第十八章 8
白ずくめの女性が自分の前に立ち塞がり、微笑を浮かべて自分を見ている事に、咲は強い警戒心を覚えた。
直感であるが、この女性は自分のことを知っている。さらにもう一つ直感であるが、この女性は決して善人ではない。優雅に微笑み、静かに佇み、いかにも見た目だけは貴婦人然としているが、形容しがたい嫌な印象を咲に抱かせた。
「はじめまして、武村咲さん。先日、八つ裂き魔の件でお電話させていただきました、雨岸百合です。以後、お見知りおきを」
自己紹介して会釈する白い女に、ああ、やっぱりなと、自分の直感が正しかった事を実感し、咲は小さく息を吐く。そしてその名は、先ほど睦月の口から聞いたばかりだ。睦月と共に暮らし、睦月を殺そうとしている人物であると。
(どう見ても表通りの住人じゃないな)
二人の会話が聞こえるまで接近し、建物の陰に身を潜め、気配を殺して観察しながら、犬飼は思う。
「私は八つ裂き魔に復讐する気は無い。そう言ったはずだが。そもそもどうして私の居場所がわかった?」
「あらあら、何とも面白くない質問ですこと。まあ、羊の王国の凡骨風情に、想像力を期待する方が間違いですわね」
初対面で見下した物言いをする百合に、ますます自分の直感は正しかったと思う咲。
「貴女にその気が有るか無いかなど、私にとって重要なことではありませんの」
言いつつ、百合が咲の方へと傘を持っていない手をかざす。
(あれは……)
百合の掌の上にあるものに、犬飼は見覚えがあった。
(何これ?)
咲にはそれが何であるかはわからないが、常ならざるものであることは一目で理解できた。
紫の翅を持つ蝶。しかしその翅の枚数は六枚もある。そのうえ翅の模様が何らかの紋様を描いているように見える。
蝶が翅をはためかせて舞ったかと思った直後、粉々に砕けるようにして、蝶の姿が消えた。
咲が呆けたような顔になって虚空を見上げる。その咲の額に、百合の手が触れる。
「少し仕掛けをさせていただきますわよ」
百合が呟き、すぐに手を離した。
(あれは……簡単な催眠の術だったっけかな。術の修行をみっちりしたことのない素人でも、稀に使える奴がいるくらいの……)
六枚翅の紫の蝶を見て、犬飼は声に出さず呟いた。
「ん……?」
咲の意識が戻る。しかし、咲は自分の意識が飛んでいた事に気がついていない。
「仇を取りたくはありませんの? 身内を殺した八つ裂き魔――睦月が憎らしくはありませんの? 接触していたのは拝見しましたが、何もしようとはしませんでしたわね?」
百合が問う。
「最初はそう思っていたけど、気が変わった。貴女はあの子とどういう関係? 名前まで知っているうえに、居場所まで突き止めておきながら、遺族をけしかけるやり方ってのは、普通じゃないとは思うけど」
「少しは頭が回りますのね」
おかしそうに微笑む百合。
「ある意味、母親のようなものですわね。あの子を閉じ込めて、憎しみを植えつけて、上手に殺人鬼として育て上げるよう、あの子の産みの親に指示をしましたの。そうしたら大体私の理想通りの子に育ってくれましたわ」
百合の口から出た言葉に、咲も犬飼も衝撃を受ける。しかしその感じ取り方は全く違う。
「つまり……あんたが元凶だと?」
怒りのボルテージが急激に上がり、咲は険悪な視線を百合に叩きつけた。
睦月が話していた親の影には、こんな邪悪な人物がいた。しかしその存在を睦月も知っているのであろうかと、咲は勘繰る。
「あの子の憎しみが晴れてしまったのは計算違いでしたが、それでも私を十分に楽しませてくれましたわよ」
「どうしてそんなことをする……?」
「創作活動ですわ。睦月の苦しみ、睦月の人生そのものが、私の芸術作品でしてよ」
怒りを押し殺した声で問う咲に、百合は楽しそうに答える。
(人生を弄ぶのが創作ねえ……。ま、そういう嗜好もあるかもしれないが、俺とは合わないな)
一方で犬飼は呆れきって、侮蔑の笑みをこぼしていた。
