第二十四章 32

 時刻は夕方になる。

 累と波兵の二人は、獣之帝のいる広間の奥にある、外の景色が一望できる横穴に、並んで座り、夕焼けと、オレンジに彩られた山の景色を眺めていた。


「何事もなく一日が過ぎちまったな」


 ほとんど崖に近い急な山の斜面に足を投げ出して、ぶらぶらと揺らしながら、波兵が言う。


「今日は作戦会議でも……していたのでしょう。来るとしたら、明日の朝か……昼です」


 湯のみに茶を注ぎながら、累が言った。


「今夜に来る可能性は無いのか?」

「妖は夜になると力が……強まりますから……ね」


 尋ねる波兵に茶を注いだ湯飲みを手渡しながら、累が答えた。


「なるほど。だから夜は避ける方向か」


 そう言って波兵が茶をすすったその時、背後に気配を感じる。


「くううぅ~……」

 いつもの鳴き声と共に、獣之帝が現れた。


「お、でかい子供がやってきた。いや、二本足で立つ人懐っこい猫と言った方がいいかねえ」


 冗談めかしながら、波兵は獣之帝の鼻先に指を突きつける。すると獣之帝は猫のように、鼻先を波兵の指にくっつけると、己も波兵の鼻先に向かって指を突きつける。


「どんな構図ですか……」


 腕を交差させ、互いの鼻先に指を突きつけあう二人を見て、累が微笑む。


「くぅあぁぁ」

 沈みゆく夕日を眺めて目を細め、獣之帝は小さく鳴く。


「心地好い時間だな。染み入るよ」


 獣之帝と並んで夕日を見つめながら、どこか儚げな表情を浮かべる波兵。それを見て累は怪訝な面持ちへと変わる。


「雫野は争いが好きだって言ってたけどよ、今のこの平和な時間も嫌なのか?」


 累の方を向いて尋ねる波兵。


「俺はこんな風にのんびりしている時間、すごく好きだけどな。大袈裟かもしれないけど、幸せだよ。気の合う奴等が側にいてさ。でも――くだらねえ理由で争っている連中のおかげで、もうすぐそれも壊されちまうんだぜ?」

「戦いは戦いで……面白いものなんですよ」


 問いかける波兵に、累は言いづらそうに答える。


「それはわかるよ。でも命がけの戦いやって、自分が死ぬこと考えて怖くないのか? 親しい人を失うかもしれないのは、嫌じゃないのか?」

「それは確かに嫌……ですよ。死ぬのも正直、怖いです。しかし怖いからこそ楽しい……という面もあります。理解してもらえないかも……ですが」


 どうも波兵が普通の感性に戻りつつあるのを見て、自分から心が離れていくような、そんな気分に陥る累であった。


「波兵は……怖いですか?」


 累が問うと、波兵は累から視線を外してまた夕陽を見た。


「怖いような、怖くないような……。別に死んでもいいやって気持ちと、死にたくないって気持ちと、二つ同時にある。でもさ、こののんびりした、いい時間のままじゃ、駄目なのかなあと思っちまってさ。人間も妖怪も全部、世界中全部、のんびりしているだけじゃ駄目なのかね? そうでない方がいいのかねえ」


 波兵の問いかけに、累は押し黙ってしまう。この時点でもう完全に、自分とはわかりあえない存在になってしまったような気がした。


「戦うなら、戦いが好きな者同士で戦っていればいい。のんびりしていたい奴の所にやってきて、無理矢理戦いに巻き込むこともない」

「僕は……争っていたのに、平和を望む者達……に、その争いを奪われましたよ」


 累が不満げに言う。


「そっか。気分悪くさせちまったかな? すまねえ。でもさ、今ののんびりとしたいい時間も、きっと明日か明後日には終わるんだろ? ここにいる三人の中の誰かは、死んでいるかもしれない。そう思うと、何だかなーって……」


 波兵の言葉を聞いて、累はあっさりとつむじを曲げた己の幼さを恥じる。


「俺も、自分の運命を嘆いて、世の中が恨めしかったんだけどなあ。俺と似たような雫野と会って、似ているから安心してつるんで、そうしたら……俺の中のどろどろしたものやもやもやしたものが、どこかへ消えちまった」


