第十章 7

 二年ほど前の出来事である。


「空腹値75、睡眠値59」

 日が暮れたのを確認し、陸は住宅街で足を止めて呟く。


 日本全国を気ままに旅する谷口陸は、いつもと同じように一晩の宿を求め、たまたま目についた家へと入っていった。

 中にいる人間を皆殺しにして、一晩の宿にありつく。いつもの事だ。だがその日、その家に上がったその時、予期せぬイベントが発生した。


 一人の少女が、親と思われる年配の男女から虐待されている場面。その光景は陸の記憶を鮮明に呼び覚ました。


「不快値100」


 ゲームだと信じきってなお、心には傷となって残っている思い出。陸はその気持ちを数字に表すと、取るべき行動を取った。


 突然の闖入者に驚愕する夫婦。その口からあがる悲鳴。その口から発せられる命乞い。その口から洩れる断末魔の呻き声。少女は夫婦が今まで一度もあげたことの無い声を連続して耳にしつつ、その光景を呆然と眺め、心に焼き付けた。


「誰だ、このつまらねーイベントのシナリオ書いたのは。シナリオ担当クビにしていいよ」


 夫婦を嬲り殺しにし終えた後、不快感をあらわにして陸はそんなことを口走る。少女には陸が何を言っているのか全くわからない。ゲームだと自覚する前の人生も、今目の前で行われた虐待も、ゲームの外でシナリオライターが書いた筋書きだと、陸は思い込んでいた。


「久しぶりだな。俺以外のプレイヤーと出会ったのは。その様子だとあの時の俺と同じで、自覚が無いみたいだけど」

 陸は少女――進藤由紀枝の方を向いて微笑むと、また意味不明な言葉を口にする。


「信じられないかもしれないけどね、ここはゲームの世界なんだ。でもプレイヤーの多くは、自分がプレイヤーとすら気がついてないし、これがゲームだということも気がついてない。俺はあるきっかけでそれを自覚しちゃった。自覚したプレイヤーはその時点で改めて、ゲームの本編がスタートになるんだ。もちろん今みたく、他のプレイヤーに教えてもらってもね」


 由紀枝は陸の話を聞いて、陸のことを狂人だと思った。だがその一方で、陸の言葉や思い込みを否定しきれない面もあった。あっさりと「こいつ狂っている」だけで済ませたくはない、そんな気持ちが沸き起こった。

 何故なら由紀枝にとって、今起こった出来事そのものが、奇跡のようなものだったからだ。


 数年前に両親を失い、親戚の家をたらいまわしにされたあげく、引き取ってもらえたのは、子供の生まれないまま結構な歳を食ってしまった遠縁の親戚夫婦であった。

 しかしこの二人は夫婦そろって由紀枝の事が気に入らず、次第に由紀枝に辛くあたるようになり、それが少しずつエスカレートしていって、日常的に行われる虐待へと発展していた。

 声をかける時は必ず怒声を浴びせられ、険のある目つきで睨みつけられ、少しでも気にくわないことがあると殴られた。その暴力も次第にエスカレートしていき、二人がかりで何分も殴られ続けるようになっていった。


 由紀枝は己の運命を呪うより諦観し、淡泊で無愛想な少女になっていた。この日常から解放を願う事も無かったし、期待もしていなかった。


 にも関わらず、自分を解放してくれる者が現れた。それも白馬の騎士のような綺麗な代物ではなく、想像を絶する勇者様だった。


「そのゲームってのはどんな内容?」


 陸に話を合わせ、訊ねてみる。由紀枝はその時点で悟っていた。今から自分はこの男と行動を共にすると。


「所謂箱庭ゲームだから、わりと好き勝手やっていいみたいだけれど、一応クエストが幾つも用意されてるみたいだね。メインクエをクリアーすることで、ゲームが進行していくみたい。ゲームクリアーすればリアルに戻れるみたいだね。メインクエストを指示してくれる人がいるんだよ。その人はゲームの住人ではなく、運営スタッフぽいけれどね」


 その運営スタッフとやらが、陸の妄想上の存在なのか、それとも陸を騙しているのか、その時点では、由紀枝には判断がつかなかった。


「少しはリアルの記憶はある?」

「んーん。全然無いよ。リアルの記憶はこっちには持ち込めないルールなんだ。だからプレイヤーの多くは無自覚のままだし。ここがリアルだと信じてる」

「何で私がプレイヤーだと思うの?」

「直感だよ。あ、何かこいつ違うなって感じでさ。NPCではなく、人間だなってのが俺にはわかるんだ」


 その時点で由紀枝はようやく気が付いた。いや、あまりの出来事に気が付くのが遅すぎた。陸がずっと目を閉じている事――盲目である事に。だが彼の動きや素振りを見た限り、目を閉じているにも関わらず、見えているようにしか思えない。


「目が見えないの? そのわりには……見えるように動いているけど」

「俺は色と光が認識出来ないんだよ。変なバグだ。周囲にあるものの形は全てわかるし、動きもわかるけどさ」


 目を閉じていて、形はわかって色がわからないという意味が、その時の由紀枝には理解できなかったが、その後すぐに理解する事となる。しかしそれとは別に、陸の目が見えないという事実に、由紀枝の心は揺り動かされた。


(あの子の生まれ変わりがやってきたとか……ね。まあそんなわけないけど)


 小さい頃に出会った、目の潰れた捨て猫の事を思いだす。


 それから由紀枝は陸と共に行動するようになった。陸は由紀枝を『ゲーム』へと誘い、由紀枝もごく自然に乗った。

 陸と出会ってからの二年間、由紀枝の傍らには常に陸がいた。陸が自分の傍にいる。ただそれだけの事が由紀枝に大きな安心感をもたらしていた。それは両親を失う前にあったものと同じ感覚であった。


 陸は奪い続ける。日常を。幸福を。命を。それらを失った者達を見ても、由紀枝は全く憐憫の念を抱く事は無い。かといって奪われた者達をせせら笑う事もない。ただの日常風景でしかない。陸はそういう存在だ。人間の中の肉食獣。奪い、食らう者。


 陸は悪である。社会に仇なす存在であり、敵視されている。陸よりもさらに強い存在が陸を追い続けている事も、由紀枝は知っている。

 故に由紀枝の中に恐怖が潜んでいる。自分にとっての安心の源である陸を失う恐怖。それがいつも心の奥底に常に潜んでいて、たまに顔を覗かせる。

 由紀枝はその恐怖を無理矢理、底の方へと押し戻す。失った者達、奪われた者達と、同じになりたくはない。陸は自分のために、自分の側に居続けなくてはならない。由紀枝はそう強く思いこみながら、執拗に這い出る恐怖を幾度も殺し続けていた。安堵に満ちた日々を貪っている。

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