第十五章 4

 どうやら物心ついた時から、俺は虐待されていたようだ。

 俺はそれを虐待とは認識していなかったし、トラウマにもなっていないんだがな。しかし世間一般から見れば、あれはおそらく虐待の類なんだろう。


「私はお前の父親ではない。お前は私に飼われて生きている存在だ。お前は姿形こそ人と同じだが、人としては扱われない。私達よりも大きく劣るものだ。人の姿をした家畜だ」


 四歳だか五歳の頃から、俺に衣食住を与えてくれた男に、そんな台詞を繰り返し繰り返し言われ続けてきた。


「人間は平等ではない。私は格上の人間だ。お前はただ飼われているだけの、底辺の存在だ。人未満だ。私がお情けで飼ってやるからこそ、かろうじて生きていられる、哀れで惨めな生き物だ。そのことを常にわきまえろ」


 そいつが自分の本当の父親ではないということは、幼いながらも認識できた。

 そいつはことあるごとに俺を蛆虫の如く罵り、時に暴力も振るった。

 いっそのこと、俺に飯だけ食わせて本当にペット扱いしてくれりゃよかったのに、そいつときたら、俺に勉強を仕込んで、有名私立の小学校に通わせるわ塾漬けにするわと、ゴミ扱いする一方でまるで親子のような扱い。当時の俺には意味不明だった。


 そいつは食事の際、自分だけ俺の前でご馳走を食べ、俺には明らかにそいつとは劣る粗末な食事を食っていた。


「美味しいぞ~、これ。今夜の私の食費は一食八万円といったところか。お前のはせいぜい一食一万円といった所かな? 値段が違う分、絶対に私のほうが美味しいぞ~」


 食事の際には毎回同じことを言われる。俺は最初、何とも思わなかった。それが日常だった。この男のことを哀れとも思っていた。腹も立たなかった。

 つーかね、当時は全く判断できなかったが、今思うと、そいつの飯には明らかに劣っても、俺に出された料理も相当に豪華なものだったんだが……


 本当に腹が立ったのは、男が何で俺を虐げていたか、その理由を知ってからだ。そいつは俺が思っていた以上に、とんでもなく哀れで惨めな男だったんだ。


 そいつは癌だか何だか、とにかく死病に侵された。


 遺産を狙って、見たことも無い親族達とやらが、糞にたかる蝿の如く次から次へと見舞いに訪れたが、そいつは全て怒鳴って追い返した。


 俺は学校に行くのも辞めて、毎日病院で過ごした。そいつは学校に行かない俺を激しく叱ったが、俺はその時初めてそいつに逆らった。どんなに怒鳴られても、叩かれても、従わず、病院に寝泊りした。そいつの側を離れなかった。医者や看護士も心配してあれこれ言っていたが、俺は従わなかった。

 俺が離れている時にそいつが死んでしまうのが嫌だった。最期まで一緒にいたかった。


「本当にお前は……私を苛立たせる……最低の屑だよ」


 覇気に欠けた声で、痩せこけて肌の色もドス黒く変色したそいつは、ベッドの側でいつもじっと座っている俺に、声をかけた。


「逝く前に……全部教えた方がいいな。お前には、知る権利が……ある」


 いつも俺の目を見て喋るそいつが、その時は俺と目を合わせようとはせず、しかし真摯な口調で語りだした。


「私は次男だった。しかし父が若くして急逝し、その直前に急にヒキコモリになった長男には一族経営の会社を任せられないとして、私を跡継ぎに指名した。私にはサッカー選手になりたいという夢があったし、結構いい所までいっていたんだが、父の最期の頼みということで、それを引き受けてしまった。兄が哀れでもあったしな」


 そいつに兄がいたなどという話は意外だった。遺産狙いのメンツの中に、兄などいなかったし。


「私は継ぎたくもない会社を継ぎ、やりたくもない仕事をして、夢を諦めた悔しさを引きずってはいたが、当時付き合っていた女性と結婚し、幸福も手にしていた。彼女だけが心のよりどころであり、救いだった。愛していた。だが、彼女が身ごもり、生まれたお前は、私の子ではなかった。私の夢を食いつぶした兄の子だった」


 そこまで語られた所で、俺はそいつが――叔父がどうして俺を憎んで虐げていたのか、理解した。理解したつもりだった。だが本当の理解は、その後にやってきた。


「彼女はお前を産み落として死んだ。兄は子を育てることなどできない。私は余程お前を捨てようかと迷ったが、育てることにした。私を裏切った者と、私から何もかも奪った者への復讐のつもりで、お前を嬲って育ててやろうとな。その後は……知っての通りだ。ふぐぅっ」


 そこまで話した所で、呻き声と共にそいつの顔が見たことも無い形に歪み、目から透明の液体が零れ落ちた。


「私を恨むがいい。呪うがいい。私は全ての鬱憤をお前に叩きつけていた。お前を不幸にすることで、気を紛らわせようとしていた。だがもうそれも終わる。悔しさだけの私の報われない人生の滑稽な終焉だ。私を殴り返せよ、罵れよ、唾を吐けよ。もう今の私はお前を――」


