第十二章 4

 それまで平穏無事に暮らしてきた者の感覚からすると、報道される事件など、別の世界の出来事であるように思える。

 もちろん理屈では違うとわかっている。今日にも、すぐにも、何か途轍もなく悪い事件に巻き込まれる可能性はある。理屈ではわかっているがしかし、油断している。


 結婚して三年目、もうすぐ二児の母になろうとしている船木麻苗ももちろん同様だ。普通の人生。普通という名の安全なレールの上だけを走る人生。そこから脱線するなど、夢にも思っていない。脱線する人間は別世界の話だ。自分には関係無い――と。


『ここ数日、またもある日突然家族ごと蒸発する、失踪事件が急増しています。警察は組織がかりの誘拐事件と見なして捜査を行い――』


 テレビのニュースを見ている途中、呼び鈴が鳴る。膨らんだ腹を気遣い、麻苗はドアホンの受話器を取り、マンションの入り口前の映像を映す。

 宅配業者の姿が映しだされる。実家からだろうかと訝り、マンション入り口のドアを開け、自宅のドアも開けにいく。


 ドアを開いた瞬間、宅配業者が素早くドアの中に足をさしこんでチェーンを工具で切る。そして数人の宅配業者の格好をした男がなだれこんで、麻苗の口元を押さえて、慣れた手際で拘束していく。

 その際に麻苗は彼等の顔を見た。全員白人だった。


 麻苗とその息子は薬物で意識を失わされた状態で、巨大なトランクケースの中へと入れられ、外へと連れ出された。

 宅配トラックを装った車の荷台へと、トランクが入れられる。さらに彼等の何人かも、荷台の中へと入る。


 一見して、ただのありふれた荷物を運ぶ作業で、誰もその光景を気に留める者などいない――と思われたが、そうではなかった。その様子を終始監視している者がいた。


 その監視している者二名が、トラックが発車する前に、荷台の上へと乗った事にも、誰も気付かない。


 荷台の中では、トランクケースから出された麻苗が意識を取り戻し、周囲の様子と自分がどうなっているかを見て驚いた。

 拘束されている人達が二十人ばかり、すし詰めの状態で座らされている。その中には一歳になる息子もいる。


 息子の名を呼ぼうとしたが、猿轡のせいでできない。入り口付近には、宅配業者の格好をした白人数名が腰かけている。


 そこで麻苗は思い出した。さらわれる前に流れていたニュース。組織がかりと思われる、一家丸ごと誘拐する事件。あれは最近起こったばかりの事件ではない。何ヶ月かおきの間隔で、集中的に発生し、その度にマスコミで騒がれている。

 突如破られた人生の安全条約に、麻苗は底知れぬ恐怖と絶望にとらわれる。何故自分なのか? 何も悪いことをしていないのに、どうしてこんな目にあうのか? 運。ただの不運。それだけだということは理性ではわかっている。しかし納得できない。


 麻苗だけに限った話ではない。この場にいるさらわれた者達全てが、同様の思いで、不安と絶望を胸にトラックに揺られていた。一人例外がいるとしたら、未だ寝ている麻苗の息子だけだろう。


「くーっ、何てことですか。目撃しておきながら何も手を出すことができないなんてっ」


 そのトラックの荷台の上で悔しげに喚く者がいたが、誰も気がつかない。そもそも声だけで姿は無い。


「今は堪えるしかないわ。とりあえずこれで、彼等の行き先だけは確認できる。それだけでも大きな成果よ」

 なだめるように、異なる声が言う。


「これだけの人をさらって、どうするのかはわからないけど、時間が経てば経つほど危険の可能性がある。国外に出されて人身売買などされたら、流石にそれ以上の追跡は厳しいから、陸にいるうちに助け出さないと。今のうちに仲間を集めましょう。絶対に助けないと」

「らじゃーっ。救出作戦開始―っ」


 見えない二人組が、それぞれ気合いを入れた。


***


 構成員たった三人の始末屋組織、ほころびレジスタンスが設立されて、約半年が経つ。


 仕事はそこそこ入ってくる。たまにしくじる事もあるが、比較的成功率の高い始末屋として、少しずつだが評価も上がっている。だが凜からすると、評価云々よりずっと問題視している部分がある。


 組織の責任者は晃であるし、組織自体の舵取りは晃が行うが、現場での行動は全て凛が指揮役として仕切っている。

 かつて凛が純子から裏通りで生きるためのノウハウを叩きこまれたように、凛が晃と十夜を鍛えて面倒を看る立場になったわけであるが、凛の目から見るとこの二人は、いつまで経っても危なっかしい。

 未だに先輩である自分が面倒をみている形であるということ。それが大問題だと、凜は常日頃から思っている。


(もう半年になるんだからいい加減何とかして欲しいわ。少なくとも私はここまで純子の手を煩わせたりしなかったし)


 最近同じことを何度も思う凜。十夜も晃も、進歩している部分は進歩しているが、駄目な所はずっと駄目なままなのが問題だ。


(昨日の訓練でキツいこと言ったけど、どれだけ真剣に受け止めてくれたかも、いまいちわからないのよね)


 凜の見たところ、彼等に決定的に足りないものは慎重さと緊張感だ。半年という時間は、裏通りでは決して短くない。その間に晃も十夜も目覚ましく成長した。だが凛がすぐに助け舟を出してしまうせいか、肝心な所でドジが目立つ。


