第二十九章 2

 その日、一人の患者が安楽市民病院へと運ばれた。

 患者は十七歳の少年で、名前は佐野望。昼間から酔っ払い運転をかましていたトラックドライバーの人身事故により、頚椎骨折、脊髄損傷、右手二箇所右脚一箇所を粉砕骨折、左手と左足をそれぞれ一箇所単純骨折、上顎骨骨折、肋骨三箇所骨折、腰椎横突起骨折、内臓も複数個所出血が見受けられ、意識不明の重体。


 亜希子はその日、デートの予定だった。幸福な時間を味わうはずだった。大好きな少年と、甘い時間を過ごす予定だったのに、底意地の悪い神の悪戯によって、今は恐怖に震える時間を味わうことになっている。

 そんな亜希子が廊下の椅子で必死に祈り続けていた。神様は糞ったれだと何度も罵った彼女が、必死に神に祈っていた。望を酷い目にあわせた神へと、必死に祈っていた。望の無事を。望が死なない事を。望が意識を取り戻すことを。


 しばらくして、望の親友である大槻武麗駆がやってきた。亜希子は泣き顔をあげただけで、何も声が出なかった。


「ふざけんなよ……望まで死ぬってのかよ……」


 つい先日、恋人を交通事故で失ったばかりの武麗駆が呻く。


「死ぬって決まったわけじゃないわ。まだ生きている」


 そう言ったのは亜希子ではない。先程まで担当医と話しこんでいた、望の母親だ。亜希子とも何度か会って話したし、御馳走してもらったこともある。とても気さくでよい人というのが、亜希子の印象だ。


「お医者さんの話では、今夜がヤマだって。今、父親にも連絡したところよ。あなた達……よかったら、神様に祈ってあげて。それくらいしか、今の私達にできることはない。望を連れて行かないよう……祈って……あげて」


 言葉途中から、必死に平静を保とうとしていた望の母は涙声になり、その顔がしわくちゃになる。それを見て亜希子も嗚咽を漏らし、武麗駆は拳をキツく握り締めた。


「神への祈りか。ナンセンスだ」


 哀れむような声がして、三人は顔をあげる。


 そこに異様な光景があった。半裸の美少女達四名と、少女達によって担ぎ上げられ、少女達の肩と腕の上でゴロ寝した状態の、燕尾服姿の血色悪そうな肌の痩せ細った男。

 今の心無い一言が、この男の口から発せられたことはすぐにわかった。見下したような目つきで、親しい者の安否を気遣う三名を見下ろしている。


「神などというものに縋っているからこそ、いつまで経っても人の精神性は進化せぬのだ。文明がいくら発展してもな。人を救うのは人でしかない」


 蔑みではなく、確信を込めて、確かな力を込めて、少女の上で寝転ぶ男は言い放つ。

 この町の名物である霧崎剣教授であることは、三人共知っている。


 亜希子は何か言い返そうとして、できなかった。武麗駆も頭が沸騰しかけたが、霧崎の放つオーラに圧されていた。


 霧崎と美少女達はそのまま病院の奥へと向かった。


(何なのあいつ……。正論ぶってるけど……私には救う力なんて無くて、祈るしかできないってのに……人の気も知らないで……)


 悔しさと怒りを覚えたが、今ここであんな変人に食ってかかっても仕方が無いと、自分に言い聞かせる亜希子だった。


***


 深夜に望の父親もやってきた。


 望の両親は亜希子と武麗駆に家に帰るよう促したが、二人共従わなかった。

 四人は病院で一晩明かした。一睡もせずに、手術が終わるのを待った。


 そして翌朝、非情な現実が二つ、亜希子達へと突きつけられた。


 まずは一つ目、脊髄損傷による全身不随の可能性が高いという事実。これだけでも悲嘆するには十分であったが、二段構えの追い討ちが待っていた。

 さらにその数十分後、自発呼吸が停止し、瞳孔の4ミリ以上の散大と固定が見受けられ、平坦な脳波と、脳幹反射の消失、そして深い昏睡状態という五つの状態が確認され、望は脳死状態の一回目の判定がなされた。現在は人工呼吸器で呼吸と血液循環の機能は保たれているが、装置を外せば確実に死に至る。


