第七章 7

 床に布団を敷き、綾音は累の帰宅を待つ。すでに夜が更け、普段なら寝てもよい時間だ。

 火鉢に炭を足す。今年の冬は特に冷えるような気がする。


 綾音は冬が好きだった。

 かつては冬が嫌いだった。けれども累と共に過ごすようになって変わった。同じ布団の中で身を寄せ合って互いのぬくもりを感じるには、寒い方がいい。寒い方がより心地よいぬくもりが感じられる。

 出会った時は自分より少し背の高かった累だが、今ではもう自分より大分低くなってしまっている。布団の中に頭まですっぽりと隠し、横向きに自分にしがみつく累の感触だけで、綾音の心は至福で満たされる。


 綾音は盆地にある辺鄙な村に生まれた。

 物心ついてすぐに悟った。自分も自分の母親も、村の者から受ける扱いが異なるということを。


 叔父夫婦の子供が祖父母から可愛がられる一方で、綾音はあからさまに虐げられていた。常に怒声を浴びせられ、殴られ、従姉弟よりもきつい仕事を担わされた。

 村の子供達からはいじめられ、大人達も腫れ物のような目でちらちらと見て、母親はいつも哀しそうな顔で陰鬱な雰囲気を振りまいていた。

 祖父母は、母親と自分のことを家の恥だ村の恥だと言って当り散らしていた。母親さえも、お前が生まれたせいだと自分に当り散らした。

 冬になると自分だけ火鉢から遠ざけられ、布団も薄いものを与えられて、毎晩凍える想いをしなくてはならなかった。寒さに堪えきれずに、寝ている間に無意識に母親の布団の中に潜り込んだが、母親がそれに気がつく度に引っぱたかれて、外へと追いやられた。毎晩それを繰りかえしていた。


 そうなった理由は、綾音が生まれる前に村に現れた、たった一人の異人の野盗のせいであった。

 その異人は恐ろしく腕が立ち、抵抗する村人達を一人で次々に斬り捨てた。何日も村に居座り、村の者達を戯れに殺してまわり、娘達を片っ端から犯していった。

 村人達は一度寝込みを襲ったもの、全て返り討ちにされた。寝込みを襲った者の家族は老若男女区別無く、全員足を斬られて動けなくされたうえで、無数の妖怪をけしかけられて、生きたまま食い殺された。


 しばらくするとその異人は村を去ったが、何人かの娘は異人の子を身ごもっていた。それを知った娘は自害したり、あるいは生まれてきた子を殺したりしたが、とある一家で一人だけ産み落とされ、育てられた。それが綾音である。


 綾音が殺されずに済んだ理由は単純だ。一家にとっての労働力が欲されただけだ。

 それに加え、村人達の憎悪のはけ口にもなった。ただ虐げられるためだけに生かされた自分の運命を綾音は呪い、己を虐げる者達を憎み、全ての元凶である異人の野盗とやらを恨んだ。


 ある日、綾音の前に、淡い金色の髪と新雪の如き肌、そして綾音と同じ色の瞳を持つ美しい少年が現れた。

 村の者が少年を鬼の如く恐れ、ある者は逃げ出し、ある者は震えてひれ伏した。その反応の意味が、綾音にはすぐにはわからなかったが、自分より少し年上くらいにしか見えない少年が、自らを綾音の父であると名乗った時、理解できた。


 綾音の運命を狂わせた元凶であり、恨んでいた父親の出現。だが綾音はその人物に対して微塵も憎しみも怒りも抱くことができなかった。恐れも感じなかった。

 それどころか村人達が恐怖に震え、ひれ伏している構図を見て、胸がすくむ思いだった。実に爽快であった。生まれて初めて覚える心地好さだった。

 雫野累と名乗った彼は、綾音を一目見て我が子と認めるや否や、妖術師として育てあげるために引き取ることを告げた。


 その日のうちに、村に伝えられてきた恐ろしい話の数々が、綾音の前で実際に展開された。村人達は幾人も殺された。特に深い意味もなく、ただの戯れに殺された。それが何日も続いた。娘達はまだ年端もいかぬ者も含めて片っ端から犯された。

 綾音が村で虐げられていた事も累は見抜き、祖父母と叔父夫婦と従姉弟達は、より残酷な方法で殺された。全身の皮を剥がされ、妖術によって呼び出された何千匹もの得体の知れぬ虫達によって、体の中と外から食われていった。

 愛らしい綺麗な顔をしながらも、悪鬼の所業を繰り返す父親に、しかし綾音は恐怖心が沸かなかった。それどころか会ってからすぐに、強い思慕の情が芽生えていた。


 しばらくしてから累は綾音を連れて村を出て、山中に建てた自宅へと連れ帰った。道中立ち寄った村や宿場で、綾音の村でやったように、殺人や強姦を繰り返していた。その時から、悪事を繰り返す累の姿に、綾音は哀しみを抱くようになっていった。村ではそのような感情は無かったというのに。

