第二十六章 32

 警察が会見を行った翌日、壺丘三平は逮捕された。容疑は虚偽告訴罪となった。


 ラーメン屋で一緒に昼食をとっていた卓磨と正義は、テレビのニュースでその様子を見ていた。


「辛い瞬間だ。正義が悪にねじ伏せられた――」

 正義が気の抜けた顔で言う。


「ごめんな。でも……」

「言わなくていいよ。こっちのやり方もえげつなかった。きっとそれでお前らにも火がついたんだろ?」


 卓磨の方を向いて、正義が虚ろな笑みを浮かべて言う。


「これ、言ってもいいと言われてるけど、でも言わない方がいいんだろうけど、でも言うわ」

「何だよ、それは」


 卓磨の日本語使いがおかしくて、正義は笑う。


「殺人倶楽部はもうすぐ終わる。いや、元々終わる予定だったらしい」


 卓磨が告げた言葉を聞き、正義の笑みは消えた。


「その直前に、壺丘さんが殺人倶楽部を潰しにかかったんだ。あるいは壺丘さん自体も、殺人倶楽部オーナーが用意したイベントだった可能性が高い」

「壺丘さんは道化だったのか……ひどい話だな。ていうか、それは確かに言わない方がよかったな……」


 悔しさと同情を覚え、正義は拳を強く握り締める。


「正義が悪にねじ伏せられたんじゃない。元々悪の掌の上だったんだよ。でも壺丘さんがあそこまでやるとは思っていなかったからさ。壺丘さんは、最後に掌の上から飛び出したんだ。それがいけなかった」


 卓磨が淡々と語る。


「掌の上で踊って楽しませない虫けらが、勝手に這い回られても面倒なので、全力で潰されたってことか」


 正義は胸の中がドス黒いヘドロで満たされるような、そんな気分を味わっていた。


「やりすぎたことは正義もわかってるだろ? こっちはこっちで、純粋な悪の怒りとでもいうのかな……。こっちにも信念や矜持があったんだ」


 優のことを思いながら、卓磨は話す。正義もそれを聞いて、昨日電話で最後に口にした優の言葉を思い出す。


 優のしたことに殺人倶楽部会員の多くは喜んだが、卓磨は正義のことを思い、素直に喜べずにいた。


***


 夕方、優は自宅に帰る。そして岸夫が家についてきている。ここの所毎日だ。

 お手伝いの鮪沢鯖子には、岸夫に事情があって自宅に入られない状態だと言い訳しているが、明らかに不審がられている。


 すっかり寝たきり状態になった光次の前で、並んで座る優と岸夫。

 自分の本体を見下ろすのも最初は抵抗があった岸夫だが、今はもう何とも思わなくなっている。


「荒療治が必要なのかもしれない」

 岸夫がぽつりと呟いた。


「俺が戻らないのは、本体の精神状態が不安定だからだけど、このままずっとこうしても仕方無い」


 優には岸夫が口にした荒療治とやらが何であるか、想像がつかなかったが、やけに真剣な面持ちで喋る岸夫を見て、嫌な予感を覚えた。


「この肉人形と、精神の繋がりを絶つ。もうこちらには来られないようにね。岸夫としての自分を消して、暁光次に戻ってみる。いや、戻してみる。今回の光次は、俺の記憶や感情が全て自分の中に受け入れるのを本能的に拒んでいる。だから俺も悪影響を与えると思って戻らないでいたけど、賭けに出てみる」


 岸夫の決意を聞いて、優は硬直していた。


「そんなこと……しなくてもいいと思います。岸夫君は……自分を消すという事に抵抗は無いんですかあ?」


 優には岸夫がその発想に至った理由がわかった。岸夫は光次が理想系とする人格であるが故、脆弱な光次の人格とは比べ物にならないほど強い。故にその人格への退路も塞いだうえで、岸夫が元から備えている強さと、育んできた強さ、それらを全て光次の中に注ぎ込めないかと、そう考えたのだろうと。


「俺のことは気にしなくていいよ。同じ魂なんだから。死ぬわけじゃない。でも……」


 岸夫の顔に躊躇いの色が見える。


「ごめん……お願い……。俺が消える時、優さんにも側で一緒についていて、見ていてもらいたい。やっぱり……ちょっと怖いからさ」


 照れくさそうに笑う岸夫の指先が細かく震えているのを、優は見逃さなかった。


「そもそも私は岸夫君にそんな事をして欲しいと、望んではいません」


 岸夫の手の上に己の手を重ね、優は言った。


「俺が望んでいるんだよ。俺は所詮擬似人格でしかないし、そんなものがいつまでも居続ける事も、不自然だし、優さんのためにもならない。でも……藤岸夫としての俺も、確かにこうして存在する。優さんが俺をこうして現実世界に実体化させたのは、暁光次をどうにかしたかったからだろ? その望みをかなえたいのが、俺の望みだ」


