第二十九章 1

「や……やっと、着いた……」


 カンドービルの地下へと降りる秘密の階段と通路を抜け、雪岡研究所と書かれたガラス張りの入り口を前にして、その女性は安堵の面持ちで呟いた。

 年齢は二十代前半。女性にしては背が高く、身長180近くあると思われる。グラマラスではないが、足はスラリと伸び、腰のくびれも服の上からはっきりとわかり、機能的なデザインの黒いスーツとスラックスで身を包んでいる。髪はショートにしているが、さらさらとした綺麗な黒髪である。顔には全く化粧をしておらず、やや浅黒い肌が露わになっていた。小作りな顔立ちは十分に美人の範疇に入る。


「たのもーっ!」


 女性がよく透る声を張り上げるが、当然反応は無い。


「たーのーもーっ!」


 少し間を置いてからもう一度叫ぶが、やはり反応は無い。


「遠路遥々訪ねてきたというのに、留守であろうか……。いや、厠ということもあるやもしれぬな」


 女性が呟き、その場で反応を待つ。


「何か凄いのが来たよ……」


 一方、雪岡研究所内では、モニターで研究所入り口に現れた女性を見て、純子が苦笑いをこぼしていた。


「実験台志願じゃないのか? 放っておくのもどうかと思うし、出迎えに行ってやれよ」

「んー、そんな話は入ってないけどねえ。とりあえず行ってくる」


 真に促され、純子は立ち上がり、入り口へと向かう。


「おお、いらっしゃったか。某、木島一族の頭目を務める木島樹と申す。御高名な狂的科学者、雪岡純子さんであらされるか?」


 時代劇でしか聞かないような古風な喋り方で、長身黒スーツの女性――木島樹の方から切り出した。


「そ、そうだけど……実験台志願の人ー?」

「如何にも。我々木島一族は大正の世より、名誉ある霊的なる国家鎮護の任を帯びたる身の上なるが、恥ずかしながら年月を重ねるごとにその数を減らし、一族の力は弱くなりていき、このままでは霊的国防の役目も解かれるやもしれず。そこで白狐弦螺殿に相談したところ、高名なる雪岡純子殿の力を借りてみよという助言を授かり、漸うここに辿りついた次第。見つけるのも苦労して、片っ端から聞き込みをして、本当にようやっと見つけき次第」

「えっとー……うちはまず、うちのサイトを見た人に、事前にメールで連絡をしてもらって、予約を取ってから……ていうのを、弦螺君から聞かなかったのー?」


 嬉しそうな笑顔で経緯を語った樹に、純子が問う。


「ふむ。何やらそのようなことも申していたようだが、生憎某、極度の機械音痴にして機械アレルギーであるが故、携帯電話も身につけず、インターネットなどというものも触れたくは無きに候」

「そっかー……でも、それがうちのルールなんだよねえ。機械に触れたくないっていうのは、そっちの都合だし」

「そ、そうか……しかしながら、こうして会えたのであるから、何卒便宜の程を」


 純子の言葉を受け、樹は一瞬申し訳無さそうな顔をした後、深々と頭を下げる。


「ようするに実験による改造志願なんだよねえ?」

「如何にも。まずは某が一族の先陣となり、この身を用いて試してみるが故、結果、某が納得ゆくものならば、木島の同胞らにも同じ術式を施して欲しいと存ずる」

「いやー……うちのコンセプトとしてはねえ……まあ、ちょっと中で話そうか」

「かたじけない」


 その後、純子は樹を応接間へと入れ、そこで雪岡研究所のルールを全て語った。


「あの者……人ではありませんよ。かなり強大な、そして純度の高い妖怪です」


 廊下で樹の姿を目撃した累が、横にいる真に声をかける。二人共、いつにも増して変人な来客が訪れたので、様子を見に来た。


「純度?」

 真が訝る。


「妖怪は元々人に造られたものですが、その子孫の多くは、妖怪同士によるカップリングではなく、人の血が混ざるものです。人の血が混ざれば人としての特性のほうが濃く出て、妖(あやかし)としての力は薄れていきます。しかしあの娘は、おそらく幾度も妖の血のみを重ねて、妖としての性質を強めた、言わば妖のサラブレッドですね」

