第二十八章 17

 和気藹々とお喋りをして、闇の安息所の楽しい午後が終わり、皆帰路についた。


 今度全員でおでかけしようという話も出たが、候補がいろいろ上がりすぎて、どこに行くか決定しなかった。ペペの判断に任すという事になったので、しばらく考えて決めるとペペは回答した。


 ペペは一人、窓の前に立ち、窓を開けて風にくしゃくしゃの髪をなびかせながら、窓から見える夕陽を見つめる。

 今の楽しい一時が続けば、誰も心の病に苦しみなどしない。自分はその場所と時間を提供できたはずだと、一人で悦に浸る。


 かつてぺぺは欝をわずらっていた時期がある。あの時の自分を今この場に連れてきたら、苦しい想いも緩和されただろうと、そんなことを考える。

 例えるなら、欝は悪魔のようなものだ。心の中に沸き、負の念の渦の中へと引きずり込んでいく。少なくともペペはいつもそんなイメージを抱いていた。


 あの苦しみに抗うために、ドリームバンドによる治療を行うことすら、ペペは周囲に許してもらえなかった。そんなことをするのは世間体に悪いと言われ、全く理解してもらえなかった。欝は甘えだと責められなじられ、散々だった。そしてぺぺはますます症状をひどくしていった。


 ドリームバンドを手に取り、ペペは思う。欝を甘えなどとほざく奴等に、その苦しみを味わう欝体験ソフトは作れないものかと。もし出来たら、幼少時にドリームバンドで欝体験を義務化すればよい。そうすれば心無い台詞を口にする輩も消えて、もう少し優しい社会になれると、そんなことを妄想する。

 世の中には消えた方がいい人間が多すぎる。他人の痛みがわからない、わかろうともしない冷たい人間。自分勝手で人に迷惑をかける人間。人を傷つける人間。あげくは自分の欲望のために人を食い物にする者もいる始末。


(皆が仲良くさえしていれば――皆が心を通い合わせ、互いを尊重し、わかちあえたら――調和が保たれていれば、それが一番いいことだって、わかっているはずなのに、それができない……)


 心の中で呟きながら、ペペは窓の枠を握り、手に力をこめる。


 ふと、ペペは考える。ではこの闇の安息所ではどうであろうか? 裏通りの住人達が、楽しく交じり合い、心を落ち着かせている。それは確かだ。しかし、本当にちゃんと心を通い合わせているか?

 違う――と、ペペは即座に自問自答した。断じて違うと。その域には達していないと。


(まだ皆探りあいをして、上辺だけで仲良くしているだけ。それでも一応は、心の安息所としてちゃんと機能しているけど、私の理想にはまだ遠い……。あるいは、かなわないのかもね)


 窓から離れ、トイレへと向かうペペ。


 トイレに入る度――いや、トイレの近くに寄っただけで、ペペは意識する。トイレに出る血まみれの幽霊の話。

 トイレの扉を開けると、それはいた。哀しげな瞳で、血まみれの青年がペペをじっと見つめている。

 ペペは親しげに微笑み、手を伸ばす。青年は一瞬微笑んだ後、寂しそうな顔になって消えてしまった。


 噂になっている、トイレの幽霊。ペペはその正体を知っている。


「そう……嘘や秘密はしんどいのよね……。一人だけ知っているのは……」


 声に出して呟き、ペペは伸ばした手を引っ込めた。


***


 闇の安息所を出てから、ユマは檜原姉妹と共に、カンドービル内にある裏通り専門のバー『タスマニアデビル』へと入った。まだ夕方なので、人はまばらだ。

 華子や真菜子とは付き合いもそこそこに長いユマである。一年以上は経った。ユマからすると、華子には少し苦手な部分もあったが、それでも互いに信を置いている


「新しい人達は全て雪岡純子繋がりなのよね」


 真菜子が言う。ユマ一人の前では、真菜子も敬語を使わない。安息所の外でもユマと檜原姉妹は、それなりに交流があり、打ち解けた間柄になっていた。


「あの中の多くは、雪岡純子のマウス――実験台なんだろうけど、雪岡純子って、話に聞いているような極悪人とはとても思えない。マウスだか友人だかにも慕われているみたいだし、安息所に自分の知り合いを何人も連れて来て、面倒見ているんだから」

「それは私も思った」


 真菜子の言葉に同意するユマ。裏通りでの雪岡純子の評判が、狂気の権化、悪の化身のような代物なので、そのギャップには驚かされた。


「ユマちゃんが美香さんと親しげに喋っていたのに驚いた。ユマちゃんの苦手なタイプに見えたから」

 華子が言う。


「最初は苦手だったよ。でも私が思っていたイメージと違って、いい人そうだったからさ」


 ユマが苦笑する。苦手どころか、先入観でとんでもなく悪いイメージを抱いていたのが、今となっては恥ずかしい。安息所で美香の姿を初めて見た時は、胸の中にドス黒いものが溢れたほどだったというのに。


