第二十六章 10
正義とライスズメは、その日も壺丘のアパートへと足を運んだ。今日は真の姿はない。
「本当に様子見のままでいいのかな?」
正義が壺丘に問いかける。
「ホルマリン漬け大統領襲撃から二日目にして、膠着状態の気配が見える。明日には間違いなくそうなるだろう」
腕組みしたままのポーズを維持してライスズメが言った。
「そして事態はまた異なる展開になる、か」
壺丘が思案顔で呟いた。もう少しの間、殺人倶楽部は、ホルマリン漬け大統領に気をとられていて欲しいと、壺丘は願う。そうすれば自分の動きが悟られる可能性も低くなる。
「暁優という子の話も興味はあるがな。まあ今の私達は、表立って動く時期ではない。準備を整えている段階だ」
二人をそれぞれ見やり、壺丘は改めて宣言する。
「私の目指す究極的な目的としては、殺人倶楽部なるものが何故機能しているかを知り、その機能を破壊することだ」
「機能を破壊する?」
壺丘の言葉を訝る正義。
「国で保護されているからこそ、殺人倶楽部は存続できている。警察は取り締まろうとしないどころか保護している有様で、そのうえ公にもされない。しかしその理由は何か? いくら雪岡純子の口利きといっても、これは限度を超えているだろう。故に、その理由さえわかれば、殺人倶楽部が機能できないようにする事もできるかもれしない」
殺人倶楽部が作られる発端となった、暁優という子による事情説明で、その辺の謎もわかるのではないかと、壺丘は密かに期待していた。
「わからなかった場合は?」
さらに問う正義。
「別の方向で攻めていくしかないな。他国を介入させる手もある。ルシフェリン・ダストが裏通りの存在そのものを脅かした際、アメリカを支配するあの一族は、日本の裏通りをはっきりと問題視していた事がわかった。殺人倶楽部に日本のマスコミが触れられなくても、国外に関しては話がまた別だ」
「他力本願な策は感心できん」
ライスズメのにべもない一言に、壺丘は一瞬言葉に詰まる。
「ライスズメの言う事にも一理あるが、思いついたこと、やれることは全てやってみた方がいい」
と、壺丘。
「あるいは彼女が政府の弱みを握っているとしたら、そこから切り崩していくことになるが……」
日本政府自体がより巨大な権力の傀儡のようであるし、雪岡純子が政府の弱みを握っているというより、その巨大権力と密接な繋がりがあると見なしている壺丘である。そうなると、政府のスキャンダル云々の話では済まないし、そのような攻め方をしてもあまり意味が無い。
「暴力的な手段だけど、雪岡純子と繋がりのある権力者と、雪岡純子そのものを討伐するってのは駄目なの? 頭を討てば――権力の庇護を失えば、殺人倶楽部は機能しなくなるじゃん」
「当然それは有りだろう。綺麗事ばかりでは勝てん」
正義が言い、ライスズメも同意する。
「それも考えに入れておくが、雪岡と繋がりのある権力者とやらが判明しないことには、意味が無い」
壺丘が息を吐く。
(暴力に暴力で対抗か……)
暴力そのものが壺丘の一番嫌いなことであるが、自分の好みにこだわってはいられないという理屈も、わかっている。
「雪岡純子の殺害だけでも、一応殺人倶楽部は潰せる。実質取り仕切っているのは彼女だ」
ライスズメが断言した。
「改造も出来なくなるしな。オーナーである彼女を失ってなお、その仮定の権力者とやらが殺人倶楽部を維持するものだろうか?」
「なるほど。言われてみれば確かに……」
ライスズメの頭が意外と回ることに、壺丘は驚き感心していた。
「ホルマリン漬け大統領に、殺人倶楽部の戦力を少しでも殺いでもらうための様子見タイムでもあろう。彼等の力が少しでも弱体化してくれる事が望ましいが、下手に動くと、昨日の俺のように、ホルマリン漬け大統領の雇った殺し屋の数を減らしかねない。降りかかる火の粉を払わぬわけにもいかぬしな」
「あんたなら適当に撒いて逃げることもできるだろう?」
壺丘がライスズメに問うが、ライスズメは腕組みしたまま首を横に振る。
「売られた喧嘩は全力で買う。米を否定されたままというのは我慢ならん」
意味がわからなかったが、面倒なのでそれ以上は突っこまない壺丘であった。
***
岸夫と別れた優は、自宅に帰ると早速、父光次の部屋へと向かった。
光次はいつになく真顔で、瞳にも強い光を宿し、部屋に入った優を見つめている。
「父さん……覚えていますね?」
父の正面に座り、優は確認を取る。光次は照れくさそうに微笑をこぼし、頷く。
優は藤岸夫という名の少年を昔から知っている。光次の口から聞かされている。
それは光次がいつも妄想に逃避する際に作り上げる、光次の別人格。光次が異世界転移妄想トリップしている際の、光次視点での主人公だ。名前もいつも同じである。
これまで、殺人倶楽部会員としての岸夫の記憶は、断片的にしか覚えていない光次であったが、先程の岸夫として優と一緒にいた時間は、はっきりと覚えていた。
