第十八章 33

「どうも咲ちゃんは複数の力で操られていたみたいだねえ」


 非常用脱出口を抜けて、ホルマリン漬け大統領の遊技場の外へ出た時点で、純子が口を開く。


「さっきの生首だけじゃなくて?」


 尋ねたのは亜希子だ。百合の仕業であろうことは、亜希子にも睦月にも見当がついている。


「これに見覚えある?」


 純子が咲の方に向かって握った手を差し出し、開くと、六枚の翅に紋様が描かれた紫の蝶が表れた。


(見覚えあるな……)

 口に出さずに呟く真。


「どこかで見たような……」

 紫の蝶を見て、軽い頭痛を覚える咲。


「これって簡単な催眠をかけるための術なんだよ。完全に操るんじゃなくて、指向性の暗示や、特定行動だけを促してその記憶を失くすって感じの、限定範囲でね。今からその術を解くね」


 純子が咲の顔の前で、猫だましよろしく手を叩く。その瞬間、咲の頭の中で、二匹の紫の蝶が砕け散るイメージが映った。


「つまりその術で操られた咲が、多魔霊園に俺達が行くことも教えたのかな?」

「そう考えた方が自然だろう」


 睦月の言葉に、犬飼が頷く。


「うぐぐぐ……」

 術の解けた咲が、突然苦悶の表情で蹲る。


「またか」

 腹を押さえて呻く咲を見て、犬飼がみどりの方に視線を送る。


「へいへい、わかってるけど。あたしの力じゃ一時的に抑えることしかできないよォ~」


 そう言ってみどりが咲の精神へ干渉し、咲の混乱を治める。咲の顔から苦悶の表情が消え、薄く目を開く。


「どういうことなの?」

 突然苦しみだした咲を見て、睦月が問う。


「精神が不安定になると、彼女に寄生しているアルラウネが暴走するんだよ。この子はアルラウネに寄生されてるの。私が移植したんじゃなくて、どこかの研究所から逃げ出して野良になったアルラウネにね」


 純子の解説を受け、睦月は納得した。咲と最初に会った時も、アルラウネが共鳴していた。


「私があの生首に操られている時は、何とも無かった。心が一色に染まってたから」

 咲が言う。


「でもそこから解放されて、今、自分の心がすごく不安定になってるから、私の中にいる奴にもそれが伝わって、苦しんでいる。その苦しみが私にも伝わっている。私の中にいる奴って、人間よりずっと心が弱いというか、敏感みたいだ」


 以前は苦痛の原因がわからなかった咲であるが、今は理由がはっきりとわかった。


「精神鎮圧作用を施す装置を体内に取り付ければ、解決とまではいかなくても、緩和できるかもねえ」

 と、純子。


「じゃあそれやってくれよ」

 睦月が純子の方を向いて言った。


「俺をさらに実験台にしていいから、咲を助けてくれよ」

 睦月の発言に目を剥く咲。


「それが償いのつもりか?」

 哀しげな目で、咲は睦月を見る。


「こんなんで償いになるかどうかわからないけど、それしか思い浮かばないや。あはっ」

「そんな償いを貴女に求める気は無い」


 乾いた笑みを浮かべる睦月に、咲は硬質な声で告げた。心なしか怒ったような顔の咲を見て、睦月は決まり悪そうにうなだれる。


「えっと、償いどうこうは別として、咲ちゃんは今危険な状態だから、うちに来た方がいいと思うよー。咲ちゃんの中のアルラウネを鎮められるようにしないとさ。みどりちゃんの催眠術だけじゃ、根本的な解決にもならないし」

「わかった。用事が終わったらそっちに行くよ」


 純子に促され、咲はそう返答を返す。


「用事って何だ?」

 犬飼が咲に問うが、咲は答えようとしない。


「うちに来るまでの間、もう能力を使わない方がいいよー」


 咲の用事とやらが何であるか、何となく察した純子が忠告した。


「それよりあんた、途中から何してたんだ?」

 真が犬飼に声をかける。


「いや、どうせ俺は戦わないし、暇だから、ホルマリン漬け大統領の施設の裏側ってどうなってるのか見たくてさ、興味本位で見物してたんだ。そしたらいきなり爆発が始まってさ。メインルームみたいな所で、闘技場の操作も可能だったから、それで助けることもできたってわけさ」

