第七章 29

 いつもと変わらぬ江戸の街。草露香四朗は江戸を出る星炭闇斎の見送りをしていた。

 人知れぬ場所にて、国壊しを目論む者との戦いを終えた二人であるが、心は晴れやかでは無い。特に闇斎の方は。


「あんな年端もいかぬ子に、いい歳した親父が命を救われるなど……あってはならぬことよ」


 香四朗と肩を並べて歩きながら、闇斎は渋面になって言った。


「重いのう。チヨの命を抱えて生きるなど。こんなことなら、チヨと仲良くなどしなければよかったかの」


 もちろん冗談だ。チヨは闇斎に懐いていたが、懐いていなければ助けもしなかったわけでもないと、闇斎は考える。


「運命を強引に変えるなど、恐るべき力を備えておりましたが、その力と命を闇斎殿に捧げなかったとしたら、どうなったでしょうな?」


 思った事を遠慮せず口にする香四朗。闇斎の性格を考えれば、社交辞令めいた下手な慰めよりも、包み隠さぬ本音で語る方がよいと考えた。


「そりゃあ、雫野殿の庇護下にあるのですから、その才を如何なく伸ばしたことでしょうよ。チヨの命が私なんぞの命と引き換えではつり合いが取れぬ事は、私が一番よくわかっていることよ」

「才を伸ばすどうこうの話ではござらん」


 闇斎の答えに小さくかぶりを振る香四朗。


「チヨも、そして綾音殿もそうでしたが、心の清い娘達でした。生きていたとしても、辻などを働く雫野殿と、果たしてうまくやっていけたのかどうか、そういう疑問でござるよ」

「チヨは雫野殿に面と向かって噛みつくような子でありましたからなあ。しかし雫野殿もああ見えて面倒見の良い御仁であったし、私はうまくやっていけたと思うの」

「ふむ。拙者はどこかで袂を分かちそうな気がしました」

「綾音殿は勇ましく凛々しい女傑でしたな。あれは本当に良い娘じゃった。しかしその綾音殿と累殿が、仲睦まじく見える一方で、どこかぎくしゃくしているようにも見えたのう。そもそもその雫野累殿もな、面と向かって話してみれば、邪悪な輩とも思えんかった。本当に伝え聞く悪しき妖術師かと疑いもしましたわ」


 顎に手をあて、闇斎は累の事を思う。


(本来は純粋な心を持つ者なのではなかろうか。様々な悪いことが重なり、歪んでしまいはしたものの、それでも心根までは……。そうでなければ、二人の娘に慕われるようなこともあるまいて)


「綾音殿の説得もあって、雫野殿は右衛門作の討伐の話を渋々引き受けたそうです。そしてかつての弟子が関わっていたからこそであり、そうでなければ国を救うような真似などしないと、雫野殿ははっきりと申しておりましたよ」


 香四朗の言葉を聞いても、闇斎には信じられない。累の澄んだ瞳や物憂げな表情を見た限り、

自分の考えが正しいと信ずる。


「されど香四朗殿はこれから雫野殿に不老の術を教授してもらうのであろう? それも綾音殿の口利きがあったから渋々引き受けたので?」

「いやいや……」


 闇斎の冗談に、香四朗は苦笑して頭をかく。


「さて、見送りはここいらでよいよ。世話になりもうした」


 足を止め、香四郎に深々と頭を下げる闇斎。


「世話になったのはこちらでしょう。いずれまた機会あらば」


 闇斎は香四朗と別れてから、晴れ渡った空を見上げる。


「チヨ、またいつかどこかで遊ぼうな」


 来世での再会を思い描き、闇斎は青空を見上げたまま目を細めた。


***


 右衛門作との戦いから一年が過ぎた冬、運命の時が訪れた。

 空には灰色の雲が立ち込め、雪がちらちらと舞い始めた中、長屋門の前にて、旅支度を整えた綾音は累と向かい合っていた。


 師であり父である累の言いつけにより、綾音は累の元を離れる。修行という名目のため。親元を離れる独り立ちという名目のため。

 だが未だ綾音は納得がいっていない。当然だ。累の真意はわかりきっている。


「一人前の術師に……なって、また私の前に――」

「どうして一緒にいてはなりませぬか?」


 累の別れの口上を遮り、綾音は強い口調で問う。悲しみに顔を歪ませまいとこらえていたが、堪えきれず、涙が一筋頬をつたう。


「父上の望みが、私が一流の術師になることであるのなら、私はそれに応えます。そのために、一人で世を知り、修行を積まねばならないという理屈はわかります。しかしそれが本心なのですか? 違うのでしょう?」


