第十三章 12
グリムペニスのホエールウォッチングツアー当日の朝。船の窓から外を眺めると、すでにドリーム・ポーパス号の前には長蛇の列が並んでいる。
今回も盛況なようだと、アンジェリーナ・ハリスは満足げに頷いたが、大嫌いな日本人が大量に集まっているという事実を意識し、吐き気をもよおす。
ついでに昨夜のジェフリー・アレンとのやりとりを思い出し、ますます気分が悪くなる。
ジェフリーの要望により、彼の私兵を船に乗せることを了承した。今回のツアーは、平穏無事には終わらないような気がしてならないアンジェリーナである。
船に海チワワの兵士を乗せる時点で、イーコという妨害者達も間違いなく、船に潜入するわけだ。ジェフリーはそれを確信しているからこそ、そんな要望をしてきたのだ。
「船に乗せる前に片付けられなかったの? あの無能……。船に乗せずに防ぐことはできないの? あの無能……」
爪を噛みながら毒づくアンジェリーナだが、彼女にもわかっている。魔術師であるジェフリーが無理だとお手上げした時点で、現在のアンジェリーナにはろくに打つ手がない。せいぜい救援の船を呼び、ツアー最中に接触してこっそりと誘拐してきた者を移し変える程度だ。
電話が鳴る。相手の名を見てアンジェリーナの顔が綻ぶ。
「もしもし、ママ」
長いこと帰宅していない実家からの電話であった。
「うん、私頑張ってる。これから大事なツアーをするのよ。私が主催者という立場だからね。うん、大変だけどやりがいはあるわ。そう、皆を笑顔にできる誇り高い仕事だと思っているわ」
最後の言葉は嘘であったが、母親を安心させるために誇らしげに語る。
「じゃあね、愛し――」
最後の言葉の途中に、ノックの音がした
「てるわ」
せっかくのいい気分が台無しにされそうな予感がして、扉を睨むアンジェリーナ。
扉を開けると、悪い予感が的中した。ジェフリーの不気味なにやけ顔を朝早くから拝むことになった事に、アンジェリーナは舌打ちしたい気分になる。
「何の用? 世間話ならいらないわよ」
「おやおや、朝から御機嫌斜めなことで。俺もわざわざ赴いて世間話をするなら、相手を選ぶ」
「エリック以外の話し相手があなたにいるの?」
ジェフリーの嫌味に、アンジェリーナも意地悪く笑って嫌味でお返しする。
「口の悪さの達者さにはかなわんね。はいはい、俺の負け。さてと、報告も相談もせず引き返して困らせてやりたい気分ではあるが、俺は優しいからな。我慢しよう。よかったなぁ~、俺が優しくて心の広い男で~。さて、本題だ。下に並んでいる客の中にな、何とあの雪岡純子がいるんだなー、これが」
おどけた口調でのジェフリーの報告に、アンジェリーナは固まった。
グリムペニスとは犬猿の仲であるマッドサイエンティスト達の中でも、雪岡純子は特にグリムペニスと対立している。非常に好戦的であり、これまでにも何度も喧嘩を売られ、ただならぬ被害を受けている。
海チワワとも何度も抗争を繰り広げている。特に日本での活動が多いジェフリーとエリックは、幾度も交戦したことがある間柄だ。
「ほらほら、あれあれ。見て見て」
窓に身を乗り出し、双眼鏡を覗いて手招きするジェフリー。ひったくるようにしてジェフリーから双眼鏡を受けとり、アンジェリーナは列に並ぶ人達を確認していく。白衣という目立つ姿であるがため、発見するまでに時間は要さなかった。
「はいはい、どーするかね? 下手すりゃツアーそのものを潰されかねないよ? 今から中止が一番無難だと俺は思うなあ」
「グリムペニス本部から船を一隻、こちらに寄越してもらうわ。もちろん兵も十分に用意してもらって。ホイール・ウォッチングが終わった頃には、接触できると思う」
感情を押し殺した声で言うと、アンジェリーナはジェフリーを睨んだ。
「たとえ相手が誰であろうと、貴方は全力で排除してちょうだい。私のツアーを守るのが貴方の役目なんだから」
「はいはい。海チワワ一同、命を賭して頑張りますよお。貴女のメンツを守るために、ね」
アンジェリーナに顔を近づけて、へらへらと人を小馬鹿にした笑顔を間近で見せつつ、ジェフリーは言い放った。