 波兵も累と自分の大きな違いに、気がついていた。


「雫野と俺と、同じだったはずなのが、俺だけ変わっちまった。そうなるともう、俺は雫野の友達の資格は無いのかねえ」

「くぁ~」


 不意に獣之帝が小さく鳴きながら、波兵の頭を乱暴に撫で始める。


「痛い痛い。こら、禿げるだろ。撫でて慰めてくれるならもう少し優しくしろよ」

「くうぅぅ」


 笑いながら獣之帝の手をのける波兵に、獣之帝も笑みをこぼす。


「同じだから……同じじゃないから……。そんな理由で、付き合っていいとかいけないとか、決まるものでもないでしょう?」

「雫野の気持ちはどうなんだ? お前の考えや気持ち、全て否定する考えに変わっちまった俺は、疎ましくないのか?」

「考えを押しつけたり責めてきたりしなければ、疎ましくないですよ」


 累が口にした答えは嘘だった。


 累の脳裏に綾音のことが嫌でも思い浮かぶ。綾音は自分とは全く逆の善人へと育ってしまった。故に累は綾音を疎んじ、つかず離れずという間柄になったのである。


(綾音がそうであるように、例え口では一切責めなくても、僕の方で勝手に意識してしまう……。そして疎ましくなる)


 しかしその本心を、今の波兵の前で口にするのも憚れる。


「波兵、君は……不安なんですね。友情や絆は、言葉でわざわざ確認しあうものでは……ありませんよ? でも君は確認せずにはいられないほど……不安なんですね」


 累の指摘に、波兵ははっとした顔になる。


「くうぅぅうぅ?」


 獣之帝がその波兵の顔を覗き込み、怪訝な声をあげる。


「例え僕と君が仲違いしたとしても……、今のこの時間は……無かった事にはなりませんよ? 確かにあった時間です」

「なははっ、流石中味は何百年も生きているお爺ちゃんだな。良くも悪くも響くもんがあらあ」


 照れくさそうに笑い、波兵は振り返り、洞窟の方へと戻ろうとする。


「獣之帝、お前の女の子、俺も抱いてもいいか?」


 途中で足を止め、獣之帝の方に振り返り、波兵が尋ねる。


「くぅぅ~……」


 獣之帝は憮然とした表情で、首を横に振る。


「ちぇっ、けちだな。あんなにいっぱい囲ってるくせに」

「一応……言葉、わかっているのでしょうかね」

「多少は通じるみたいだなあ。全部ってわけでもないけど。あるいは俺と同じで、弱めの他心通みたいなもんがあるのかもな」

「くうぅぁあぁ」


 獣之帝が波兵を見たまま、憮然とした表情のまま、洞窟の方を指差し、何かを訴えるように鳴くと、その場で腰を振って性交の真似をしてみせる。


「やってもいいと? いや、違うな……勝手に手出しするなって念押しか。わかったよ。本当ケチだなー」

「くぁ」


 獣之帝が累の方を向いて、かぶりを振ってみせる。まるで波兵を指して、仕方の無い奴だと言っているかのようで、累は微笑んだ。

 やがて波兵は広間の奥へと引っ込む。気を利かせてくれたのかと累は受けとる。


「本当に……御頭の転生なんですね……。ずっと……会いたかったです」


 二人きりになった所で、累は獣之帝に近寄り、語りかける。


「心のどこかでは諦めていました。転生を経てではないと……、輪廻の縁とは引かれあわないのではないかと。死なない限りは……絶対に会えないのではないかと。なのに……、何の前触れも無しに、突然、会えた……」

「くぅ~……」


 途中から涙声になる累の頭を撫でる獣之帝。


 累が見上げると、獣之帝は穏やかな笑顔で見下ろしていた。


「何度も何度も……夢に見ました。何百年もの間、何度も何度も……。ずっと、御頭のことを思い出しては、泣き、浸り、怒り、恨み、儚み、呪っていました……。御頭のいない生を、運命を、世を……」


 堪えきれず、累は泣きながら獣之帝に抱きついていた。

 男と思えないほどしなやかで柔らかい肌の感触。しかし、その体は柔らかくも硬い。皮膚と脂肪の奥には、人のそれでは無い強靭な筋肉があるのが、体温と共に伝わってくる。


「くぅぁぁー……」


 優しい声音で鳴き、獣之帝も累の体を抱き返し、また頭を撫でる。


(御頭は……こんなに優しくは無い……。同じ魂でも、別人……)


 獣之帝の反応を見て、累はそう実感する。

 輪廻転生を経た同じ魂であろうと、自分が恋焦がれていた者はもう死んだ。二度とあの御頭と巡り合うことはない。

 その一方で、再会であることも紛れも無い事実。累はその喜びを全身で噛みしめる。


(これは幻……ではありませんよね? あまりにも現実感が無い……。あまりにも唐突すぎる再会で……夢では……ないんですよね……?)


 さらにその一方で、累は心が浮遊するような感覚に、戸惑っていた。この感覚は、喜びからもたらされているだけではない。欣喜雀躍したいほどの幸福感で満たされると同時に、何か不吉な予感が、累の胸中にはあった。

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