 そして今から六時間後、もう一度脳死判定を行う事になっているという。望は健康保険証に、臓器提供意思表示に『提供する』という形で登録を行っていた。そのため、この二回目の脳死判定が行われた時間が、死亡時刻とされる。


 絶望の現実を前にして、望の両親と親友と恋人は、悲嘆に暮れていた。


***


「脳死は想定外であったな」


 少女二名に人間椅子を作らせて腰かけ、ベッドに寝る患者を眺めながら霧崎は言った。


「教授がつい最近、脊髄損傷による神経伝達機能の回復を実現したと聞きまして、至急お呼びした所です。しかし……」


 霧崎と知己の担当医が告げる。


「うむ。本当に最近だがな。脳減生理学医学賞を幾つ貰っても足りない偉業だと、自分では思っているよ」


 沈鬱な表情の担当医とは逆に、ニヤニヤとおかしそうに笑いながら、呼吸器で生かされているだけの状態となった患者を見て、霧崎はさてどうしたものかと思案する。

 サイボーグ工学を医療に用いる霧崎は、つい最近まで、脊髄損傷によって生じる不全麻痺、完全麻痺の治療に取り組んでいた。そして見事に、サイボーグ化手術によって確実に治療できる事を実証してみせた所である。


 昨日連絡を受け、霧崎も手術に立会い、病院で一晩明かした所だ。

 霧崎の知己である担当医は、家族にサイボーグ化の手術を行うことで助けられると前もって告げはしなかった。まず命を助けられるかどうかの問題があったからだ。そして一命こそ取り留めたが、生命維持装置を取り付けていないとその命を維持できないという有様だ。


「手はまだある。私の管轄外であるが……」

「どういうことです?」


 霧崎の言葉に驚く担当医。脳幹機能が一部ないし全て残ったまま、意識だけが無い植物人間状態からであれば、回復例もある。しかし脳死からの回復例は無い。また、完全な脳死に陥った場合は、そう長くもつこともなく、数日以内に心臓も停止する。脳死の時点でそれは死なのだ。そこから回復など有り得ない。


「脳死は死ではない。術師共の定義では、それはまだ完全に死とは呼ばぬのだ。脳だけの死であれば、そこからの回復ができる可能性はある。医療を超越した、超常の術を使えばな。しかし……」


 霧崎の言葉に担当医が驚く一方で、霧崎はそれ以上の言葉を濁している。


「それでもなお五分五分だな。まずは知り合いに連絡して、脳機能の回復を頼むとしよう。しかしそれでも……霊魂がすでに無ければ……」


 無駄足だ――と、声には出さずに霧崎は付け加えた。


***


 亜希子は六時間後の死亡判定前に、自分のできることをしようと試みた。

 それが何かと言えば、自宅に戻って、百合に縋りつく事であった。


「限りなく無理ですわ」


 亜希子の口から状況を説明され、望を救うように泣いて懇願された百合の口から出た言葉は、極めて無情な代物であった。


「意地悪をしているわけではありませんわ。本当に私には無理ですのよ」

 珍しく真顔で百合が言う。


「脳死は私の手に負えない領域ですのよ。それでも強引に治すには、一度完全に死なせる必要がありましてよ」

「治すには死なせるって……」


 意味が分からず、絶句する亜希子。


「医学的――肉体的な死を指していますわ。一度死体にして、その死体をいじって再稼動できるようにしてから、肉人形に霊魂を入れるのですよ。でも、それは例え本人の魂が宿っていても、良く出来たゾンビですわ。人とは言えない代物になりますわね。定期的なメンテナンスをしないと肉体も崩れてしまいますし、もちろん歳も取りませんわ。実質上の死人のようなものですから、他にも様々な弊害が生じますわね」