「なるほど」


 累の説明を聞いて納得しつつ、真は応接間の扉の前で、中の会話に聞き耳を立てる。


「何と……命に関わる危険な人体実験を経てと申すか。それは困る。いや、一族の頭目である某であれば、命をかけて一族の支えとなっても構わぬが、同胞を然様な危険に晒すわけにはゆかぬ。某にはどのような危険な実験を施しても構わぬが故、同胞には手心を加えてほしい」


 そう言って樹はわざわざ立ち上がり、また深く頭を垂れる。


「んー……まあ特別扱いでいいかな。教授との遊びで、丁度マウスが複数欲しかった所だし。ストックのマウス使う予定だったけど、私としては新しい方がいいし」


 自身には理解できても樹には理解できないことを呟く純子。こっそり聞いている真と累も、純子の呟きが何を指しているか知っていた。


「その代わり、樹ちゃんだけは少し危険な手術を施すよー?」

「い、樹ちゃんっ……」


 ちゃんづけで呼ばれた樹が顔を真っ赤にしてのけぞる。


「失礼。かくの如き敬称で呼ばれるなど、免疫無き故。ううむ……いつぞや振りであろうか。承知つかまつった。大きな力を手に入れるには覚悟も必要。その責も代償も、頭目たる某が引き受けたるが、道理であり筋道。しかし木島の同胞にはどうか手心の程を」


 また深く頭を垂れる樹。


「木島一族ですか」

 扉を開き、累が声をかけた。


「この者は?」

 樹が尋ねる。


「雫野累と申します。大正の世の人と妖怪の戦において、擦れ違いではありましたが、木島の鬼達とは相対する立場で、同じ戦場に立ったことが有ります」


 実際には敵対するつもりはなかった累であるが、結果的にはそういう形となった。


「あ、あの高名な雫野の開祖であらせられるか。最も神に近付いた術師と言われし」


 実は純子の名は弦螺に聞くまで知らなかった樹であるが、累の名は知っていた。超常関係の知識には、流石に明るい樹である。


「鬼って?」

 真が累の後ろから尋ねる。


「木島一族は、鬼というポピュラーな妖怪です。かつては人と相対する間柄でしたが、大正の世に歴史の裏で行われた、人と妖の大戦を経て、人の軍門に下り、その後は霊的国防の任に就いたと聞き及んでいます」

「如何にも。しかし現在その立場が危ぶまれているが故、こうして力を仮に参った所存。今や戦える木島の者は私を含め、四名のみ」


 累の解説の後、樹は少し声を沈ませて言った。


「最近、新たな超常機関が設立され、霊的国防を任されるとあり、そちらに多くの予算を回され、我々の予算は大きく削減された次第。無念なりけり」

「それ、殺人倶楽部のことじゃないか?」


 樹の話を聞いて、真がその名を口にしたので、純子の顔がどんよりと曇る。


「おお、その物騒な名も聞き及んでいる。新機関の前身の組織名であろう」

「その殺人倶楽部のせいで食い扶持を減らされ、その後も危機か。大変だな。いや、災難だったな。正直腹が立ってないか?」

「いや、恨むは筋違い。我等木島の力が、衰えしことが原因故」


 真に同情されるも、謙虚な姿勢を保つ樹。


「雪岡、可哀想だとは思わないか? ちゃんと協力してあげた方がいいよなあ。人助けならぬ鬼助けで」

「あ……そ、そうね……」


 真の顔を見ると、珍しく微笑んでいた。いつも無表情な真がたまに表情を見せると、純子はとても嬉しくなってしまうものだが、この時ばかりはいまいち嬉しくなかった。


***


 霧崎剣は安楽市絶好町の片隅に、研究所を持つ。


 研究所ではあるが、その外観は城のような巨大な洋館だ。しかし中はちゃんと研究施設となっている。自宅も兼ねているので、居住エリアは洋館そのものであるが。


 所員は全て女性。それも明らかに容姿が水準以上の美少女達だ。皆白衣姿だが、白衣の内側は、下着か、エロ水着並に露出度の高い服の着用を義務とされている。そして危険な作業以外、白衣の前ボタンをかうのも禁止されている。故に、白衣の隙間からちらちらと素肌や胸の膨らみや太股が見え、ひどく扇情的な格好となっている。


