第十章 23

 安楽市絶好町の北部には、様々な施設がある。

 その中の一つ、数年前に作られたばかりの通年営業の屋内スケート場に、由紀枝は興味を抱いた。


「ここ入った事なかったよね? ちょっと遊んでいかない?」


 立ち止まってスケート場の方を向き、由紀枝が声をかける。


「いいけど、俺スケートやったことないから、由紀枝が教えてくれよ」

「いや、私も一度もしたことないけど、やってみたいなーって思ってたの」


 そんなわけで二人共初心者という組み合わせで、初スケートへと臨む事となった陸と由紀枝。

 平日の夕方であるため、あまり人が入ってなかったが、それでも児童や学生達の姿がちらほらと見受けられる。


「凄く歩きづらい……」


 生まれて初めてスケートシューズを履いた由紀枝は、ブレードだけしか接地しない状態でふらつきながらぎこちない足取りで床を歩き、転びそうになる恐怖を覚えていた。


「そうかな?」

 同じく初めてのはずの陸であるが、こちらは全く平然と歩いている。それどころかうまく歩けない由紀枝の片手をひょいと取り、いざという時の支えになって歩いているほどだ。

「ありがと……」


 照れくさそうに礼を述べ、陸と手を繋いだまま、400メートルトラックのスケートリンクへと向かう。


 陸は躊躇いなくスケートリンクに足を踏み入れると、パーカーについたフードを目深に被った状態で、器用に滑る。繁華街を歩く時や、人の多い場所に赴く際は、警備カメラを意識して、一応最低限の変装はする陸であったが、連れ添っている由紀枝がぶかぶかのブラウスに短パンというおなじみの格好を貫いているので、陸の変装の努力もあまり意味が無いとも言える。

 初めてだと言うのに、陸はまるで経験があるかのように、他の客と同様にすいすいと滑っていた。パーカーを目深にかぶっているため、他の客には、陸の双眸が閉ざされている事はわからない。


 一方で由紀枝は、スケートリンクの端の柵に両手をついて足を震わせている状態で、珍しく憮然とした表情でもって、陸のことを眺めていた。


「何なの、この違い……。いくら運動神経の差があるからって、こんなに違うものなの……」


 複数の銃を持った相手に無双するほどの戦闘力を備えているのだから、どんな運動にも適応できるセンスがあっても不思議ではないが、実際に試してみて、とても自分には不可能な事を軽々とこなしている陸に対し、由紀枝は今更ながらに驚嘆した。

 しばらくの間由紀枝は、柵から手を離して数10センチ滑ってはまた柵を掴むという行為を繰り返し、少しずつ滑る感覚を掴んでいた。


「ちょっと一緒に滑ってみようか」


 そんな由紀枝の様子を見て、一人で滑って楽しんでいた陸が声をかけてくる。


「いいよ……恥ずかしいし。一人で何とかする」

「いや、そんなやり方するよりも、俺に合わせて滑った方が、慣れるのも早いと思う。転びそうになってもすぐ支えるから大丈夫だよ」


 そう言うなり、陸は無理矢理由紀枝の手を取って滑り出した。

 いつも無表情な由紀枝も、今回ばかりは怖いのと恥ずかしいのが入り混じったパニくり顔になって、そのうえ赤面までしていた。転ぶまいと掴んだ陸の手に意識を集中しつつ、同時に必死に体のバランスの維持に努める。


 最初は陸に引っ張られる形であったが、途中から陸が足を動かさなくなってきたのがわかったので、陸の足運びを真似して自力で滑ってみる。


「ちょっと手離してみて。何か一人で滑れそうな気してきたし」

「ああ、気を付けて」


 陸が手を離す。両手を不安定に拡げ、由紀枝は何とかバランスを保ちつつ、一人で滑ることに成功した。


「おめでとー。んじゃ、俺は一人で滑ってくるわ」

「ありがと……」


 由紀枝の様子を見て素っ気なく告げると、陸はスピードを出して滑り出し、由紀枝から離れていく。何となく不服げな面持ちで、由紀枝はそれを見送った。


 ふと、由紀枝は小一の時の記憶が脳裏をよぎった。目の潰れた子猫を拾い、家に持っていったが両親に拒絶され、捨てた時の記憶。


(今度は私が捨てられた猫……なわけないか。私は捨てる時心苦しかったけど、あいつ、平然と一人で行っちゃったし)


 ため息をつき、のろのろと陸の後を追うように滑る。


 陸はというと、普通に滑るのも飽きて、スピードを出してバックで滑っていた。


「何あの人、後ろ向きであんなにスピード出して」

「まるで後ろに目ついてるみたいに、器用に避けてるぞ」

「つーか、バックは禁止だろ……」


 後ろ向きに結構な速さで滑る陸を見て、他の客がどよめく。係員が注意しに来る前に、陸は滑る事に早々と飽きて、スケートリンクから上がった。

 飽きっぽいタチの陸がやめた後も、しばらく由紀枝は一人で滑っていたが、すぐに疲れてしまい、リンクから出る。


「これ、ただ滑ってるだけで楽そうだと思ったら、全然そんなことないね。へとへとだし、汗びっしょりになっちゃった。楽しいけど」


 陸の元にやってきて、由紀枝は言った。疲れたのもあるが、何よりスケートシューズを早く脱ぎたいという欲求に駆られている。足を締め付けるような違和感がどうしても慣れない。


「ちょっと早いけど晩飯にしようか」

 すぐ側にある飲食店を親指で指す陸。


『大好きなあの人のこと、想うだけで幸せなんだけど、同時に胸が張り裂けそうになる――』


 席について食事を取っていると、月那美香の曲が流れてくる。ポジティヴな美香にしては珍しい失恋を現したバラード。しかし一番売れた曲でもある。別れの辛さと思いが通じなかった痛みを訴えた歌詞。


