第二十八章 18

 帰宅したユマは、今日、安息所で美香と話ができたことを思い出し、一人にまにまして喜んでいた。

 最初は嫌悪感でいっぱいだった相手だというのに、今やすっかり魅力的な人物だと、ユマは美香のことを認識している。


 何か新しい世界が開けてくれそうな、そんな期待に舞い上がっていたその時――


『すっかりいい気になって油断しているけど、思い通りに事が運ぶと思っているの?』


 ユマだけに聞こえる、悪意たっぷりのあの声が響いた。


『あんたが何かやって上手くいったことなんて、今まであった? これはあなたをより深い奈落へ突き落とすための、神様の意地悪な罠よ。持ち上げといて落とした方が、ダメージも大きいでしょう?』

「違う……。違うっ。お前は出てくるなっ。後ろ向きなことしか言わない糞ったれのくせしてっ!」


 声に出して喚くユマ。せっかくいい気分になっていたのに、こんなタイミングで囁いてくることが、実に腹立たしい。


『何が新しい世界が開けてくれる、よ。他力本願。メロスに導いてほしい、疑いの王様か何かみたいな無様さ? あるいはその作者みたいな? ああ、無様』

 自分を罵る声が笑う。


『そういえばあんたは華子のことが好きだよね。だって、あの子……馬鹿だし』


 押し黙ったユマに、声はさらに追い討ちをかけるかのように語りかける。


『自分より下の奴がいると安心できるもんね』


 声が何を言いたいか、全て喋らなくてもユマは理解している。


『でもね、本当は華子よりあんたの方がずっと下なの。華子も馬鹿だけど、あんたはそれ以下の馬鹿で屑。華子もそれは見抜いている。あんたが華子を馬鹿にして、下に見て、それで安心している事も、華子は見抜いている。あんたのいない場所で、真菜子にそのことも話して、姉妹揃ってあんたのことを笑ってるよ』

「で?」


 冷めた声で、ユマはせせら笑う。


「お前は……私。後ろ向きな発想しかしない馬鹿な私。私の中にずっと居続けて、まるで悪魔みたいに私を貶める私。で? それって楽しいの? うん、楽しかった。自分で自分を貶めて、私は楽しんでいた。だからお前を受け入れてた。だからお前を好きなように喋らせていた。今までは……」


 虚空に向かって喋りながら、ユマは美香のことを意識していた。あの眩しくも熱い少女を考えただけで、自分の中のどろどろした闇が浄化されるような、そんな気持ちになれた。


「でも、もういい……。お前はいらない。つまらない。お前に構っていても楽しくないから、もうおしまい」


 頭の中で、最早声は響かなかった。

 自分で自分の制御は出来る。唐突に出来るようになった。何故か乗り越えてしまった。理論で感情を打ち破ることが出来たように思えた。


(いや……理屈じゃない)

 己の考えを否定するユマ。


(心を制するのは心。私の心が強くなったから……。もしも弱くなったら、きっとまたあんたが出てくる。ドリームバンドでのしつこい矯正の成果もあったかもだけど)


 できればもう二度と、後ろ向きなことばかり言うあの声を出す自分とは、会いたくないと思うユマであった。


***


 夜の雪岡研究所。

 昨日のうちに、赤猫を発現させた七号の脳波を検査し、CTスキャンで脳の様子も写真に収めたが、どちらにも異常は無かった。


 純子は今日一日情報収集に努め、似たようなケースが無いか世界中から情報を集めた。突然発狂して身近の者に襲いかかるという話は、幾つか見受けられたが、大概が薬物による副作用か、オカルト関係の代物であったし、何より、殺意の直前に脳内にヴィジョンが浮かび上がるという話は、一件しか見つけられなかった。

 その一件は、重度の統合失調症を煩う精神病患者が、身内や友人を殺してまわる際、自身が狼になって人を食い殺すヴィジョンが必ず見えたという話だ。しかしこれも、今自分達が直面している事件とは、あまり関係無さそうだと、純子は判断した。


「八丈勝美さんは健常者だったし、精神病云々は無関係だろうねえ。何よりも、あの場所を訪れた人達全て、赤猫に憑かれる可能性があるっていうのは、ハメ系のそういう能力か術を持つ人が知らないうちにこっそり仕掛けたと考えるのが、無難だと思うんだよねえ」


 リビングにて、みどりと累を前にして純子は言う。すでに夕食は終えている。


「でもさァ、あたしや御先祖様や純姉が、その術をかけられた気配を全く感じてないし、その痕跡さえわからねーってのは、流石に腑に落ちなくね?」

 みどりが異を立てる。


「しかし他に考えられませんよ。術と一口に言っても、形態が激しく違えば、察知も難しいものです。能力もまた然り。超常の力の作用に対して、常に注意深く身構えてでもいない限り、誤魔化すことだってできるでしょう」

 さらに異を立てる累。


「ふわぁぁ~、そうだけど……何か違うと思うんだよね」


 みどりが腕組みし、首をかしげて考えこむ。漠然とした勘にすぎないが、何か致命的な見落としがあるような、そんな気がしてならない。


「ペペさんも赤猫を発現させて、ユマちゃんを殺しかけたって話だけど、上手く逃げられたみたいだねえ。私達も、もし身近な誰かが赤猫を発現させたら、無理せずさっさと逃げた方がいいよー」