 問い詰めながら、綾音はチヨのことを思い出していた。

 チヨは言った。累は綾音を追い出そうとしていると。その通りだ。綾音もそれはわかりきっている。


「はっきりと言ってください。私が父上の元より去らねばならない理由を。せめて私を納得させてください」


 挑みかかるように言う娘に、累は鼻白む。

 しばらく沈黙のまま向かい合う二人。

 累は時折視線を外し、ばつが悪そうにしていたが、やがて意を決し、綾音をしっかりと見据えて口を開いた。


「私はお前と互いに寄りかかり、甘えあっていた。しかしこのままでは互いに堕落していくだけのような気がしていたのです」


 肝心の本心は隠していたものの、これはまるっきり嘘というわけでもない。


「私の……弱さが、綾音まで蝕むこともありえます……」


 非常に抽象的な言い回しで誤魔化してはいる面はあるが、これも嘘というわけではない。密かに恐れていることの一つだ。

 だが本当に恐れているのはその逆だ。綾音の芯の強さや人としての正しさ善良さによって、累は己の心の闇が蝕まれていくのがたまらないのだ。憎悪に浸っていたいのに、憎悪の赴くままに生きて痛いのに、罪悪感にとらわれてしまい、できなくなっていく。


「それは以前にも聞きました。甘えているのは父上だけではありませぬ。私も同じです。父上が罪の意識にさいなまれ、己を責め続けていることも存じています。どうか御自分を責めなさらぬよう――」

「責めてなど……」

「責めておられます。父上はずっと自分を責め続けておられます。右衛門作は限りのある人生であるからこそ、人は輝くと言いましたが、気にすることはありません。私も父上も、永久に続く命を得たからこそ、できうること、感じうること、知り得ることがあると考えます。我等は我等の道を進めばよろしいでしょう」


 綾音の言葉は、累の心を読み取れずにずれているようにも聞こえた。

 だが累は勘繰ってしまう。綾音は実は全て見抜いているのではないだろうかと。

 己に生じた罪悪感は全て綾音がいるせいだと、そう累が思い込んでいることを見抜いたうえで、言い方を変えて、累の心を突いているのではないかと。


「貴女に言われずとも、わかっておりますよ……」


 後ろ髪ひかれる想いでうつむいて綾音から視線を逸らし、かすれた声で累。


「互いの居場所は……すぐにわかるように、互いの精神の一部を……繋げておく術式を施して……ありますし。何かあったら……戻ってきなさい」

「何かなければ戻ってはなりませぬか?」

「そういうわけでは……ありませんが。会いたくなっても、帰ってきても構いませんよ。こう言うと……その……いつでも、という話になりそうですが」


 累の言い方に、綾音は少し可笑しさを感じて、一瞬だけ微笑みをこぼす。


「他に言い残すことはありませんか? 無いのでしたら……そろそろお行きなさい」


 うつむいたまま告げられ、しかし綾音は動こうとはしなかった。それが累の心をさらに乱す。疚しさと悲しさが激しく渦巻いている。


「私の心はいつでも……お前と共にあります故」


 累のそらぞらしい別れの言葉は、返って綾音の寂しさをかきたてた。もう自分は父親の中からどうでもいい存在になってしまったのではないかとも思いかけたが、そうではないこともわかる。父親と心が一部繋がっているが故、互いの気持ちはわかるが故。


 いつまで経っても歩き出そうとしない綾音に、累は顔を上げた。

 娘の頬をつたう涙を見て、累も感情をこらえきれずに涙腺を決壊させ、綾音に抱きつき、嗚咽をもらし始める。


(ずるい……)


 口の中で呟く綾音。


(父上はずるい。自分で私を追い出すのを決めておきながら、子供のように泣きついて……。それをしたいのは私の方なのに……逆でしょう)


 そう思いつつも、綾音も精一杯の想いを込め、自分より細く小さな体を抱き返す。


 しばらくそのままの格好で時が流れた。どれだけの時が過ぎたのか。一向に累は離れる様子を見せない。

 いつになったら離れるのだろうと、綾音は疑問を覚えたが、自分の方からは絶対に離れないと心に決め、ただひたすらに累のことだけを想い、抱きしめ続けた。


***


 綾音が去る前後の記憶が、累には無い。綾音がどのように去っていったか、最後にどんな言葉をかわしたかも覚えていない。最後は抱き合っていたという記憶しかない。

 気がつくと累は雪の中で一人、泣きながら呆然と佇んでいた。


(これで思う存分闇の底にと墜ちていける……縛るものは何も無い)


 涙をぬぐい、無理して自虐的な笑みを作ってみせる。


「平穏など長く続くものか……そう遠くないうちにまた、世は乱れ、戦に明け暮れる」


 皮肉にも累の予言は大きく外れ、その後二百年以上も太平の世が続くこととなる。


 雪がやむことなく降り続けている。こんなに寒い雪の中に愛娘を放り出した事に心が痛む。いや、追い出した後になって意識する自分の愚かしさが可笑しくて、累は再び自虐的に笑った。

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