第十五章 23
その現実を、俺も、そして間違いなくほのかも、すぐには受け入れられなかった。固まっていた。有りえぬ油断であり、致命的な隙だった。
「うねうねうね、僕は蛆虫。どこにでも沸くんだ……」
男の銃口が俺の方に向けられる。俺はここでようやく体が動き、椅子から転げ落ちるように回避を試みたが、無駄だった。
男の拳銃から三発の銃弾が撃たれる。二発は俺に、一発はほのかに当たった。
「てめええええっ!」
日野が叫ぶ。他の連中も一斉に銃を抜く。
やめろ……
俺は声にならない声で制止を訴えていた。本能が直感していた。この男には勝てないと。
「ほらね、ここでも蛆虫の僕は嫌われる」
至近距離に十人近くの構成員がいるので、普通に考えれば蜂の巣にされるところであるが、あろうことか、男は銃弾の雨を回避した後、わけのわからぬ言葉を口にしていた。
男が長い足で近くにいる構成員の即頭部を蹴り飛ばし、少し離れた別の構成員を二人撃つ。いつの間にか銃は両手にそれぞれ持っていた。
ほのかが起き上がり、父親の亡骸に目もくれず、男へと向かっていった。その光景が、俺にはとても悲しく見えた。肉親の死すら哀しんでいる暇が与えられない。普通ならショックで固まっている所なのに、そうすることも許されない。
かといって怒りで動いたわけでもない。ほのかは殺気こそ漲っていたが、全くの無表情で、男に襲いかかっていた。ほのかは――間違いなく冷静に判断したんだ。哀しみも怒りも衝撃も押し殺して、自分が今すべき最善の行動を。
こいつは――ほのかは強い。俺よりずっと。しかしその強さが哀しい。
そしてほのかの判断は、最善では無いことが証明された。
ほのかの両手が液状化し、大きく広がって、左右から男に襲いかかる。
男は素早く後退してこれをかわしたが、肉液はさらに伸びて、男を追撃する。
「うねうねーっ!」
気色の悪い叫び声をあげ、男は思い切り身をかがめると、ほのかに向かってスライディングをして、肉液をかわすと同時にほのかの懐に一気に飛び込んだ。
下からほのかの胴めがけて掌打が突き出される。ほのかの体が吹き飛んで、仰向けに倒れた。肉液化していない部分への打撃。おそらくはダメージになっている。
「蛆虫である僕に、体をゲロにする攻撃とは……笑止」
わけのわからんことを呟く蛆虫男。
そこでようやく再生の終わった俺が起き上がり、蛆虫男に銃口を向け、二発撃つ。
蛆虫男の視界の外から撃ったにも関わらず、まるで見えていたかのように奴はあっさりとかわした。他の構成員も銃を撃つが、まるで逃げる猫のような、信じられない瞬発力でもって、全ての銃撃をかわしている。
いや……いくら至近距離だろうと、この速さで動く相手に銃を当てるなど、無理に決まっている。俺以外は……
純子に改造された能力を全開にする。意図的に引き出す火事場の馬鹿力。反応速度も動体視力も筋力も、全てが極限まで引き出された俺は、蛆虫男の人間離れした速度にもついていくことができた。
蛆虫男が手近の構成員を肘打ちで昏倒させる。その瞬間を狙い、俺は引き金を引く。
二発撃った。蛆虫男の動きを完全にはとらえきれなかったが、一発は当たった。背後から右肩に。
「うねうねーっ!」
だが、防弾繊維を貫くには至らず。
たとえ防弾繊維に阻まれようと、銃撃の衝撃でひるむものだが、その様子すら見せず、奇怪な雄叫びをあげ、蛆虫男はこちらに向かってくる。
俺がさらに撃つが、横に体をひねってかわしつつ、一気に俺へと肉薄すると、急に身をかがめる。いや――長い脚を思いっきり振り回して、右脚で足払いをかけてきた。
際どかったが、俺は軽く後ろにわずかに下がってかわした。
その俺の回避に合わせるかのようにして、蛆虫男は回転した勢いで、軸になっていた方の左脚を床から離し、代わりに両手を床につけて、俺に背中を向けた格好で左脚を大きく伸ばし、俺の顎を蹴り上げた。
顎への衝撃で意識が飛ぶ――ことも無かった。意図的な火事場の馬鹿力効果のおかげで、俺の肉体も限界を超えて機能している。痛みすら感じない。
脳への振動すらもものともせず、体が勝手に動く。腕が勝手に蛆虫男への照準を捉え、撃つ。
しかし蛆虫男は身を捻ってこれをかわすと、俺の頭に二つの銃口を向け、二回ずつ、計四発の銃弾で、俺の頭を吹き飛ばしてくれた。
俺の意識は完全に飛んだ。再生が始まるまでのブラックアウト。
意識が戻ると、さらに何人かの構成員が倒れていて、その中には日野の姿もある。撃ち殺された者もいれば、気絶させられただけと思われる者もいる。いずれにしても構成員は全滅しているようだ。
その中で、復活したほのかと蛆虫男が交戦中だった。両手を肉液化して幾条もの鞭のようにばらけつつ、時折肉液を弾丸のように何発も飛ばしているが、蛆虫男はこれを巧みにかわす。