「逃げられない状況とかでも無い限り、そうした方がいいとは、あたしも思うわ。でもさァ、みどりからすると、みどりの前で赤猫憑きが現れるってぇのは、逆にチャンスなんだよね」


 純子の言うことももっともだと思ったが、みどりからしてみれば、赤猫が憑いた状態の人間の精神にダイヴして、その状態を探ることで、その正体に近づけるかもしれないという考えである。


「赤猫を一度発現させた人を探ってみても何もわかんなかったけど、現在進行形で憑かれた状態なら、流石に……」


 みどりの言葉は途中で止まった。


 目の前の純子の顔から表情が消えていた。

 目の前の純子の瞳から鮮やかな真紅の虹彩も消えていた。瞳孔が広がり、瞳がほぼ黒く埋め尽くされていた。

 ぞっとするくらいの冷たい無表情の純子が、氷の刃物を無数に散らすかのような電磁波を放っていた。


「嘘だろ……純姉……」


 みどりが引きつった笑みを浮かべて呻き、立ち上がり、身構える。


(まさか純子ですら、赤猫に取り憑かれるなんて……)


 累も静かに立ち上がる。過ぎたる命を持つ超越者たる自分達三人までもが、すでに赤猫という異物を精神の中に侵入させているという現実に、累は驚いていた。


「みどり、逃げましょう」

「御先祖様が先に逃げて。あたしはちょっとの間食い止めてから――」


 それぞれの位置からすると、累は純子よりもリビングの扉に近い位置にいるが、みどりは扉との間に純子がいる。


「それなら逆でしょう? 僕が止めている間に、みどりがこっちに来てください」


 みどりの言葉を遮りつつ、累は漆黒の刀身の妖刀『妾松』を抜き、構えた。

 最初はみどりを見ていた純子であったが、先に戦闘体勢をとった累の方へと反応した。


 かつて累は、純子と戦ったことがある身である。その後も純子が実際に戦闘を行っている場面は何度も見ているし、稽古もしているので、大体手の内はわかっている。

 何パターンかの攻撃の予測を立て、対応して動くつもりでいる累に、純子はその予測の内の一つである攻撃を繰り出してきた。

 その場で純子が右腕を振るうと、肘から先が消え、累の腹部の直前に、肘から先の腕が現れ、そのまま累の腹を突き破る。


 累は自分の体を貫く純子の手に、黒い刃を軽く添える


「黒蜜蝋」


 一言呟き、術を発動させると、黒い刃から黒い油のようなものが溢れ、純子の腕に染みこむ。するとたちまち純子の右腕が、真っ黒い蝋へと変化する。

 純子が腕を引く。空間の扉も閉じ、黒蝋化した右腕が、純子の肘から先の位置へと戻った。


(体の一部の空間越えは、セオリーすぎる攻撃ですね。どこに現れ、どの角度から飛んでくるか読みづらいので、わかっていても対処しづらい。ましてやオーバーライフの中でも、近接戦は格段に強いと言われている純子が相手では尚更……)


 純子と向かい合い、懐かしくも心地好い感触に包まれながら、累は次の手を予測する。


「御先祖様、本気?」


 問いかけつつ、みどりは精神分裂体を純子の精神の中へと潜り込ませていた。今こそ赤猫の正体を探る絶好の機会だ。


「足止めだろうと全力で臨まないと、純子は止められませんよ」


 嬉しそうな笑みを張り付かせて、累は告げた。


(うっひゃあ、御先祖様に火がついちゃってるわ……)


 戦いを好む累が嬉しそうにしているのを見て、みどりも思わず笑みがこぼれる。

 純子がやにわに、黒蝋化した右腕を自ら砕いた。その行動は累にとって予想外だった。


(再生能力に自信があるなら、使い物にならなくなった右腕を砕いたうえで再生するというのも、わかります。しかし純子は再生能力が乏しかったはず……)


 それ故に、戦闘の開幕で黒蜜蝋の術で右腕の機能を奪った事は、純子が近接戦闘を最も得手としている事を含め、累にとっては大きなアドバンテージであった。だがこの行動は不可解だ。

 いずれにせよ片腕は使えなくなった状態なので、有っても無くても大きな違いは無いが、それにしてもわざわざ破壊するのは何故か? 正気の純子なら遊び心の演出で、そのくらいはやりそうだが、今の赤猫憑きの純子がそんなことをするのは考えにくい。


(頭の中が殺意一色になって、殺すことに全てを注いでいるとしたら、意味のある行動に違いありませんね。警戒しておかないと……)

 累はそう判断した。


 片腕となった純子が、累へと迫る。

 累が刀剣を突き出し、純子の喉を貫かんとするが、純子はわずかに上体を横に逸らして、累の突きをかわす。


 何を思ったか、純子はたった今破壊した、肘から先を失った右腕を振るって攻撃してきた。断面から血が飛び散る。

 もしかしてその血に何かあるのかもしれないと思い、累は血にもかからないようにして、大きく身を引いてかわす。オーバーライフ同士の戦闘は、相手がどんな手を使ってくるか全くわからない。全てにおいて警戒して臨まないといけない。


