第七章 9

 目覚めたチヨは、見慣れぬ風景に一瞬困惑したが、昨夜の記憶が掘り起こされ、すぐに理解した。

 綺麗な畳、襖、布団、障子、天井。百姓のボロ屋で育ったチヨの想像もつかない部屋。襖を開けた廊下も綺麗に磨かれている。


 廊下から庭園に出て、池の前でしゃがみこみ、覗き込む。

 色とりどりの鯉に心奪われたチヨが、やがて躊躇い無く池の中に手を突っ込み、鯉を捕まえようとする。当然うまくいかず逃げられる。チヨは一回の挑戦で諦めた。


 チヨが意識を研ぎ澄ます。心を外に向けて飛ばすイメージを思い浮かべると、視界の範囲外の空間も把握できる力をチヨは備えている。精神世界の中から、物質世界を見渡せる。

 邸宅の中に人の気配は無い。人ならざるものの気配は感じたが、チヨはそれを無視した。家の中に妖怪が何匹も存在するのは、昨日ここに来た時にすでに知っていた。


 さらに意識の感知範囲を広げる。精神世界からの探査によって、目に映らない場所でも相手の精神に触れ、居場所を知ることができる、チヨが生まれ持った超常の力の一つだ。

 別段修行を積んだというわけでもなく、チヨはこうした力を数多く備えていた。妖術師達が己の霊力魔力といったもの以外に、呪文や儀式や触媒を用いて超常の領域へと踏み込み奇跡を起こすのとは、また異なる。全て生まれついての己の力に依るものだ。


「あ、いた」

 累と綾音の精神に触れ、精神世界より自分の精神を引き戻すチヨ。


 屋敷の門を出て、山の下へと続く獣道を裸足で駆けていく。

 二人の帰りを待っていても構わないが、それではつまらない。二人が外で何をしているかの方が、興味があった。


 獣道を抜けた先には川があった。急流というほどではないが、山の麓を流れる川だけあって、流れはやや速い。その川の岸で、一糸纏わぬ姿の累と綾音が、水浴びをしていた。

 真冬なのに水浴びしている綾音と累を見て、驚くチヨ。それと同時に、累の男とは思えない艶かしさを持つ白い裸体と、累には及ばずとも透き通るような白さの綾音の裸体に、何とも言えない美を感じて、チヨは心奪われる。


「ねね、それ寒くないの?」

 累に向かってチヨが尋ねる。


「寒いですよ……。しかし、常に身を清め、気を引き締めるために……我慢するのです。まあ慣れればそんなに……大したことではありません……修行の一環ですし」


 答える累。その累の体を綾音が丹念に洗っている。


「ふええー。修行なんだァ。えっと、もしかしてチヨも妖術師になるためは、こんなことしなくちゃいけないのぉ~?」

「そうですよ……」

「えー、嫌だー。チヨそんなことしてまで妖術師なんなりたくないー」

「お前の命は私が……預かったのです。我侭は許しません……よ」


 泣きそうな顔になって拒絶するチヨに、累は穏やかな口調で告げる。


「それしないと絶対に妖術師になれないの?」

 チヨの質問に、累は一瞬言葉に詰まる。


「いえ……精神を研ぎ澄ますための修行の一環です……から。まあ、必ずしもしなくてはならない……ということはありませんが……」

「じゃあそれはやめようっ。ね? 別のことで精神を研ぎ澄ませばいいんだし、冷たくて寒いことなんてしなくていいよォ。はい、この修行はやめやめ。二人とも早く上がってぇ~」


 笑顔で勝手に仕切り出すチヨに、困り顔になる累。


「これをせずとも、他の修行も厳しく辛いものばかりですよ。それらを全て避けて通るということはできません」

 綾音が助け舟を出すかのように言う。


「えー……じゃあ妖術師になるのやめるっ」

 ぷーっと頬を膨らませてそっぽを向くチヨ。


「ならどこにでも……お行きなさい」


 冷たい視線を向けて告げる累に、チヨは舌打ちしてみせる。

 どういう育ちを受けてこういう性格になったのだろうと、綾音はチヨの言動を見て呆れる。自分と同じ百姓の家の出なのに、自分とは全く正反対に我が強く、無遠慮で物怖じするということもない。