 悪行の数々を働く恐ろしい人物である一方で、綾音に対しては非常に丁寧かつ柔らかい物腰で接した。そのギャップがあったせいか、累が綾音の前でどれほどの悪行を働いても、悪人であるという認識が持てなかった。


 どんなに他者を傷つけても、綾音を傷つけることはなかったせいもある。綾音が生まれた村は、綾音を傷つける者ばかりだったというのに。だからこそ余計に、累が悪事を働く事が哀しい。


 累は毎日様々な事を綾音に教え込んだ。学問、剣術、体術、妖術、礼儀作法、芸術、遊びに至るまで。街へ歌舞伎を見に連れて行ったり、元旦を拝みに富士山へ行ったりもした。

 時折、世への恨みごとを口にこぼしながらも、母親がよく浮かべていたのと似た物悲しげな表情を見せながらも、綾音を妖術師として、また人として高めようとしてくれている。農村でのあの暮らしとは比べものにならないほど刺激的で豊かで実りがある、幸福な日々。

 正直な所、最初のうちは、累のことを父親などとはどうしても見られなかった。だがそれ故に、すんなりと心を開き、受け入れることができたのではないかと、綾音には思える。


 一方で累が、娘である自分を育てながら、甘えているのも見受けられた。まるで見た目通りの年相応の子供のように。浮世に対する恨みが渦巻くその心は、疲れ果てている事が、綾音から見てもわかる。その癒しを自分に求めていることも。

 綾音はそれを不快には思っていない。自分とて累に甘えてすがっている。傷の舐めあいだとわかっているが、心がさいなまれることもない。

 だが父は違う。娘である自分に依ることに対し、罪悪感にさいなまれていることが、はっきりと綾音には伝わった。


 累が綾音を連れ帰った理由は、綾音に才を見出して、雫野の術師を増やすためだと言われた。

 そして最近告げられた。術師としての基礎修行が一通り済んだら、綾音は累の元を離れて独り立ちするようにと。


 雫野流は、才能のある者へと術を教授した後、伝授された者の手によって好きなように変化させていき、そしてまた才能のある者へと自由に託す――そういう形にしたいと累は言っていた。

 綾音はその思想に疑いを抱いていないが、自分を巣立たせる口実としては違うと見抜いている。明らかに累が自分を偽っていると。


 火鉢に何個目かの炭をくべた所で、綾音は家の戸が開く音を聞き、立ち上がる。


「遅かっ……」


 わざわざ玄関まで出向いた所で、綾音は言葉に詰まった。そこにいたのは累だけではない。見知らぬ娘を連れていた。


「父上、その娘は?」

「女衒に売られようとしている所を……拾いました」


 それはいつものことだ。綾音も累のしている事は知っている。だが組み敷いた娘を連れて帰るなど今まで一度もなかった。


「才があります。加えて……超常の力も……。よって今日から……ここに住まわせ、雫野の術師として……鍛えてみます」


 累の言葉を聞いて、綾音の胸が大きくはねあがる。


「身売りされて行き場も無かった身ですし……私が自由に使っても構わないでしょう。綾音もちゃんと面倒を看るのですよ」


 正直綾音は嫌だった。自分と累だけの生活に、余計なものが闖入してきたかのようにも受け取れた。

 今まで独占していた累の想いが、この娘へも向けられるかと考えると、それだけで嫉妬を覚えずにはいられない。

 いや、それだけではない。自分はもうすぐここを去らねばならないのに、自分と入れ替えるかのように、別の娘を連れてきたことも腹立たしい。


 しかし一方で、この娘が自分と同じ行き場のない存在であるということを思うと、自分と重なるものも感じる。

 いずれにせよ、自分と累が共にいられる時間には限りがある。別れが訪れるのはそう先ではない。せめてその残された時間を味わいたい。


「ほら、挨拶を……」

「チヨでーす。よろしくー」

 眠そうに目をこすりながら、物怖じせず挨拶する娘。


「雫野累の娘にして雫野流妖術継承候補、綾音と言います」


 硬い口調で挨拶を返す綾音。年端もいかぬ娘相手であろうと、これから兄弟弟子となる者であるから礼は尽くさないといけない。自分がお手本となるためにも。


「礼節から教えないと……いけませんね。お前と同じ百姓の娘ですし……」

 小さく微笑み、累が告げる。


「ふわぁ、眠いよォ、寝ていいー?」


 欠伸をして目をこするチヨ。自分の置かれた立場への不安など、微塵も無さそうに綾音には見える。度胸があるのか、累を信じているのか。


「おなかはすいてないのですか?」

「あ、すいてた。ご飯欲しい」


 尋ねる綾音に、チヨがはにかみながら答える。


「連れて行ってあげなさい……」

 累の言葉に小さく頷くと、綾音はチヨを家の奥へと促した。


「私の代わりに……いえ、妹分の面倒を看させるというのも、よい修行に……なりますね」


 綾音とチヨの後姿を見送りながら、累が自分にだけ聞こえる声でぽつりと呟く。


「そうすれば……私と綾音が共にいられる時間も、もう少し……延びるでしょう……」

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