「そうか。一応礼を言っておく」


 露骨に含みを込めて言う真に、犬飼は苦笑いを浮かべる。


「私は殺さなくていいのか?」


 脱出口から遅れて現れた塩田が言った。一同、それまで彼の存在を失念していた。


「つるつるだ……」


 思わずぽつりと呟く犬飼。途中から戦闘の様子を見ていなかったが、亜希子との戦いで能力を使いすぎた結果であろうことは、容易に察せられた。

 その塩田の前に、睦月が進み出る。塩田をじっと見つめる睦月。塩田も、睦月が何か言おうとしているのを見てとり、言葉を待つ。


「ごめんね。悪いことをしたと思ってるよ。でも俺、警察に自首するとか、そういう形で罪を償う気は無い。そういう気にはどうしてもなれないんだ。こんな俺をかばって死んでいった奴が何人もいるしねえ」

「いや……もういい。復讐は果たせなかった。俺はもう諦める。他の復讐者達が殺されていく様を見て、俺は途中で怖くなっていた。今は……復讐を果たせ無かった悔しさよりも、生き延びてよかったとほっとしているんだ。所詮この程度だ……」


 少し時間を置いてからようやく喋った睦月に、塩田は寂しげに微笑んで言った。


「諦める? 羨ましいな。諦められたらさぞかし楽だろう。でも僕の中にはその選択肢が絶対に現れない。諦めたくても選べない」


 塩田の言葉を受け、真が若干皮肉っぽい口調でそう口走る。塩田を見て話してはいない。その視線は露骨に純子へと向けられていた。


「復讐なんて馬鹿のする事だからな」

「そうかもねー」


 真が今までに何度も口にした台詞をここでまた口にする。それに対し、純子はごく普通に相槌を打つ。


「咲の用事に、僕も同行する」


 真が宣言する。咲が何をしようとしているのか、真にはわかっていた。おそらくは咲も知っている――あるいは会った事があると、真は見なしている。


「案内は睦月と亜希子がしてくれるだろうしな」

「気乗りはしないけどねえ」


 睦月が真の言葉を受け、本当に気乗りしない様子で言った。しかし断ってもついてくるだろうし、止めることはできそにない。


「純姉は行きたくないんだよね? んじゃあ、あたしが保護者として真兄達についていってやんよ。それなら安心でしょー?」


 真の横について、みどりが純子に向かって言った。


「う、うん……安心だね」

「ふーん、純子も心配しているわけだ」


 狼狽しながら微笑む純子を見て、睦月はおかしそうに微笑んだ。

 睦月と真達は、ここに来る前に乗ってきた闇タクシーが待機して待っているので、そこに戻る途中、真の背中を純子が引っ張り、真だけを一同から離した。


「まだ、君には早いと思う。でも、好きにしていい」


 後ろから真の肩に手を置き、純子が静かに告げる。


「君の力を信じるよ。死にはしないって」

「だったら包み隠さず、全てお前の口から教えてほしいな」


 いつもの淡々とした喋り方ではなく、意図的に優しい声音を発する真。


「早いと思うって言ったでしょー? だから私の口からは教えない。でも、君が真実にたどり着こうとしているなら、無理に止めない。抑えない」

「わかった。いろいろ気遣わせてすまない。でも……僕が死ぬなんて有り得ないから、心配しなくていい」


 肩に置かれた純子の手に、真は自分の手を重ねた。


「心配しないよ。信じるから。信じきっているわけじゃないけど、心配してないわけじゃないけど、信じるようにするし、心配しないようにする」


 静かだが力強い口調で純子が言い、手を引っ込めた。自然と真の手も純子の手から離れる。


「でも、どうしてわかったの? 睦月ちゃんや亜希子ちゃんに縁がある人が、そうだって。私は君を貶めた人のやり口を知っているからこそ、わかったけどさ」

「企業秘密だ」


 尋ねる純子に、真は短く返した。


***


 午後三時頃、百合の屋敷に、睦月と亜希子の二人が帰宅した。


「あらあら、遅かったですわね。どこを寄り道していたのかしら」

 リビングには百合の姿だけがあった。白金太郎はいない。


「遅めのお昼御飯食べてたから」

 冷めた表情で亜希子が答える。


「塩田さんにとどめは刺さなかったようですが、よろしいのかしら?」

「逃げるように言ったけど、逃げ切れるかどうかまでは俺も知らないよ」


 にこにこと笑いながら尋ねる百合に、亜希子以上に冷めた顔で答える。


「零、死んじゃったけど、どうせママはどうでもいいのよね」


 皮肉たっぷりの口調で亜希子が言うと、百合の笑顔が一瞬凍りついた。

 一瞬ではあったが、百合の変化を見て、訝る睦月と亜希子。


「そんなことはありません。あれはつまらない男でしたが、宿敵と見なした相手に、意気揚々と挑んで、あっさりと二度目の返り討ち。実に無様極まりない最期で、楽しめましたわ」