 百合から聞かされた話は、この時点でも、亜希子から希望を奪って絶望へと突き落とすに十分すぎたが、百合はさらに話を続ける。


「それと……脳死した場合、その人の霊魂はすでに体から離れている可能性が高くてよ。そうなっていれば、その時点で肉体がかろうじて生きていても、実質的には死んでいましてよ。あるいは逆に、霊魂がすでに離れてしまったが故の、脳死ということもありますわね。医学の死の定義は、肉体機能の修繕の不可能を指していますが、私に言わせれば肉体からの霊魂の剥離こそが、完全なる死ですわね。霊を操る術に長けた術師達であれば、皆そのような認識でしょう」


 聞きたくない、知りたくない現実を淡々と伝え続ける百合に、亜希子は震えながら涙していた。

 百合はいつもの意地悪で、そんなことを口にしているわけではない。ただの現実を口にしているだけだ。受け入れたくない現実でも話さなければ、亜希子は納得しないだろう。諦めもつかないだろう。


「そうなったら誰であろうと蘇生は不可能ですわ。それは死者を生き返らせるに等しいことですし、死霊術という死と生を司る術を極めている私でさえ、死者の復活を成功させたという話など、聞いた事もありません」

「つまり……ママにはどうにもできないっていう結論なのね……?」


 気の抜けた顔で尋ねる亜希子に、百合は節目がちになって頷いた。


(やれやれ……こんなこと、私の口からは言いたくないのですが、仕方ありませんわね)


 自分にはどうにもできない。しかし、どうにかできそうな人物なら、百合は知っている。


「純子に頼みなさいな」

 重い溜息をつき、百合が促した。


「私にどうにもできない領域でも、もしかすればあの子なら……。ただし、霊魂が死を認識して受け入れ、肉体から離れていた場合、純子にもどうにもできないことは覚悟しておきなさい」


 百合のその言葉に、亜希子が覚悟できたかといえばノーだ。ただただ残された希望に闇雲に縋るつもりで、亜希子は純子に電話をかける。


『んー、それは亜希子ちゃんの望みでしょー。本人の望みじゃないと駄目だよー』


 純子に事情を話し、返ってきた答えはそんな代物だった。


「意識が無いのに、そんなことできるわけないじゃないっ!」


 この期に及んで純子の独自ルールを出したことに、猛然と腹を立てて叫ぶ亜希子。


「友達でしょ……何とかしてよ……私のこと何回でも、何十回でも実験台にしていいから、望を助けてよぉ……うぐっ……ううぅ……」

『とりあえず病院名と、行く日取りをそちらで決めてくれ。僕が首に縄をつけて雪岡を連れて行くから』


 純子から電話をひったくった真の声に、すすり泣いていた亜希子の泣き声が止まった。

 首に縄をつけてでも――ではなく、首に縄をつけてと言い切る真に、場違いながら、百合は笑みをこぼしてしまう。いかにも真らしいと。


「今日じゃないと無理なの。六時間後……いや、もうあと五時間切れば、二度目の脳死判定出されちゃうって……」

『脳死?』


 真から電話を取り返して、純子が再び出る。


『その彼氏さんは、脳死なの?』

「うん……ひっく……だからママも……ひっく……無理だって……ママが純子に頼めって……ひっく……」

(もう……この娘ったら、余計なことを……)


 泣きながら言う亜希子の台詞を間近で聞いて、百合は顔を押さえる。


『あのね、亜希子ちゃん、落ち着いて聞いてね』


 純子が珍しく神妙な口調になる。その口調と台詞だけで、亜希子は最悪の予感を覚えた。


『脳死からの蘇生は私でも無理だよ。脳死の時点で脳に血液がいかなくなっている状態だし、そうなると脳は短時間でどんどん融解していって、そこから回復ってのは絶対に……』

「やめて! もう聞きたくない!」


 亜希子が叫び、電話を切り、わんわんと大声で泣き出した。


「亜希子……」


 百合が自然に亜希子の元へと寄り、泣き喚く亜希子を抱きしめる。自分でもらしくないことをしていると思ったが、どうしても放っておけなかった。


「ママぁぁ~っ」


 自分を抱きしめる百合に身を預けて、亜希子はしばらく泣き続けた。

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