第十章 6

 今年で十八になる臼井亜希子(うすいあきこ)は、名家のお嬢様であった。


「ちょっと! 今朝は七時半に起こしてって言ったでしょう!」


 朝早くから亜希子は癇癪を起こし、使用人の一人を部屋に呼びつけて怒声を浴びせる。


「申し訳ありません。私、先週は土曜日の朝は寝かして欲しいと聞きまし――」


 言葉途中に、亜希子は花瓶を使用人の女性の頭めがけて投げつけた。花瓶が割れ、使用人の頭部に水がぶちまけられ、額に血がにじむ。

 水浸しになり、頭部から一筋の血が垂らしながら、耐え忍ぶ表情を見せる使用人のその有様を見て、亜希子は少し気分がよくなった。


「今日は特別なの! あんたには言わなくても他の奴に言っておいたんだから、ちゃんと聞いておきなさいよ!」

「ですが……もし他の使用人に仰られていたなら、私の耳にも伝わっているはずですが」

「何口答えしてんのよ! 私が言い忘れていたとでも言うの!」


 さらに小物入れを使用人の顔を狙って投げつけた。人に物をぶつけ続けて十余年。亜希子の投擲スキルはかなりのもので、何を投げても、数メートル以内の距離であれば、狙い通りに充てる事ができる。使用人の鼻の上あたりに、小物入れが当たった。


 小さな頃から亜希子は、己に服従する立場の者達を嬲る事に悦びを覚えていた。理不尽な暴力に晒されて耐え忍ぶ姿を見るのが、心地好くてたまらない。


「今日はパパが海外の出張から帰ってくるのよ。ちゃんと一番に出迎えたいの!」


 顎でタンスを指し、使用人に服を着させるように促す亜希子。着替えも化粧も風呂で体を洗うのも歯磨きさえも、十八年間全て使用人任せにしてきた。


 着替えを済ませて、メールをチェックしつつ、ウキウキしながら玄関へと向かう亜希子。もう家の側までいるらしい。大好きな父親の二週間ぶりの帰宅を心待ちにしていたのだ。


 広大な敷地の庭の中を高級車が走ってきて、玄関先に停車し、お望みの父親が降りてきた。


「お帰りぃ、ぱぱぁ」


 喜色満面になって甘え声と共に、亜希子はスーツ姿の壮年の男に飛びついた。父親も笑顔でそれを迎える。十八歳の娘の父親にしては、随分と若く見える男である。実際の年齢はともかくとして、見た目だけなら三十代にしか見えない。


「いい子にしてたか。ほれ、頼まれていたお土産だ」

「わあ、いかにもアメリカっぽい、怪しい色の不味そうな毒々しいカラフルなお菓子、いっぱーい」


 父親が秘書から手渡れた紙袋をそのまま亜希子に渡す。中に大量に入ったお菓子を見て、亜希子は歓声をあげた。


「亜希子はいつまでたってもお菓子とか料理とかばかり欲しがって。もっとブランドもののバッグとか洋服とか化粧品とか、そういうのはいらないのかい?」

「別にー。お洒落とかあんまり好きじゃないしー」


 我侭ではあるし、両親におねだりも多いが、物欲は驚くほど乏しい亜希子であった。子供の頃から何不自由なく与え過ぎられてきたせいだった。この館から出る事を許されていないという事以外は……

 両親は亜希子の事を溺愛し、亜希子もまた、両親の事が大好きで甘えまくっていた。亜希子の人生は、完全なる幸福が保障されていた。少なくとも亜希子自身はそう信じて疑っていない。だが、理屈の上では己が幸福であると理解できるが、正直な所、亜希子は幸福というものが何であるか、あまり実感できずにいた。

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