 しかし再び笑みを広げ、楽しそうに話す百合を、亜希子は憎らしげに睨みつける。


「亜希子……よせ」

 その亜希子の肩に手を置き、なだめる睦月。


「睦月も亜希子も、十分楽しめまして?」

「何のかんの言って楽しかったかなあ。いろいろと考えさせられることや、発見もあったしねえ。あはっ、ただ一つだけ文句を言わせてもらうとしたら、咲を俺にけしかけていたことだけど」


 睦月は素直に心情を語った。楽しかったことは事実だ。


「まあ咲は無理矢理でしたので、貴女が見逃しても、私は手出ししないでおきますわ」

「あははっ、そう言って油断した所を……ことは無いのかなあ?」

「私は他人にも身内にも意地悪をするのが大好きではありますが、身内に対しては、あまりくどいレベルで意地悪をしませんわ。そこまでやったら、誰からも信用されず、孤立してしまうでしょう? 味方すらも恐怖で支配し、手当たり次第に誰彼構わず命を弄ぶような者など、長くはもちませんことよ」


 百合の話を聞いて、亜希子はかつて船の中で、百合に手当てをしてもらった際の会話を思い出す。


「俺が見逃した復讐者を追っかけて殺したうえに、霊を成仏できないように束縛して、俺にあてつけで見せるのは、明らかにくどいんだけど、それはどうなのかなあ」


 珍しくキツい口調で喋る睦月に、百合は少し思案した後、諦めたように息を吐いた。


「わかりましたわ。睦月、貴女の仰ることももっともです。最初の復讐者も解放しておきましょう。それと、亜希子」


 突然、怒ったような顔つきで見てくる百合に、亜希子は鼻白む。


「私は零を使い捨てたわけではなくてよ。彼は真との戦いを望んでいましたから、そのセッティングをしてさしあげただけですわ。それが使い捨てたことになるのかしら? 零の力が及ばなかっただけではなくて? もちろん私は、零が勝つ見込みは薄いと思っていましたけど、それをわかっていながら、真の元へと差し向けた事がよろしくないとでも言いますの?」


 何故百合が怒っているか、亜希子にはわからなかった。そのうえ百合らしくもなく、自己弁護と正当化をしているような節さえ見受けられる。


「よろしくないよ。よろしくないけど……でも、零の意志だったし、私はあの場にいながら、零を止めようとさえしなかったし、ママを責める資格も無いわぁ……」


 申し訳無さそうに言う亜希子。一方で、百合が怒っている理由がひどく気になる。


(ママってそんなキャラだったかな……?)

(なるほどねえ。百合のトラウマが刺激されたわけだ。亜希子、何気に百合の一番モロい部分を突いちゃったねえ。あはっ)


 亜希子には理解できなかったが、睦月は何となくわかってしまった。


「睦月とはもっとお話をしたかったのですけど……気分がすぐれませんわ。少し一人にしてくださらない?」


 百合の言葉を受け、亜希子は訝ったままリビングを出た。睦月もすぐその後を追う。

 一人になった所で、百合は深く息を吐く。


「この世で最大の悪とは何であると存じます?」


 誰もいない部屋で、声に出して問う。


「私は悪そのものを芸術と見立て、創作活動の一環としておりますが、私は一つだけ、実践していないものがありましてよ。それこそが、この世で最大の悪」


 一人で喋りながら百合は、胸と腹の奥が同時にかきむしられるような感触を味わう。

 自分の中に刻まれた、癒える事のない深い傷。それが亜希子の言葉で刺激されてしまった。


 傷つけた者のことを意識し、憎しみの念が沸き起こる。

 百合は復讐に及び、満足のいく結果も出している。しかしまだまだ足りない。


(もっともっと苦しめて、壊してあげないと……そのために五年間、猶予も与えたことですしね)


 一人の少年を意識しつつ、百合が今後どうするか頭に思い浮かべたその時――


 百合ははっとして立ち上がった。


 空気が軋んでいた。

 いや――空気が軋んでいるかと錯覚する程、強烈にして凶悪、そして膨大な殺気が放たれていた。


 殺気の正体は、殺す意志が電磁波や臭い、あるいは人類がまだ解明できていない別のものとして、放たれる事だ。訓練によって抑える事はできるが、完全に消すことは不可能に近い。暗殺者は極限まで殺意を抑えるが、殺意のスイッチが心の中に入れば、自然とそれらが生じてしまう。

 殺意によって生じた電磁波と、わかる者にしかわからない臭いが、室内の空気を引き裂く勢いで荒れ狂っている。百合はそれらを感じ取り、興奮して笑みがこぼれる。


「素晴らしい……」


 ぽつりと呟き、百合は室内へと侵入した人物を――たった今まで頭の中で思い浮かべていた少年を見た。


「なるほど、お前が僕の復讐相手か。ようやく会えたな」


 百合と向かい合い、真は穏やかな笑みを浮かべて告げた。


「この時をずっと待っていた」

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