「これまでは私達三人一塊で行動する事が多かったけどね。シチュエーションによっては二手に分かれなくちゃならない事も起こりうる。実の所、そうした方が有利な局面は、今までだって何度もあったけど、貴方達が危なっかしいせいで私の監視下から外せなかったのよ。現に私の助けがなければヤバい局面も何度もあったしね。でもね、せっかく人数いるんだから、もっとそれを活かせるようにもしたいと思わない?」


 事務所にて、十夜と凛を前にして凛は御説教モードに入っていた。十夜は申し訳なさそうに縮こまっていたが、真摯な態度で凛の話を聞いている。


「えー、でもそれはさあ、互いに支え合う強みってことでいいんじゃないかな? 三人いるからこそ、互いの隙を埋めあっているという見方で」


 問題は晃の方であった。才能も行動力も有るが、慎重さに欠ける彼のせいで、何度か窮地に陥った事がある。しかもそれを反省している気配もあまり無い。


「私の言うことをまず聞きなさい! いつまでも甘えてるんじゃない!」


 おまけに自分の話に真面目に耳を傾けようともしないので、凛は珍しくキレた。自然と声を荒げていたことに、凛自身が驚いていた程だ。晃と十夜も、凛に説教されることは珍しくなかったが、ここまではっきりと怒鳴られたのは初めての事で、びっくりした顔で凛の事を見ている。


「ごめんなさい……。僕達のこと案じてくれていたのに」


 流石に晃も決まりが悪くなって、神妙な顔つきで深々と頭を下げる。凛の方も自分が怒鳴った事に決まりの悪さを覚えて、大きく息を吐く。


 その後数十秒ほど、重い沈黙が流れた。


「次の仕事から、別行動した方が有利と判断できる局面が生じた場合、容赦なくその決定を下すね」

 追い打ちをかけるかのように、凛は告げた。


「もちろん、難易度が高そうな方には私がついてあげるけどね。でもそれも恥ずかしいことだと思ってね。半年経ってもまだこんなレベルなんて、本来は有り得ない事なのよ。私が過保護すぎたのも悪かったけどさ。でももう過保護もこれまでとする」


 難易度が高い方に手助けするというのでは、結局未だ過保護なままだと、凜も喋っていてわかっている。余計な手助け自体やめるくらい突き放さないと、甘やかしているままだ。だが、突き放して結果お陀仏では話にならない。


「あるいは私が単独行動して、あなた達二人セットで行動という形ね」

 鍛える目的なら、こちらの方が良い気もする凜。


「凜さん単独、俺と晃のセットの方がいいんじゃないかなあ」

「僕もそう思う」


 二人の少年も同意する。


「まあそれも状況次第だけどね。少し訓練してみる? 私が鬼の役をするから、あなた達は私から逃げつつ目的地へ行く鬼ごっこ。どちらか一人でもゴールすることが目的」

「へー、面白そう」


 凜の提案に晃が目を輝かせる。


「凜さん、当然妖術は使わないよね?」

「バリバリ使うつもりよ」


 十夜の確認に、凜はにっこりと笑って答えた。


「うまいこと二人でルートを考えて、場合によっては囮も使うようにするのよ。じゃあ、今からスタートしましょう。ゴールは安楽駅。私は外に出て、五分経ったら追いに行くから」

 言って凜は立ち上がる。


「よし、頑張ろうぜぃ、十夜」


 気合いを入れる晃と、一方で不安げな面持ちの十夜を横目で見つつ、凜は事務所の外へと出る。


(中々面白そうな試みだな。うまくいくといいな)

 凜の頭の中で町田が声をかけてくる。


 凜が町田の術を用いて、亜空間トンネルを作り出し、事務所の向かいにある三階建てマンションの屋上へと移動する。事務所のあるビルの入り口がここからならよく見える。


「うまくやらないと駄目ね。本気でやったらさっさとケリがついちゃうから訓練にもならないし、私が調整する形でさ」


 蛇の絡まった十字架のペンダントを弄びながら、凜は声に出して町田と会話する。十夜と晃の二人と仕事をする前は、町田と話す時はよく肉声に出していたものだが、彼等の前でいちいち声を出して会話するのは、流石に憚る。


「その調整も、あの子達の出方次第で臨機応変で変えないといけないし、私にとってもいい修行になっちゃうかもね」

(私は口を出すだけの指導だったから、お前が羨ましいよ)

「駆け出しの頃に、町田さんに散々注意されまくっていたのも懐かしいよ。あの子らはもう駆け出しとはとても言えないのに、まだまだ未熟で……」


 会話は途中で止まった。事務所のビルの前にタクシーが停まったのを凜が目にしたからだ。

ビルの中から晃と十夜がタクシーに乗り込み、タクシーはそのまま駅の方に向かって走り去る。


(追わなくていいのか?)

 凜の中で呆然とした様子で声をかける町田。


「あの糞餓鬼共……」

 拳を握り締めて震わせ、凜はドスの利いた声で呻いた。


 数分後――駅前の道の脇に並んで正座させられ、衆目に晒された状況で凜に説教を食らう十夜と晃の姿があった。


「だからやめようって言ったのに……」


 人目を意識してうつむきながら、十夜が小声で晃に愚痴る。


「何でこれがいけないかなあ……。ルールで乗り物を使っちゃ駄目なんて言われてないのにさ。凜さん、負けたからってズルくない?」

「じゃあタクシーで目的地に直行して、一体何の訓練になるか言ってみなさいよ」


 臆せず堂々と疑問を口にする晃に、凜は冷めきった口調で告げた。

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