「しかし最近はただ私の庇護下にいるだけで、暇をもてあましているようでしたから、少しは遊んであげないといけないと思い、あの子が殺した者の身内を焚きつけて、あの子に対抗できるだけの力を身につけさせて、退屈凌ぎの殺し合いをさせてあげることにしましたの。ただそれだけのことでしてよ。あの子もそれで苦悩し、よい刺激になると思いましてね」
百合のその言葉に唖然とする咲。
「頭おかしいんじゃないのっ……!」
思わず咲は百合に襲いかかろうとするが、寸前で思い留まった。まだ聞きたいことがあるし、この女に手を出すべきは、自分ではないとも考えたからだ。
「睦月はそれを知っているの?」
「私の口から直接は教えていませんけれど、あの子も私がしていることは知っていますし、自身もその一人であることは、薄々気がついているでしょう」
「私が睦月にそれを全て教えたらどうする?」
「さて、どうなりますかしらね。それはまたそれで、面白そうな話ですわ」
口元に手をあてて笑う百合を見て、苛立ちを募らせる咲。
「で、あんたは何の用で私の前に現れたの? 私をもう一度焚きつけようとしただけ?」
「もちろんその意図はありましてよ。それに加え、私という黒幕の存在を教えてさしあげたら、貴女もゲームの盤上に進んで駒として立つのではないかと、そういう期待もありましたわ。
睦月に同情するのでしたら、あの子に力を貸してあげてみてはいかが? それはそれで愉快な展開にもなりうるので、一向に構いませんことよ」
挑発的な口調で喋りあう二人を見て、犬飼はくすくすと笑う。挑発合戦は完全に百合の勝ちと見なしたが。
「他に聞きたいことがないようでしたら、ここらでお暇しますわね。それでは御機嫌よう」
百合が立ち去る。咲は何も言わず、ただ憎々しげにその背を見送った。
「変な女だったな」
完全に百合の姿が消えたのを見計らい、咲が移動しようとした刹那のタイミングで犬飼が姿を現して、声をかけた。
「犬飼さんか。全部聞いてたのか」
犬飼は、咲が子供の頃からの知り合いであったらしい。咲の姉が八つ裂き魔に殺された事も、知っている相手だ。両親と記憶を失った直後にも、咲の前に顔を見せた。
「途中からだけど、まあ大体聞いたよ」
肩をすくめる犬飼。
「ある意味、本当の仇は今の女と言えるな。奴の話が真実であれば。面白くなってきたじゃないか。お前もここで引きたくはないだろ?」
「あんたは何がしたいんだ?」
呆れたように尋ねる咲。付き合いは長いので、特に不快感は覚えない。こういう人物だと知っている。
咲の記憶にはないが、犬飼によると咲の両親は、ちょっと前に世間を騒がせたあの薄幸のメガロドンに身を置き、父親はその幹部であったという。そして犬飼もまた、同じ宗教団体の幹部という話だ。
「いつも言ってるだろ? 話のネタが欲しいだけだ。中々いいネタを見つけた気もするが」
つい今しがた咲にちょっかいをかけていた白い女を意識する犬飼。
(今の女は、ある意味俺と似ているな。シナリオメーカー、トリックスター、そういう意味ではな。でも似て非なる者だ)
彼女に興味を抱く。犬飼の頭の中で幾つかの物語が組み立てられていく。しかしまずは観察して見届けたいと思う。
(八つ裂き魔のミステリーより、あの女の方が面白そうだ。もう八つ裂き魔の正体は割れたし、どうでもよいとまでは言わないが、興味が薄れたかな。いや、逸れたと言うべきか)
「うぐぐぐ……」
思案する犬飼の横で、突然咲が呻き声を出し、腹を押さえて蹲る。
「腹の中の手品の種が暴れだしたとでも言うのかな?」
お世辞にも気遣っているとは言えない台詞を、咲にかける犬飼。
「わからない。病気かも……今までこんなこと無い……こんなの初めて……苦しい……」
必死で痛みを堪えながら話す咲。
「まだ聞いていなかったが、お前はその手品の種をどういういきさつで飲み込んだんだ? よければ聞かせてくれないか?」
苦しむ咲に、ただの好奇心だけで尋ねる犬飼であった。
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