「ふっふっふっ、雪岡君と遊ぶのは久しぶりだな。こちらの仕事が忙しくて、中々相手ができなかった」


 様々な機材が所狭しと置かれた研究室にて、霧崎は細い脚を机の上に投げ出し、虚空を見上げながら微笑む。彼の座る椅子には当然美少女が座っていて、その上に霧崎は身を預けている。


「とはいえ、こちらの準備がまるで整っていない。今回は私の方がヒーロー側だったな。うむ。ヒロインでもいいが」

「昨日まで忙しかったもんねえ、教授」


 霧崎が身を預けている少女が言い、霧崎の脇の下から両手を回して、霧崎の狭い肩を前から揉む。霧崎は心地良さそうに目を閉じる。


「その前に二つほど仕事が入りそうですよ」


 霧崎の隣の席でディスプレイに向かって作業をしていた美少女が告げた。彼女もまた、布面積の薄い服で恥部を際どい所で隠して、その上に白衣をまとうという、淫靡な格好である。


「一つは『貸切油田屋』の息がかかっていると思われる、安楽市へと進出してきたイスラエルマフィアの件」

「ほほう。あの悪党共め、性懲りも無くまだ私に楯突こうというのか」


 報告を受け、霧崎はにたりと笑う。


「あいつ等は教授の野心を真に受けているもんねー」

 別の少女がおかしそうに言う。


「つまり見方を変えれば、私のことを認め、警戒しているとも言えるな。うむ。その目の確かさは褒めてやらんでもない。しかし奴等は、常に被害者意識を掲げながら、その実、悪意と差別主義に満ちた、正真正銘の屑。くだらぬ最期を遂げたチョビヒゲに代わって、私が滅してくれるわ」


 不敵な笑みをひろげ、宣言する霧崎。


「もう一つは何かね?」

「安楽市民病院に運ばれた重体患者の治療に、教授への依頼が来ています。つい最近まで教授が行っていた研究が、早速役に立ちそうです」

「ふむ。その患者にとっては不幸中のスーパーラッキーであるかもしれんな。私の技術が早速役に立つやもしれぬのだから」


 そう言って霧崎は電話をかける。


「雪岡君、すまんがもう少し時間を引き延ばしてもらってもよいかね? いろいろと立て込んでいて、こちらの準備が整っていないのだよ」

『いいよー。こっちもようやくマウスの見込みがついたところだしねえ。最近募集無かったし、放し飼いのストックを使おうかとも思ったけど、どうせなら新しいのを用意したいしー』

「ふっ、その気持ちはよくわかる。私も同様だよ。真心込めて造った新作の御披露目こそ、ゲームの華。試用も兼ねて一石二鳥。うむ。当然の想いであるな」

『じゃあそういうことでー』


 電話を切る。


「都合が良かったな。雪岡君の方も待って欲しいとのことだ。」

 同室の研究員達を意識して言う霧崎。


「二つの案件、早速片付けに行こう。まずは重体の患者からだな」


 霧崎が立ち上がると、手近にいた研究員の少女達が反応し、霧崎の前へと集結する。霧崎の前の床で前方に伸びる列となり、その場にかがんで丸まり、背中を見せる。

 その少女達の背中を踏みつけて、霧崎は歩いていく。一番手前で丸まっていた少女は、霧崎が歩いた後に立ち上がって素早く最先端へと移動し、またかがんで丸まって背を見せる。


 床であろうと決して足をつけないのが彼のポリシーである。そして少女達もそれを知っているが故、霧崎の移動時はこうして彼の足場となるのが、彼女達の重要な務めであった。

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