「雪岡純子はイメージとは違ってたけど、私にはちょっと疑念がある。赤猫だの何だのって、彼女が持ち込んだものじゃないかってさ」

「それは……」


 いつになく重苦しい顔つきの華子が発した言葉に、ユマは驚いた。


「善い人の振りをしているのも演技で、他のメンバーも全員仕掛け人。闇の安息所は実験場にされているかもっていう可能性、ユマちゃんは考えられない?」


 華子が、人一倍猜疑心が強いのは知っていたが、これは考えすぎではないかと、ユマは呆れる。


「私は考えすぎだと思うけど、でも華子の考えを全て否定することもできない。可能性としてはあるでしょうね」


 真菜子が言い、グラスを口元へと運ぶ。


「ただ……ね、私は華子の思い込みの強さ、それそのものが危険だと思ってる。この子、一度思い込むと、その考えに固執し続けるし、私が言っても聞かなくなるから」


 これは冗談ではなく本音だった。真菜子も華子を完全に制御しているわけではない。その思い込みの強さには手を焼いている。


「だから話半分に聞いておいて。私はそうする」

「むー……」


 真菜子の言い分に、華子は不服げに頬をふくらます。その仕草がちょっと可愛いと思えるユマだった。


***


 安楽警察署留置所の狛江誠と八丈勝美が入れられている部屋にて、梅津と松本がそれぞれ一人ずつ同室し、長時間共に過ごしていた。

 部屋には無数のカメラが仕掛けられ、誠と勝美のそれぞれの目の部分を映すようにしている。二人には、できるだけカメラから目を離さないようにと告げてある。

 目の変化を見るための処置であり、無実の証明のために必要だということも、二人には告げてあった。赤猫の事も全て教えてある。


 梅津は誠と、松本は勝美と同じ部屋にいる。二人の刑事の役割は囮のようなものだ。赤猫が発現した際に襲われるために。あるいは、襲う対象がいないと赤猫が発現しないかもしれないし、発現したとしても、襲いかかる相手がいないと証明できない。襲われるために、二人は同じ部屋にいる。


(あー、暇だ……。ま、向こうも暇なんだろうけど。カメラだけじっと見つめてるの、大変そうだなあ)


 部屋の壁にもたれかかって座り、松本が思う。その直後――


(お、来た?)


 明瞭な殺気を感じ取り、やっとこの任務から解放されるかと思い、松本は思わず笑みをこぼしてしまった。

 同じ部屋にいた勝美を見ると、ゆっくりと立ち上がり、松本に向けて殺気を迸らせている。松本が勝美の目を見る。確かに瞳孔が広がっている。


「おー、本当に黒くなるんだ。でもよく見ないとわからないな。外人だったらもっとはっきりわかっ……」


 呟いている途中に、勝美が飛びかかってきた。

 松本は余裕をもって勝美の手首を取って後ろへとまわし、あっさりと取り押さえる。


「発現しましたー。しばらくこのまま様子見ます」

 勝美の手を取って床に伏せ、松本が報告する。


「刑事さん……私、赤猫が……」

「あ、元に戻った? ちょっと目を見せてください」


 勝美が口を開き、松本は勝美の目が正常になったのを見計らい、手を離した。

 そこに梅津と他の警察官三名ほどがやってくる。


「目の変化は?」

「ありましたね。瞳孔が広がっていました」

「カメラにも収めました」


 梅津の問いに、松本と他の警察官がそれぞれ答えた。


「一回だけ、一人だけじゃ証明には難しいな……。あと何回か同じことが起こらないと。そして何より、犯人を捕まえないことには」

「えーっ!? まだやるんですか? またずーっとあの部屋に二人っきりってしんどいです……」


 梅津の言葉に松本が不服を訴える。


「無実の人を助けるためだぞ? しかも自分の大事な家族を奪われ、殺した嫌疑までかけられているんだぞ?」

「は、はい……。すみません」


 梅津にジト目で睨まれ、松本はしゅんとなって謝った


***


 久留米狂悪は薬仏市へと逃亡を完了した。


 念を入れすぎた行動かもしれないが、以前は油断していたらあっさりと逮捕された。今度は絶対にヘマをしない。病的なまでに神経質に動かないといけない。国外逃亡も考えたが、流石に日本国外でやっていける自信は無い。

 念を入れるなら、誰かと協力して事など成そうとせず、自分だけで実行すればいいとも思うし、できるものならそうしたいが、自分の望みを達成するには、協力者の存在が必要不可欠だ。


 今回は協力者の裏切りがあった。自分を一方的に利用するだけで、一切連絡も入れてくれなかった。

 彼女の目的も自分の目的も、最終的には一致していたはずだ。なのに何故自分に協力してくれなかったのか……


 理由はもうどうでもいい。思い出すだけでも忌々しい。


 引っ越して仕切りなおしはとても面倒なことだが、また捕まるよりはマシだ。この借りは必ず返してやると、久留米は固く誓った。

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