「この歌って、月那美香が実際に失恋して、そのショックの勢いで作ったって、本人がテレビで叫んでたよ」

「ふーん」


 由紀枝が解説したが、陸はまるで興味の無い素振りだった。


「やっぱ今回はやめない? 月那美香殺してほしくないし、何だかすごくガードされてたし、いくら陸でも危ない気もするし」

「葉山が芦屋の足止めを失敗したら苦しくなるな」

「成功したとしても月那美香もいなくなっちゃうし、どっちに転んでも私は嫌な展開だな」


 その後しばらく二人は無言で食事を続けていたが、先に食事を終えた陸が口を開いた。


「由紀枝、もし俺がゲームオーバーになってもさ、お前もゲームやめちゃうってのは、俺としてはやめて欲しいかな」


 陸のその発言に、由紀枝は不穏な響きを感じて動悸が速くなる。


「このゲーム、俺はよく糞ゲーとか言ってるけど、深刻なバグ放置されてたりゲームバランスいろいろ狂ってたりで糞ムカつくこと多いけど、それでも面白いよ」


 本当に楽しそうな笑顔で語る陸。


「このゲームの先に何があるのか、最後はどうなるのか、俺に見る事ができなかったから、由紀枝に代わりに見てほしい……なんて思ってみたりね」

「あのさ、陸……。何か今、死亡フラグ立ててない?」

「ゲームオーバーの予感があるから言うんじゃないよ。これはいつか言っておこうと、ずっと思ってたことなんだ」


 由紀枝の指摘に、苦笑気味になる陸。


「俺、ずっと一人ぼっちだったしね。一人で何年もこのゲームを続けてきた。やっと巡りあえた話の通じるプレイヤーが由紀枝なんだ。だからさ……」

「私も似たようなもんだよ。一人ぼっちだった。で、もしも陸がいなくなったらまた一人ぼっちだけど、一人で続けろって言うの?」

「うん。別にプレイヤーは俺と由紀枝だけじゃないし、俺がいなくなっても、ウマのあうプレイヤーと出会って楽しくゲームできるかもしれないしさ」


 陸の話を聞いて、由紀枝は気持ちが沈んでいくのを実感する。陸がいなくなった時のことなど、考えたくもない。そしてそうなった時のことを、他ならぬ陸に言われることが辛い。


 また昔の記憶が思い浮かぶ。いつも思う。目の潰れた子猫は本当に誰かに拾われたのだろうか? そしてその後はちゃんと幸せに生きられたのだろうか?

 そして今ではこうも思う。あの猫はどうして目が潰れていたのかと。目が赤いかさぶたのようなもので覆われていたのは、目だけに怪我をしていたと考えられる。そんな怪我を果たしてするのか? ただの病気ならまだしも、誰かの悪意で潰されたのではないかと、勘繰ってしまう。

 自分には、あの猫を飼ってやることは出来なかった。救ってやることはできなかった。だが今の自分は、目の見えない陸に拾われ、救われた。ひどい皮肉のように思えてならない。


「陸と離れたくはないし、そんなことになりたくもないし、それ以上聞きたくない」


 俯き加減になりながらも、はっきりとした口調で由紀枝は言いきった。


「だから危ない真似もしないで欲しい。芦屋が待ち構えている可能性が高いんなら、わざわざ行く事も無い。私のために」


 最後の一言は、由紀枝自身驚いていた。ついうっかりと吐露してしまった。


「気持ちはわかるし、そこまで言われてなお否定するのも心苦しいけどさ、安全が確約されている場所だけで遊んでいてもつまらないんだよね。危険があるからこそ楽しいんだ。もちろん真剣にヤバいと思ったらすぐに逃げるさ。このゲームは一度死ねば即ゲームオーバーだし、そのうえキャラロストするから、もう一度プレイするには、全くの別キャラで挑まないといけないしね」


 やっぱり言っても無駄かと思い、由紀枝は小さく息を吐く。


「もちろん由紀枝を一人ぼっちにさせないためっていうニュアンスでも、やられたりはしないよう努めるよ。だから心配しなくていい」


 だが陸が力強い口調で告げたその一言に反応し、由紀枝は顔をあげ、まじまじと陸の顔を見た。由紀枝を安堵させるかのように優しい微笑を浮かべる陸を見て、由紀枝は再び動悸が高鳴るのを感じた。


「超だっせー! ウケるんですけどー」

「マジウザくない? ちょっとやめてよーて感じー。てゆーかー」

「うききーっうきーっ、ちんぱんじーのまねーっ」

「きゃはははは、にてるにてるぅー」

「えーっ! マジちんぱんじーっ! ちんぱんじーってすごくなーい!?」


 直後、けたたましい嬌声と共に、数人の女子高生が隣のテーブルにと座る。座ってからも大声で喋り続け、陸と由紀枝の会話は完全に止まってしまった。陸の微笑も消えている。


(あー、これは不味い……)

 その後どういう展開になるか、由紀枝には容易に想像がついた。


「やかましいJKビッチが五匹現れた。攻撃、銃、JKビッチ」


 陸が早口で呟いた直後、銃声が幾度もこだまし、悲鳴があがる。嗅ぎなれた硝煙と血の臭いが鼻をつく。


「あーあ……せっかくいい雰囲気だったのに」


 残念そうに呟くと、由紀枝はコップの中に残ったジュースをストローで一気に飲んで、この場から逃げるために立ち上がった。

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