こいつは本当にどうなっているんだ。人の限界を超えた動きをしているかのように見える。俺がこれまで見た中で、間違いなくぶっちぎりで最強だ。超人そのものだ。いや、そんな表現でも生ぬるい。人の姿をした人ならざる化け物と言った方がいい。
そこでようやく俺は思い出した。
こいつだ。立川が勝ち誇って捨て台詞を吐いていた理由は、間違いなくこいつだ。何者であるかは不明だが、こいつのこの人間離れした戦闘力を知っていれば、勝利を確信していても不思議ではない。
「文字通りの奥の手! いや、奥へ手! 蛆虫ファイアー!」
蛆虫男が叫び、自分の口の中に手を入れたかと思うと、ほのかの顔めがけて反吐を噴射した。
ほのかはひるまずに肉液で攻撃する。その根性は凄いと言えるが、しかし目を胃酸で焼かれて一時的に視力を奪われたのはどうにもならない。攻撃の手はひるまなくても、防御がおろそかになる。
明らかに隙の生じたほのかに向かって、蛆虫男が鳩尾に拳をめりこませ、さらに首に手刀を入れる。
ほのかの動きが止まる。そこへダメ押しと言わんばかりに、大きく片足を上げて、ほのかの頭に踵落としを決める。ほのかがうつ伏せに倒れる。
「ふざけんなっ!」
ほのかがボコボコにされている光景を見て、俺は激しい怒りを覚え、怒号と共に蛆虫男へと突っこんだ。
カウンターの拳が俺の顔面に炸裂する。すでに火事場の馬鹿力効果は消えていて、痛みと衝撃で俺はゆっくりと崩れ、膝をつく。
俺の体が完全に崩れ落ちる前に、蛆虫男は俺の顎に強烈な膝蹴りをかまし、俺の体が吹っ飛んで仰向けに倒れる。
倒れた俺の鳩尾に、胸に、強烈なストンピングが何発もお見舞いされる。内臓は破裂し、肋骨も折れまくる。喉に熱い感触と、口の中に鉄の味。逆流した血反吐が嫌というほど口から吐き出される。
さらには俺の体をうつ伏せにして、その上に腰を下ろして、俺の腕を取っておかしな方向へと曲げる。
「ぐあああっ!」
激痛に悲鳴をあげる俺。間接ごと腕をへし追った。肩も抜かれた。
それを一度ではなく、何度も繰り返された。その度に俺は悲鳴をあげた。
「再生能力といっても、無限に再生などできません。再生するのにもエネルギーを必要としますし、再生する度にそれは消費されます」
蛆虫男が言う。こいつは、再生タイプのマウスのことも知っているのか……その対処の仕方も。
このままでは、間違いなく俺は殺される。そしてその後にほのかも?
「この人を殺されたくなかったら、大人しく僕と一緒に来てください」
蛆虫男のその台詞が、誰に向けて放たれているのか、何を意味するのか、わからないはずがない。
「わかりました……」
ほのかの掠れ声に、俺の心は絶望一色で染まった。
「やめろ……。ほのか、逃げ……」
俺の言葉は続けられなかった。蛆虫男が俺の頭を銃把で思いっきり殴りつけてきたのだ。それも何度も。頭蓋骨が割れるほどに。
「こうやって骨を折ったり砕いたりし続ければ、時間はかかるけれど、いずれ再生のためのエネルギーも尽きて死にますよ? 地獄の苦しみでしょうけどね。まあ、蛆虫の人生に比べればマシですが」
「お願いです……もうやめてください。遼二さんを殺さないでください」
泣きながら懇願するほのかに、蛆虫男の攻撃が止まる。俺の意識は半分以上失われかけている。どうにもできない。
「本当は僕だってこんなことしたくないですよ。仕事とはいえ……。でも僕は蛆虫だから、こうするしかないんです」
哀しげな口調で言い、蛆虫男は俺の目玉を潰して、さらに両腕両足を数箇所折る。
「もうやめてくださいっ!」
「やめますよ。これでしばらくは追ってこれません。うむ、正に蛆虫状態です。では行きましょうか」
蛆虫男が俺から離れた。遠ざかる二つの足音。
ふざけるな……何だ、これは……
神様死ねよ。何だよ、このシナリオは。突然とんでもなく馬鹿強い奴が現れて、おっさんを殺して、皆を殺して、俺を十分の九殺しくらいにして、ほのかも痛めつけたあげく連れ去っていった。
何だよ……。これは……どうなってるんだよ……
不意に、昨夜見た夢を思い出す。いつもの夢。子供の俺の言葉。
積み上げた積み木。積み上げた年月が長いほど、想いが深まるほど、壊した時に味わう絶望は深い。神様はそのために長年俺を放っておいた。そして今まさに、俺の積み木の城を蹴り飛ばして、ばらばらにして壊した。
積み木を壊されて泣き喚く俺を見て、神様がけたたましく笑う声が、俺には聞こえてくるようだった。運命を弄んで喜んでいるゲス野郎の、耳障りな声が。
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