 そいつの言葉は途中で止まった。


 俺はほとんど無意識のうちにそいつの手を強く握り締め、嗚咽を漏らしていた。

 そいつもすすり泣きだした。それ以上は何も言葉を交わす事無く、病室で、二人でずっと泣いていた。


 その時、俺の中で、初めて憎しみと怒りが芽生えたんだ。悔しさで胸がはちきれそうになった。腸が煮えくり返っていた。

 そいつに対してではない。そいつに悔しく惨めな人生を味あわせた奴に対して、怒りを覚えていた。運命を弄んだ者へ憎悪が沸き起こった。神様という奴を呪った。


 俺を罵りながらもちゃんと育ててくれたそいつの、怒りも悲しさも悔しさも惨めさも、全てその時、俺が引き継いでしまった。


 俺のこの気持ち、理解できる奴は少ないと思う。

 俺は生まれた時からそいつだけを見てきたし、そいつばかり意識していた。憎しみは無く、哀れみの意識をずっと持ち続けていたのは何故か?


 おそらく俺は、本能的に気がついていたんだ。


 そいつがとても純粋な、子供のような男で、ずっと泣きながら俺にサインを送っていた事を。凄く歪な方法で、悲しみを、痛みを、悔しさを、怒りを俺に訴えていたことを、俺はどこかで気がついていたんだ。

 見た目は大人でも中身は俺より小さい子供で、いつも泣きじゃくってばかりのそいつを、子供の俺がずっと慰めていたんだ。


「私の人生は無様な敗北者で終わったかもしれないが、お前は負けるな。何があっても負けるな。何があっても頑張れ。挫けるな。諦めるな。負けるな」


 最期にそいつは、一生忘れられそうにない厄介な言葉を俺に言い残し、くたぱった。


 俺は翌日には家を出ていた。その後は、本当の意味で底辺の生活を送っていた。家もなく、ゴミを漁り、乞食の生活。どれくらい続けていただろう。

 何でそんなことをしたのかと問われても、自分でもよくわからない。あの時の俺は、自分をいじめたい気分になっていたのかもしれない。俺の行動原理も思考も感性も、自分でも不思議に思うほどおかしい。


 そんな俺を拾ってくれたのが、おっさん――四葉の烏バーのボス、稲城辰五郎だった。

 最初は俺も従わなかった。しかし――


「その若さで、ゴミ漁り生活とかよー、哀しすぎるぜ。何でそんなことになっちまったのか知らねーけど、放っておけないよ。そんな人生の何が楽しいってんだ。お前がどんなに拒絶しても、無理矢理連れて行くわ」


 おっさんは言葉通り、俺を組織の事務所へ強引に連れて行った。


 最初は意地を張り、拒絶していた俺だが、見ず知らずの俺に情けをかけ、面倒をみるとまで言った超おせっかいなおっさんの厚意を無下にするのも、何だか凄く悪いことに思えて、俺は

四葉の烏バーの一員になり、住み家も得て、人間らしい暮らしに戻った。


 それ以来はそんなに悪くない日々ではあったが、過去の思い出が忘れられず、俺は日々怒りに満ちている。この世界そのものに激しい怒りを覚える。こんな糞ったれな世界を作った神様とやらをいつも意識し、心の中で唾を吐いている。


「神様、死ねよ」


 それが俺の口癖になっていた。

 ギャンブルに手を出し、負けてばかりいる。収入のほとんどをつぎこんでいる。最低な生活を送っている。それもまだ、自分を虐げたいという気持ちが残っているかもしれないと、漠然と思う。まあ純粋に人と競い合う賭博が好きだっていう理由もあるけどな。


「命を賭けたいちかばちかのギャンブルに、君は勝利したわけだー。もちろん、この賭けに勝ったからといって、その次も勝てるとは限らないけどねえ。人生は常にギャンブルみたいなもんだしさあ」


 ある女が言い放った台詞が脳裏にこびりついている。

 あの女はその台詞を口にした時、台詞とは全くそぐわない明るい笑顔だった。それが気に食わねえ。神様のつもりで、何もかも見下して生きている奴なんじゃねーかと思えちまった。


 恩はあるが、思い出したくない奴だ。余裕ぶっている奴ってのは嫌いだ。変に明るい奴はもっとムカつく。

 この世界では、自由になることもなく、幸福に満ちた明るい笑顔とも無縁のまま、惨めに冷たくなって転がっている奴が山ほどいるってのに。それなのに何で、一方では、同じ世界にいながら、幸せに浸れる奴がいるんだ。


 神様死ねよ。俺達は、幸せな連中に小馬鹿にされるために生まれてきたのか? 奴等に利用されるために、奴等の糧になるために、奴等をほんのひと時だけ満足させるために、俺達は生まれてきたのか?


 人生が常にギャンブル? 全てはただの運次第? オーケイ、確かにこの世界はそんな風に出来ている。運が良ければどんな屑も宝くじで一発逆転。運が悪ければどんなに積み上げた努力と成果も、事故って一発死亡でオールロスト。一体何だ? この糞みたいな世界は。

 神様がどんな奴かを想像する。きっと醜悪なツラをしているんだろうなと思う。いや、見た目は問題じゃない。その性根がねじくれてひん曲がっているのは疑いようがない。

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