第十五章 6
能力の反動による筋肉痛と倦怠感を覚えながら、俺は自宅アパートに帰宅した。
階段を上がって自宅へと向かう前に、ふと足を止め、アパートの横の細い裏路地へと視線を向け、瞑目する。これが俺の習慣だ。
アパート脇の路地を見るたびに蘇る、いつになっても忘れられない光景。はっきりと目の裏に焼きついている。脳裏にこびりついている。
階段を上がり、俺の家の前にて、俺の知る顔があった。
くたびれた背広を着た、薄い頭髪の中年男。家の扉に寄りかかり、腕組みして俺を見ている。俺の帰りを待っていたようだ。
「梅津……」
そいつの名を呟く。安楽警察署裏通り課の刑事。安楽市の裏通りの住人なら、良い意味でも悪い意味でも、世話になった奴はそれなりにいるであろう男。俺も昔、こいつには助けてもらったことが有る。
「梅津さんだろぉ?」
梅津が早足で俺に詰め寄り、唐突に俺の顔を殴りつけてきた。
わけがわからないまま吹っ飛んで転倒する俺。今のパンチをかわすのは、先程の戦闘で銃弾をかわすよりもずっと難易度が高い。当然と言えば当然だ。こいつは裏通りの住人達も一目置く、警察の精鋭なのだから。俺を襲った放たれ小象の刺客共なんかとは比べ物にならねえ。
しかし何故俺を殴る? こいつに咎められるような真似をした覚えは全く無い。
倒れた俺の腹めがけて、何度も蹴りをかます梅津。腹を手で押さえたら、今度は頭を蹴ってきた。
「裏通りの住人が、表通りに手出ししたらどうなるか、何回も体で教えてやったよな? ああ? この腐れ脳みそはいつになったら学習するんだ?」
手は出してないし、表通りの住人は過去一度しか殺したことがないのに、何でそういうことになっているんだ。しかもこいつにボコられるのも初めてだ。なのに何回も体で教えたとか言ってるし、誰かと勘違いしてねーか? この禿は見た目だけでなく中身の老化も激しいのか?
「禿から学ぶことは何もねーって俺の脳細胞が言ってるんだ」
「俺はまだハゲきってねえ!」
怒りを露わにして梅津が叫ぶ。
「俺が何したってんだよっ!」
いい加減ムカついてきて俺も叫ぶ。
「お前ん家の隣の人を銃で脅しただろ?」
「あ……」
やべえ。咎められるような真似、してたわ……
「すまなかった。でも俺はあんたにボコられるの初めてだぜ。それは誰かと勘違いしてる」
「そーかよ。でも制裁は制裁だ。しょっ引くのは面倒だから、俺の私刑で勘弁してやる。ありがたく思うんだな」
しつこく蹴りをかます梅津。謝ったんだからもういいだろうに。しつけーな。
「いくらなんでもやりすぎではありませんか? 梅津光器警部。しかも夜とはいえ、人目につく場所での所業。単に彼の肉体を傷つけているだけではなく、御近所付き合いもしづらくしてしまう効果もプラスし、彼の名誉も傷つけるということになりますね」
柔らかい声がかかり、梅津の蹴りが止った。
「先に近所付きあいを乱したのはこいつだ」
声の主の方を向き、梅津が言う。
「最初にやった方が偉いこともある。最初にやった方が悪いこともある。最初、最初、最初の特別。最初は特権。最初は免罪符。最初は方便。おっと、どうでしょう? 今の詩。即興にしては我ながら中々だと思うのですが」
台詞だけ聞いていても、何だこいつ……と思う俺であったが、まだそいつの――その女の顔は見ていない。逆光でよく見えない。
「お前を守ってくれる女もいるんだな。ちゃんと大事にしとけよ」
バツが悪そうに言うと、梅津は立ち去った。
「いや……その……」
心当たりは無い。何者だ? この女は。
俺は起き上がって、静かにその場に佇むその女――いや、少女を見て、固まった。
非常に小柄だが、顔つきを見ると十代半ばから後半だとわかる。くりくりとした大きな目。目以外は小作りな顔。パーツの配置は非常に整っていて、美少女と言って全く差支えが無い。柔らかそうな淡い栗色の髪は、緩やかなウェーブを帯び、腰まで伸びている。よく見ると横から後ろにかけて緩めに編まれていた。