「私はずっと逃げ続けていた。私が逃げていたおかげで、母さんも死なせてしまった。そしてその現実を受け入れられず、さらに逃げた」
いつになくしっかりとした口調で、光次は語り始める。
「私に代わって犬飼君やお手伝いの鮪沢さんが、優のことを面倒見てくれた。ありがたいことだ。そして情けない話だ。私は……こんな私が、人の親になんてなるべきじゃなかった」
「じゃあ私は生まれるべきじゃあなかったんですか?」
光次の言葉尻を取って、優が問う。
「そうは言ってない……。いや、そう受け取られてしまうか。失言だった。忘れてくれ」
弁解する光次であったが、優の気は収まらなかった。
「まだ……わからないんですか? まだ……逃げ続けるんですか? 辛い、辛抱できない、逃げる。父さんにはそれしかないんですか?」
娘のその大きな瞳にも、その可愛らしい耳に心地好い声にも、静かだが強い怒りを帯びているのを感じ取り、光次はひるむ。
「結局……無駄でしたね」
失望と軽蔑を露わにする優の顔を見て、光次は戦慄した。愛する娘にそのような想いを抱かれた事に、底無しの恐怖と絶望を味わった。だが、さらに深く絶望したのは、その直後だった。
「どうしてそんなに弱いんですか?」
言葉と共に、優の目から光るものがこぼれ落ちるのを見て、光次は己の心が切り裂かれるような気分を味わう。
「いや、弱いなら弱くてもいいですよ。弱いなりに前を見て進もうとしている姿勢があるのなら。でも父さんにはそれすらないんです」
「そう……だな。責められて当然だ。私はろくでなしの最低の屑だ」
「そうやってしょげているだけなんですか? 娘の前で堂々と泣き言を口にして」
優が立ち上がり、涙を流しながら光次を見下ろす。
「実の娘にこんなこと言われて悔しくないんですか? 生意気だと頭にきて殴ってやりたいとか思いませんか? そうしてくれる父親の方が、私はよっぽどいいです」
父にそんなことは無理であることは百も承知のうえで、しかし紛うことなき本音をぶつけて、優は光次の反応を待つ。
「頭にくるのは、弱い自分に対してだ。それに……そんな理不尽で情けない怒りを優にぶつけられるはずがない。それは親としてもっと情けないだろう」
優を見上げ、光次は微笑みながら告げた。
「優が必死になって行ったことも、その気持ちも、無駄にはしない。納得のいく答えを……今から考える」
父が少しでも前向きな姿勢を口にしたことに、優の表情が劇的に輝く。
「生意気言ってごめんなさい……」
「いや……」
泣き笑いの表情で謝罪する優に、光次は逆に申し訳ない気分になった。
(私も優も、もう普通ではない。優が私に望むのは、ただの……普通の親だったはずだ。だが今となっては……いや、普通ではなくても、せめて逃げないでいることだ)
光次はこの時ようやくにして、自分が犯した罪と今ある現実から目を逸らさず、向かい合う覚悟を決めた。
***
その日の午後、竜二郎と鋭一は私立アース学園の近くをうろついていた。
隠れることなく、あえてその身を晒して、ホルマリン漬け大統領に雇われた殺し屋達を誘き寄せて少しでも始末しておこうという目論見である。
「もう四組も撃退したが……途切れたな。そろそろ撤収するか?」
歩きながら鋭一が、隣にいる竜二郎に声をかける。
「手強いと見なして、強めの刺客を手配しているかもですよー。強さのインフレ、楽しみです」
眼前にディスプレイを投影して歩くという、歩きディスプレイ状態の竜二郎が言った。
「殺し屋の数を少しでも減らす大作戦はいいが、見くびりすぎじゃないか?」
「見くびっているわけではないですよ~。ヤバい敵が現れたら、とっとと逃げましょう」
そんなことを言い合った直後、道の角から大男がぬっと現れ、二人の前に立ち塞がった。かなり近い距離だ。
「逃がしはせんがな」
巨漢が満面に獰猛な笑みをひろげる。オンドレイ・マサリクだった。
「自分が不利だとわかって、さっさと逃げだすような卑怯者を逃さず殺すのが、俺の美徳なんだ」
「ふーん。ただの悪趣味ではないですか? 自分より弱いと思った相手が逃げるのを、追い掛け回して嬲り殺すのが好きなだけという」
二人を見下ろしてニヤニヤと笑うオンドレイを、竜二郎もニコニコ微笑みながら見上げる。
「でもその気持ちはわかりますよー。僕もそういうの、大好きですからねー」
「そうか、気があうな。じゃあ、若者に先にお譲りしてやろう」
「何をですか? まさか地獄への切符とか、そんな陳腐な台詞は言わないですよねー?」
「攻撃の権利をだ。先にやらせてやる。俺はそいつをしっかりと受け止めてやる。身の程知らずの餓鬼共に効果的な折檻をするためには、大人が強いものだと思い知らせてやらねばならん」
汚い歯を見せて笑いながら、オンドレイは傲然と言い放った。
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