***
亜希子はドリーム・ポーパス号へと乗り込み、出航後、甲板の手すりに両手をかけた格好のまま、ずっと海を眺めていた。
純子、真、零と一緒に乗り込み、純子と真はすでに客室へと向かったが、亜希子は甲板から動こうとしない。ゴスロリ衣装の少女が甲板の同じ位置でずっと海を見続けている姿は、見る人によっては異様と映るかもしれないが、零の目からはわりと絵になると思えた。
少し離れた所で、亜希子を見守るようにして、壁に背をあてて腕組みしていた零であったが、やがて亜希子の方へとゆっくりと近づいていく。
「潮風にあたるのが気持ちいいのか?」
何とはなしに声をかける零。
「うん……それだけじゃないけどさ」
亜希子が小声で答える。
波、潮風、水平線、延々と広がる海と空の青、それら全てに感動してしまっている。生で見る海は、映像で見たものとは全然印象が違った。
零が横から亜希子の顔を覗き込むと、船の手すりで震えながら泣いていた。
「何を泣いているんだ?」
尋ねるのも無粋と思ったが、あえて零は尋ねてみた。
「わからない。私はずっと家の外に出ちゃいけないって言われていたし、それなのに今こうして外に出て、海の上にいる。こんな素敵な体験が出来ることが、嬉しすぎて怖いのよ。まるで自分が悪いことしているみたいな、そんな気分なの。でも、何で泣いてるのかわからない」
掠れ気味の涙声で答える亜希子に、零はどんな言葉をかけてやればいいかわからなくなる。
「こんな風に感動できるのも、皆あの憎たらしいママのおかげなのよねえ……。本当複雑よ」
言いつつ小さく笑い、涙をぬぐう。
「ママにも聞いたけどさ、純子はママの敵なんでしょ? なのに純子の言うことに従ってていいの?」
零の方を見て、亜希子は唐突に話題を変える。
「今はそういう時期だ。従っておく。敵であると悟らせないようにな」
どうせ純子の事だからそれも見抜いてしまうのではないかと思う零だが、百合の考えもわからないので、ここは両者の言うことにただ従うだけにしておく。
「ママの敵と仲良くなって、ママに嫌がらせができるわね」
そうなったら逆に百合に利用されるのがオチではないかと零は思ったが、口にはしないでおいた。
「お前はまず見聞を広めた方がいい。百合もきっとそう思っている」
「ママがそんなこと思うわけがないじゃない。私を十八年間もあの屋敷に閉じ込めるようなママなのに」
亜希子が口元に歪な笑みをこぼす。
「だからこそ、だろ。百合はもう、お前に対する見方も扱い方も変えている。だからこそ俺にお目付け役をさせているし、純子の元へも向かわせたのだろう。ただし、わかっているだろうが百合を信用するな」
これは口にすべきことではないのではないかと、喋りながら零は思う。
お節介焼きなのは昔からだが、中立的な立場でどちらかに加担するようなことは、今まで無かったはずだ。百合と亜希子の間柄を考えれば、百合の食客という立場である自分が突っこむことではないと。
「ママを信用? あはははっ、冗談としては面白いわね。私がママを信じているとでも少しでも思ったの?」
乾いた笑い声をあげる亜希子を見て、零は息を吐く。
「そうだな。俺も馬鹿なことを言った」
「ママはね、いずれ私を残酷な方法で殺すつもりなのよ? わかってるんだから」
零から顔を背け、また海を見つめる亜希子。
「私にしばらくの間自由を満喫させて、世界の素晴らしさを味あわせて、幸福になった所でドン底に突き落とすつもりなの。ママのやりそうなことでしょ?」
やけくそになっているわけでも諦観しているわけでもなく、不敵な笑みを浮かべている亜希子を見て、零は疑問を覚える。
「それがわかっているのに、何故百合の元にいるんだ?」
「さあね~。教えてあげなーい」
笑顔のまま、とぼけた口調で亜希子は言った。
「百合がお前を人として成長させようとしているのは、百合自身の目論見があってのことだが、お前もお前でそれを利用している、と。その解釈が一番無難なのかな?」
実際はそれだけではないだろうと、零も見抜いているが、言わぬが花と判断した。
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