わりと近い距離から少女を凝視する俺。少女はそんな俺に、嫌な顔一つすることなく、じっと見返してくる。
「初めまして」
心奪われ、言葉も失っている俺に、少女は丁寧に頭を下げてお辞儀して自己紹介した。
「稲城ほのかと言います。殴られた箇所は痛くありませんか?」
小首を傾げて尋ねてくる。そのジェスチャー一つをとってみても、とんでもなく愛らしい。
つーか……稲城だと? まさか、こいつがおっさんの娘? いや、そんな馬鹿な……すげー可愛いし、おっさんに全然似てねーぞ。
しかし本当におっさんの娘だと言うなら、こりゃ確かにサプライズだ。
「痛いに決まってるだろ。馬鹿か、お前」
今更の照れ隠しで、憎まれ口を叩いてみる。初対面ですげー見つめまくった俺のこと、一体どう思っているやら。しかも顔も赤いんじゃないかと疑ってしまう。何せさっきからずっと首から上が熱っぽい。
「馬鹿? 人に向かって馬鹿とは何ですか。しかも私の苗字を聞いても何も思い当たらないのですか?」
全く怒ってない風な穏やかな口調で抗議し、さらに尋ねてくる。
「おっさんの娘か? いや、俺のボスの稲城の……」
動悸が早まるのを感じながら、俺は質問し返す。苗字が同じ――というだけではなく、一目見て表通りの住人ではないことがわかる。裏通りの住人特有の臭いがある。つーかあまりにもおっさんに似てない美少女っぶりだから、ちゃんと後でおっさんに確認しとかないとな。
それに、ただ可愛いだけじゃない。すぐにわかった。こいつ、結構な使い手だ。実戦経験も当然あるだろうし、人を殺したこともあるな。何となく俺にはわかる。
「娘です。つい最近まで、とある情報組織で働いていましたが、身の危険に繋がる事態が発生し、仕事はお休みさせてもらっています」
丁寧な物言い。いやー、凄く躾けられているって感じ。どう考えてもあの大雑把の権化のおっさんの娘とは思えん。母親の方の教育が良かったという可能性もあるが。いや、きっとそうだろうな。うん。
「父から貴方に守ってもらうよう言いつけられてここに来ましたので、守ってくださいな」
何言ってるんだこいつ……。こいつ一人で来たのか?
嫌な想像がよぎる。おっさんの身が危ういか、奴等にもうやられてしまい、それで娘一人が命からがら逃げてきたとか。
「そんなこと娘から言われても、はいそうですかと従えられないな。おっさんから直接聞かないと」
悪い予想が外れてくれることを祈りつつ、おっさんに電話をかける。
『どしたー?』
あっさり繋がり、いつもの飄々としたおっさんの声を聞き、俺はほっと胸を撫で下ろした。
「ああ、おっさん。おっさんの娘と名乗る餓鬼が……」
『おお、行ったか。どうだ、俺そっくりの可愛い娘だろ? で、話は聞いてるな? ほのかを守ってくれ。気に入ったら手出しても構わんから。むしろそのままお前といい仲になってくれることを祈ってる。見合いの手間も省けるしな。じゃーな』
おっさんは弾んだ声で一方的にまくしたて、電話を切った。
改めてほのかを見る。絶対一目で気に入ると言っていたおっさんの台詞が、脳裏に蘇る。
おっさんの予言が的中してしまっていることを、悔しいが認めざるを得ない。気に入るどころの騒ぎではない。俺は一目で、ヤラレちまった。
「貴方は自分の組織のボスをおっさんなどと呼んでいるのですか? 仲が良いのはよろしいことですが、少々砕けすぎですね」
「手ぇ出しても構わないって言われてるから、あまり生意気な口叩くとやっちまうぞ」
「まずは事情を説明させてくださいな。どうせ父は何も話していないのでしょうしね。ここは玄関ですね。つまり話をするには不向きな場所ですね。あがらせてください」
わかりきったことをわざわざ口に出すと、ほのかは大きな目でじっと俺を見つめる。俺の許可が下りるのを待っているってわけか。
「上がれ。だが汚いぞ」
自宅のドアを開き、俺はほのかを中へと促した。
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