第十二章 3

 翌朝、凛は事務所で朝食を作っていた。


 かつて凛はフリーの常として複数の根城を持っていたが、それらも引き払ってしまい、今は晃と共に事務所に寝泊まりしている。

 自宅と呼べるものが無い晃は、事務所に住み込みの状態であり、放っておくと栄養バランスを考えない無茶苦茶な食事を取るため、凛も共に事務所に泊まり込み、栄養管理に至るまで面倒をみている。


 十夜に至っては、今までコンビニ弁当ばかりを食していたというので、自分で栄養を考えて料理を作るように指示しておいた。それ以後、十夜はちゃんとした食材を買って、自分と父親の分の料理を作るようにしたようだ。


 十夜は口で指示するだけでちゃんと言うことを聞いてくれるが、晃はそうはいかない。目を離すと勝手なことばかりする。


「何で食い物のことまでとやかく言われるのさ。ま、凛さんの御飯美味しいし、話し相手がいて寂しく無くて済むけど」


 凜と向かいあって食事を取りながら、晃は文句を口にする。


 裏通りに堕ちる前、晃にとって家というものは心を落ち着かせられる場所ではなかった。それが今や、心を許せる相手と共に過ごせるという状態になっている。

 凛の狙いはそれもあった。晃が裏通りに堕ちるに至った事情を知って、家族の温かみを知らない晃に、それを教えてやらねばならないと思い至ったのだ。


「元はといえば純子の教えなのよ。コンディションを常に良好に保つためには栄養バランスを整え、体に害になる食事はできるだけ取らないようにって」

「体に害になるものって?」

「主に乳製品とかね。あと肉類や油類も控えめにしているの、気が付いている? 純子の話だと、日本人の体質自体が油に適さないんだって。元々日本人は油を使った料理を食していなかったから。肉もそんな感じだとかなんとか。あと、カフェインも悪いものだって言ってたけど、その割にはあの研究所ではお茶ばっかり飲んでたわね。まあ、あなた達は成長期だから、その辺の食事管理は余計に気を遣った方がいいと思うの。これも純子のアドバイスだけど」


 凜の話を晃は興味深そうに聞いていた。


「ふーん。でもさー、前から聞きたくて聞くのが恥ずかしくて言えなかったけど、どうして凛さんて、僕や十夜にそんなに至れりつくせりしてくれるの? 特に僕に対しては、まるっきり保護者状態だしさー」

「あなた達に欠けたものを埋めるためよ。十夜はお父さんと和解して、良い親子関係をこれから作ろうとしているからまだいいけど、家族を殺したあなたには、それはもう無理でしょ?」

「殺さなくたって、あんな奴等――」


 一番触れてほしくない話題に触れられ、不機嫌さを丸出しにして何か言おうとした晃に向かって、凜は手をかざして制する。


「最後まで聞いて。私はね、両親に愛されまくって育ったの。あなたとは逆で、家族に恵まれていた。その後裏通りに堕ちたばかりの時も、純子にいろいろと親切にあれこれ面倒みられまくった。だから今度は私が誰かに与える番だなって、あなた達を見て思ったのよ。特に晃、家族に悪いイメージしかないあなたにはね。ついでに言うと私、一人っ子だったし、弟か妹が欲しかったからその代わりっていう気持ちもあるから、気にしなくていいよ」


 何より、家族愛を知らず、家庭というものに憎悪しかない晃は、凛の目から見て心底哀れと映り、その黒い炎だけは消してやりたいと感じていた。家族というものは温かいものでなくてはいけないという考えが、凜の中で確固として存在していた。


「恋愛感情とか、そういうのは全く無いわけ?」


 いやらしい笑みを浮かべて訊ねる晃だったが、凛はふっと鼻で笑う。


「そんなのを期待してたら残念だけど、全く無いわ。特にあなたには。人間的にはともかく、異性として見たらわりと嫌いなタイプだし。永久に弟ポジションだと思って諦めてね」


 逆に言えば、だからこそ同じ場所で共に生活できるとも言える。正直な所、凛はあまり色恋沙汰などしたいと思わない。どんな異性を見ても、父親と比べてしまうと色あせてしまうという理由もある。


「あのー……そうはっきりと言われると、例え気が無くても堪えるんだけどー」

「まあ、お父さんの言いつけでもあるのよね。貰うばかりではなく、与えられる人間になりなさいって。私は今まで貰ってばかりの人生だったから、黒い世界に足を踏み入れたばかりのあなた達に、与える側になってもいいんじゃないかなーとも思ったし」

「むー……貰うばかりではなく、与えられる側か……」


 その言葉が晃の心に響いたようで、難しい顔をして唸る。


「僕もそれくらいできるようになりたいけど、今の僕は自分のことで精一杯だからなあ。先の長い話だねー」

「正確には、その自分のこともろくにおぼつかない――でしょ」


 溜息混じりに言う凜。


「あなたと違って十夜は、飲み込みこそ悪いけど謙虚だからね。あの子の方がまだ安心して見ていられる。あなたは十夜の姿勢を見習った方がいいよ。ごちそうさま、と」


 いち早く食事を終えた凜が、食器を流しへと持っていく。


「凛さんは僕より十夜のが好みなんじゃない? 接し方からしてあからさまにして違うしさー」


 凜の後姿――形のいい臀部の辺りを見ながら、茶化すように問う晃。


「恋愛対象としては見られない。ていうかね、接し方が違うのは、あなたは馴れ馴れしすぎるけど、十夜はちゃんと私を目上の人間として見て、礼儀正しく振る舞ってくれるから、そりゃ私としても十夜の方に優しく接するわよ」


 晃の方に振り返り、悪戯っぽく微笑んで凜は言った。


「そもそも恋愛自体したくない。男性自体に苦手意識もあるしね。私自身ファザコンだから、どうしても父親と比べちゃうし」


 そしてこれは流石に言わなかったが、凛にはレズっ気もある。


「あとね、高校時代に私の親友が自殺した事も、恋愛ってのに苦手意識を持った原因なの」


 食器を自動洗浄機の中に入れながら、今まで誰にも話したことのない忌まわしい思い出を口にする。


「その子の自殺の理由なんだけどね。彼氏が事故死したことに対して真実の愛の証明をしたいとか、最期に私にそんなメールを送ってきてさ。本当に心から愛している者がいなくなったら、その後で生きていくこともおかしいから、死も生も共にしなくてはならない。その時だけ哀しんで、悲しみが癒えた後にはまた人生をのうのうと楽しみ、別の誰かを好きになって幸せになるなんて耐えられない。それは真実の愛ではない……って書いてあった」


 その主張に凛は共感したし、親友の死を悼んだが、一方で自分はあくまで生きていたいと思うし、そこまで恋人に思い入れて、相手が死んだら自分も死ななくてはならないなら、恋人自体作りたくないという考えだ。町田には悪いが、凛は生涯独身でいたいとすら思っている。


「うーん……どうなんだろうね、それは」

 晃は凜の話を聞いて、難しい顔で唸っていた。


「いくらなんでも極端すぎるって気がするな。僕も本気で女の子好きになった事無いから、わからないけどさー」

「私も無いけど、そういう本気の想いを馬鹿にはできないよ」


 馬鹿にするつもりはないが、そんな気持ちになるのであれば、恋愛などしない方がいいのではないかと、凜にはそう思えてならなかった。

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