 肘から先の無い腕を振った直後、血が流れ出る切断面を累めがけて突きつけた格好で、純子の動きが止まる。


「神蝕」


 訝る累の前で、純子が呟いた直後、純子の右腕の切断面から、物凄い勢いで何かがあふれ出た。それは赤い奔流のように、累めがけて襲いかかった。

 純子の腕の切断面からあふれたそれが何であるか、累もみどりもすぐにはわからなかったが、少し時間を置いてから理解できた。血にまみれたそれは、筋繊維や血管だ。骨も混じっている。それらが爆発的かつ無秩序に増殖して、累に襲いかかったのだ。


 純子のおぞましい攻撃を累はかわしきれず、最初に食らった腹部の傷跡を、純子の増殖した肉体が赤い槍となって貫いた。

 累は刀を振るい、純子の増殖部分を切断すると、腹を貫いているそれを一気に引きずり出し、床に投げ捨てる。


「え……?」


 純子の次の攻撃に備える累であったが、己の腹部と胸部全体に異様な感触を覚え、戸惑いの声をあげる。まるで体の中で何かが蠢いているような、そんな感触だ。


 次の瞬間、累の体が弾けとんだかのように、みどりの目には見えた。いや、実際に胴体が弾け、中から大量の臓器があふれ出た。どう見ても人の体内に詰まっている量ではない。心臓や胃が幾つもあるのが見える。二つに分裂しかけた肝臓まである。

 内臓だけではない。筋繊維や血管も骨も、大量に増殖している。


 あまりの事態に、みどりは一瞬我が目を疑いつつも、純子の能力の正体を理解した。内臓器官、筋繊維、血管の増殖。それは自分の体だけではなく、他者の体に対しても可能という事だ。


「純子の……こんな能力……知りません……」


 苦痛に顔を歪めながら呟き、累は念動力で刀を動かすと、己の首を切断した。


(あの得体の知れない気持ち悪い力から逃れるためかー)


 生首状態で宙に浮いた累を見て、みどりは判断する。


「ちょっと不便ですが、戦えないこともないです。近接戦闘は難しいですけどね。ていうか、みどりは何でさっさと逃げなかったんですか……」


 みどりの横へと飛んできて、浮遊生首となった累は言った。黒い刀も宙に浮かんでいる。


「それでもまあ、二人がかりなら何とかなるんじゃね? 最初からそうすべきだったけど、今あたしは純姉の心の中に……」


 言いかけたみどりの台詞が途中で止まる。

 リビングの扉が開き、毅が現れたのだ。


「な、何、これ……」


 生首状態で宙に浮く累と、膨大な量の内臓を溢れさせて転がる累の首の無い胴体。撒き散らされた血飛沫。そして右腕から剥き出しかつ不定形な筋繊維を溢れさせた純子という、カオスな様相を目の当たりにし、毅は呆然とする。


「逃げろ!」


 みどりが叫んだが、遅かった。純子の攻撃の矛先は、より近い位置にいる毅へと移った。


 純子の右腕が大きく伸び、鞭のごとく振るわれると、毅の胴体が真っ二つに切断される。

 機械の体が激しくショートする。首から下はほぼ機械で出来ている毅だが、人工心臓他内臓器官も今は胴体に有るし、血も流れている。それらが破壊されたとあれば、死の危険も有りうる。手足はともかく、明らかに内臓部分も破壊され、出血が激しい。


 累の頭部が浮遊して、毅のいる方へと向かう。合間に純子もいるので、これは極めて危険な行為だ。


 純子が反応し、累めがけて左手を振るったが、累はその瞬間を狙って空間転移し、毅の側に現れた。さらには、念動力で操作している刀が純子の足元に滑り込み、純子の左ふくらはぎを斬りつける。

 純子がひるんだその瞬間を狙い、今まで動かなかったみどりが飛び込んだ。その手には、薙刀の木刀が握られている。


 みどりの薙刀が、純子の左側頭部を激しく打ち据えた。真やロッドとの戦いとは違い、加減は一切せずに殴りつけている。純子の体が大きく横へと傾く。


(心臓が止まって……霊体が出かけている)


 毅の状態を見て、累は極めて危険と判断した。かろうじて生きている状態だが、このままでは十秒と待たずに死ぬ。

 累は念動力で毅の出血を止め、停まった心臓を動かす。さらには霊が飛んでいかないように留まらせる。


 自身の出血を止めつつ、首だけの状態で強引に生き永らえさせながら、これらのことを全て同時にこなすのは、流石の累でも骨が折れる。それがどれだけ至難の業であるかは、みどりも理解した。


「みどり……頼みます」

「オッケイ、御先祖様……」


 累に頼まれ、みどりは了承しながら理解する。二人がかりであれば何とかなるかと思ったが、今やそうもいかなくなったということを。


 中断に薙刀を構えるみどりの前で、純子がゆっくりと立ち上がり、漆黒に染まった双眸をみどりへと向けた。

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