 累と綾音が川からあがり、乾いた手ぬぐいで体を拭き、衣服を着る。と、入れ替わるようにしてチヨが自発的に服を脱ぎだす。


「ちょっと……」

「でーいっ!」


 綾音が静止するより前に、チヨが気合の入ったかけ声と共に川へと威勢よく飛び込む。


「うぎゃあああっ!」


 が、腹部までつかった所で、顔色を変えて戻ってきた。


「いきなり冷水につかれば……下手をすれば死にます……よ」


 うずくまって震えるチヨに、累が下半身を拭き、服を着せる。


「うひゃあ……こんなの本当にできるのォ? 絶対無理だと思う~」


 歯をかちかちと鳴らし、涙声で訴えるチヨ。


「何度もすれば慣れますが……それでも、少しずつ冷水を体にかけていき、体を冷たさに慣らすくらいは……毎回します」


 チヨの思わぬ一面を目の当たりにして、綾音は呆気にとられ、累は微笑んでいた。チヨに向かって好意的な表情を向ける累を見て、胸の奥で黒い何かがこみあげてくるのを感じる綾音。


「どうしていきなり……そんな無茶をしたんですか?」

「追い出されたら、行く場所無いもん」


 チヨが口にした言葉に、綾音は胸を切り裂かれるような感触を覚える。


「貴女に妖術師としての修行を積ませ、一人で生きていける力が備わったら……行く場所は自分で決めると……いいです」


 が、累が続けて放った言葉に綾音の胸の痛みが消えた。チヨに対しても巣立ちを促すつもりでいることが、今のでわかった。


「綾音だって、そろそろ私の元から去らねばなりませんし……」

「どうして?」


 チヨが怪訝な顔で累と綾音を交互に見る。


「互いに甘えあっているから……ですよ。綾音のためにも……私のためにもなりません。もちろん……修行のためでもあります……いつまでも私の元にいるのではなく、親離れ師離れをして……一人前の雫野の妖術師としての研鑽と、妖術の更なる研究に取り組んでもらいますから」


 それは本心であり、同時に偽りでもあった。

 累は綾音の存在によって、己の心を激しく乱されている。このままでは自分が自分で無くなってしまう――そんな強迫観念にも似た想いに捉われている。

 己の中の黒い部分を楽しんでいた累。だがそれが楽しめなくなってしまっている。悪行を働くたびに疼く心。それは全て綾音と共に過ごすようになって生じた心だ。


 チヨに対しては、綾音に抱いた想いが生じないように気をつけなければならない。師と弟子という線引きを徹底しようと心に決めている。そうでなければ、また己が狂ってしまう。

 悪に徹底することが累の中では正常な状態であり、罪悪感に苛まれる事は累の中では狂気に他ならないのだから。


「一緒にいたくても絶対離れないといけないの? お姉ちゃんは累と一緒にいたいんじゃないのォ?」

 チヨが綾音の方を向いて言った。


「父上の言いつけですから」


 口にしてほしくないことを悪気無しに無邪気に口にしてくれるチヨに、最早敵意にも近い感情を抱きつつ、綾音はうつむき加減になりながら答える。自分が父の元を離れたら、父は自分の代わりにこの娘を可愛がるかと思うと、嫉妬で気が狂いそうになる。


「ふわー、ひどい父ちゃんもいたもんだー。ていうかちっちゃな父ちゃんだよねェ」


 思ったことを一切遠慮無く口にするチヨ。子供にしても年齢的に考えると無遠慮すぎる。


「ひどくはありません……。言ったでしょう? 甘えあうのはよくないと……」

「えー、それだけじゃないよ。本当はさァ」

「いいからもう家に帰りましょう……ここは冷えます」


 チヨの言葉を遮るようにして、帰宅を促す累。相手が人の心を読める力の持ち主であることを思い出したのだ。誤魔化しようが無い。綾音の前で自分の心の奥底まで暴かれるのは嫌だった。


(術の修行云々以前に、性格の方を矯正した方がよさそうですね)


 チヨと綾音、二人の手を取って間に挟まれる格好で歩きながら、チヨの方を一瞥して、累は思った。

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