 岸夫の気持ちを聞きながら、優はそれ以上言葉が見当たらなかった。岸夫の手に重ねていただけの手が、いつのまにか自分でも気付かないうちに、強く岸夫の手を握り締めていた。


「俺さ、自分が優さんの父親なんていう実感、全然無いよ。同じ魂だし、暁光次の記憶もあるし、あいつの感情もわかるけど、人格は別だしさ。でも、優さんを大事に想う気持ちだけは引き継がれているんじゃないかと思うんだ。だから、こんな気持ちになってるんじゃないかと……」

「それ以上言うとぉ……私、泣いちゃうかもですよぉ……」


 涙声で告げる優の双眸からは、すでに涙があふれてこぼれ落ちていた。


「岸夫君を父さんの妄想から現実の世界へと呼び出したのも、私の勝手な都合です。父さんにまともになってほしくて、どんな手段でもいいから試してみたくて、思いつくだけのことをやってみようと思って……。だけど、今はそんな気持ちはありません。やめてください」

「やめる気は無いよ。もう決めた」


 自分の手を握る優の手の上にもう片方の手を置き、岸夫はきっぱりと言った。


「殺人倶楽部も終わるし、こっちもケリをつけよう。どうなるかわからないけど……例えどうなっても、優さんは結果を受け止めて」

「はい……」


 岸夫の言葉に、優が涙声で頷く。自分で撒いた種が育ち、いよいよ実をつけようとしている。ただし、実を結ぶとは限らない。食べることのできない毒の実をつけようと、召し上がるのが自分の責任だと、優は覚悟を決めた。


***


 カンドービル地下。雪岡研究所入り口前に、その男は現れた。

 ヒーロー系マウスのスーツを着用して、呼び鈴を鳴らす男――ライスズメの前に、真が出迎える。


「お前に用は無い」

 ライスズメが静かに言い放つ。


「お決まりの台詞だが、こっちには有る」


 ライスズメのすぐ前――互いに一歩踏み込めば手が届く位置まで迫り、真は静かに告げる。ライスズメが自動ドアの間近にいたので、自然とそういう位置取りになってしまった。


「裏切るつもりか?」

「裏切るも何も、雪岡の遊びを壊す協力ならするが、雪岡に手を出すなら当然防ぐ。僕が己に課した使命は、あいつの悪事の妨害と、あいつの守護だ」


 ライスズメの言葉に対し、真は淡々と告げる。ライスズメがここに来た理由は、スーツを着用して訪れた時点で明白だ。扉を壊して入ろうとせず、わざわざ呼び鈴で呼び出す点は不可解であったが、この扉自体、そうそう簡単に壊れるものでもない。


「壺丘の言うとおりか。仕方無い」


 小さく呟くと、ライスズメはそれまで抑えていた闘志を一気に噴出させた。


「ライスライサー!」


 至近距離から弧を描くような形で噴き出された米が、刃となって真を切りつけようとしたが、真は体を横に向けて少し身を引いただけの軽い動作でかわす。


 真の右手が閃く。袖口から透明の長針が飛び出て、真の右手の中に収まり、ライスズメのスーツの頭部めがけて振るわれる。

 ライスズメはヘルムをかぶっているし、喉もスーツで覆われている。しかし、ヘルムと喉のわずかな隙間に、肌が露出している。真はそれを見逃さなかった。いや、以前からライスズメと相対することも想定しており、接近戦になったらそこを狙うつもりでいた。


 勝負は一瞬で決まった。真の針が、ライスズメの喉にわずかに刺さった所で止められている。


「お前は殺したくないが、降参しないならそうもいかなくなる。どうする?」


 真の問いに、ライスズメは冷や汗を流す。体に針の先が入り込んだ状態で、自分が少しでもおかしな動きをすれば一気に針が突き刺されるであろうことは、わかっている。

 ライスズメもマウスの中ではかなりの強さを誇るが、近接戦闘よりも遠方から米粒で攻撃するのを得意としている。百戦錬磨の真に、接近された状態から戦闘が開始された時点で、勝ち目はほぼ無かった。


「くっ、これが玄米飯の力か……っ!?」

 口惜しげに呻くライスズメ。


「確かに雪岡研究所では米に玄米を混ぜたごはんになっているな。白米より栄養価も高く、いろんな健康効果があるからと、雪岡が言ってた」

「ああ、聞いた……。俺にも勧めてきた。しかし俺は……白米のみを愛す!」


 決意を込めて、ライスズメは叫ぶ。


「で、どうするんだ……?」

「降参だ」


 再び問う真に、ライスズメは観念して答えた。

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