような感覚があるのか?)


 今はそれが何であるかわからないが、真実のパズルのピースがはまっていくうちに、それも解けるのではないかと、犬飼は漠然と考えている。


***


「知ってるか? 世界中の鼻つまみ者であるロリコンて、実は多数派なんだぜ」


 車を降りた所で、緑色のキャップを被った男が、相方である女性に話し仕掛ける。ジャンパーもズボンも、帽子同様に明るい緑で統一している。


「ゲームやマンガのメスキャラ人気投票でも、大抵ロリキャラ上位。エロ動画サイトにあがってるヤバい動画も、大抵ランキング上位にロリ動画がある。ま、すぐ消されちまうけどな」


 へらへらと笑いながら、男は喋る。


 彼の名は大杉宏。年齢は二十歳。裏通りの住人であり、そこそこに名の知れたフリーの始末屋だ。フリーではあるが、最近は一人で行動することは少ない。相方である女性と仕事をすることが多い。


「だから何?」

 その相方であるショートヘアの女性が、冷たい目で宏を睨む。


 彼女の名は甘粕瑞穂。十九歳だが、裏通りの住人としては、宏より一年以上先輩であり、裏通り歴三年で、裏通りにおいては充分にベテランと呼べる年数である。


「個人的にはヴァンダムに俺は賛成って話だよ。ロリコンが悪なんていう狂った風潮、メディアの陰謀でしかない。実はロリコンは生物的に正常なんだ」

「つまりあんたはロリコンなの?」

「どうかな? ロリコンが悪だというなら違うと答える。今は違うと言っておくさ。でもそうでない世の中になったら、正直に告白するな。おい、何故距離を取る?」

「キモいから」


 あからさまに離れて歩きながら、瑞穂は端的に答えた。


「俺がロリコンと言ってねーだろっ。大体俺がロリコンならお前なんか眼中に無いし、異性として認めてないから、距離を取る意味も無いし、俺からすると滑稽なんだよっ」

「つまりロリコンなんだよね?」


 喋りながら二人の歩く場所は、海に囲まれた人工島であった。目の前にはビルがそびえ立ち、隠れる場所は一切無い。グリムペニスの日本支部ビルである。


「今日だけでもう三組も襲撃者が返り討ちだってさ。俺達は四組目」

「質の低いのを雇っているのか。それとも敵が強すぎるのか、どっちなのかね」

「両方ってこともありうるぜ。お、出てきた。あっちも二人か」


 ビルの中から現れた、カウガール姿の白人女性と、スタイルのいい黒人男性の二人組を確認し、瑞穂と宏は戦闘モードに気持を切り替えた。


「ねえ……私のビッチセンサーが、あの男に物凄い拒絶反応を発してるの。見た目は普通の男と変わりないのに。何故かしらね……」


 宏を見ながら、キャサリンは太い両腕で己の肩を抱きつつ、小刻みに震える。


「知らん」

「何か途轍もないおぞましさを感じる。用心した方がいいかも。女としてどうしても受け付けない何かがあるわ。貴方も気をつけてかかりなさい」


 キャサリンが注意するが、ロッドは面倒なのでそれ以上取り合わずに、その場でファイティングポーズを取った。


「男は男同士、女は女同士でいくか? しかもあの黒人の男の方は拳でやるつもりみたいだし、これまた俺好みな相手だ」

「こだわることはないわ」


 宏の言葉にそう答えつつも、瑞穂はキャサリンの方を見据えていた。

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