第七章 4

 切りたった崖の上から、赤く染まった空を見上げる。

 不気味な夕焼けであった。血のような赤い空は、明らかに悪意と妖気が渦巻いている。明らかに国の霊的磁場が乱れている。占いなどせずとも、凶星が見えてきそうだ。

 つい二ヶ月ほど前には、この赤い空を大量の蝗が飛び回っていた。何とも禍々しい光景だった。蝗がいなくなった今も同じだ。


 国が呪われている。「太平とは名ばかりで、徳川の世は呪われている」と――病に犯された祈祷師の一人が、今際の際にそう言い残して事切れたという話すらあった。

 彼の言葉を聞いた者は、それがあながち妄言とも思えなかった。五年前の島原の乱にも、切支丹の一人が死に際に呪いの言葉を放っていた。その呪いが成就したかのように、日本中で立て続けに異常気象と災厄が発生した。

 蝗の大量発生、火山の噴火による火山灰災害、日照りによる大旱魃が起こったかと思えば途端に大雨洪水が発生し、農作物の致命的な害を及ぼし、それによる農民達は逃散という追い討ちによって、全国規模の大飢饉をもたらした。そこかしこに餓死した腐乱死体が見受けられ、その死体がまた疫病を引き起こす。まさに地獄絵図。


 また、世の乱れにおいて必ず派生するのが、物の怪の跋扈だ。ここ数年の間、悪しき妖術師達に使役される妖がそこかしこであふれ、人々を襲っていた。同時期に辻斬りも横行していたがため、妖の仕業か辻斬りの仕業かの判断もつかず、妖怪退治を生業とする妖術師達は時として人の相手もすることが多々であった。

 滅びの気が国を覆っているのが、はっきりとわかった。夕陽で赤く染まった空を見上げながら、雫野累は静かに微笑む。


「何者の仕業……でしょうか」


 妖怪、怪異、物の怪と呼ばれる類は自然発生するものではない。妖術師が意図的に作り出すものである。陰陽道の式神もそうだ。

 世が乱れると、悪しき妖術師達が生み出した妖怪らが、術師の元を逃げ出したり故意に放たれたりして出没するのは、千年以上も前から定番の出来事だ。

 恐らくこの国に限った話でもないであろう。おそらくは余所の国でも、国が乱れれば同じことが起きているであろうと思われる。


 この国を覆う暗澹たる気も、人為的なものに相違無いと累は見ている。強力な術師の仕業であろうか。あるいは一人ではなく、組織的な企てによるものか。現実的に考えれば後者と思える。おそらくは自分と同じように、今の世が気に食わぬ者ではないかと、累は考える。


「よい気味……です」


 歪な微笑が零れる。

 世を恨み続ける累にとっては、破滅的な気で満ちた昨今は実に心地よい。


 だがこれで本当に国が滅びるとも思っていない。世が乱れ、多くの人間が苦しみ死にゆく有様を見ることで、僅かに気が晴れる程度である。

 人為的な仕業であることを見抜いているのは、自分だけであるはずがない。いずれ幕府や朝廷お抱えの術師達によって滅ぼされる運命にあるであろうと、累は判断している。所詮数が違う。組織力が違う。この程度では国家の転覆など到底成しえない。


「父上、帰られないのですか?」


 崖の淵で空を見上げたまま動かない累に、綾音が背後から声をかける。山中で累と共に妖術の修行を行った後、綾音は山菜を摘んでいた。


「もう少し……こうしています」

 綾音の方に振り返ることなく、累は告げる。


「不気味な夕焼けですね」


 累の隣に来て不安げに言う綾音の言葉に、累は心持ち眉を寄せた。せっかくその不気味な赤い空を見て心地好い気分になっていたというのに、綾音が自分とは正反対の想いを抱いている事に、苛立ちがこみ上げてくる。

 だがそれを綾音の前で堂々と口にすることもできず、余計に苛立ちが渦巻く。


「そう……ですね……」


 綾音に表面上は同意し、娘の不安を和らげるかのように、そっと抱き寄せる。累の方が頭一つ低いために、累から抱きつくような格好になる。綾音はこの時代の娘にしては背が高い方だ。

 累に抱き寄せられて、それまで不安げだった綾音の表情が安らぎに満ちたものに変わる。

 娘の至福の想いが、己の中へと流れ込んでくるのを感じ取り、累は素直に悦びを覚える。親子の愛情と恋慕の情を同時に味わう。


「お前は……天賦の才がありました……」


 累が綾音に告げる。

 妖術師としての基本部分の修行は通常十数年はかかる。だが綾音は非常に飲み込みがよく才能にも恵まれていたので、これを数年で消化し、今では一人前の妖術師と名乗っても遜色無いほどだ。累が施せる修行はそろそろ終わる。後は……


「師としても父としても……とても誇らしいです……」


 告げるべき言葉は、途中で言い換えた。それを口にすることは、累にしても心苦しく、綾音も耳にしたくない言葉であった。


 赤い空が次第に黒く侵食されていくのを見て、累は踵を返した。綾音もそれにぴったりと寄り添い、累と共に帰路についた。


***


 川越藩藩主老中松平信綱の屋敷に、その老人は住んでいた。


「右衛門作(えもさく)殿、頼まれたものが届きました」


 奉公人の中年女性がにこやかな笑顔で老人に声をかけ、手にした包みを差し出す。包みはかなり大きく、様々な物が入っていることがわかる。


「毎度毎度かたじけない」

 右衛門作と呼ばれた老人は、笑顔でそれを受け取る。


「今度私にも南蛮画の描き方を教えていただけませんか? まあ私には無理かもしれませんけれどもねえ」

 社交辞令半分、本気半分で奉公人が言う。


「喜んで教えて差し上げますよ。なあに、フネさんは手先が器用じゃし、すぐ描けるようになろうて」


 しわくちゃの顔に笑みを張り付かせ、老人は社交辞令を口にする。


 その後しばらく世間話をかわした後、老人は自分に与えられた部屋へと戻ると、包みを開ける。中身は南蛮画を描くための画材だ。

 室内には数々の南蛮画が飾られていた。描きかけの絵もある。戦の絵、得体の知れぬ化け物の絵、切支丹達を描いた絵と、様々だ。


 奉公人と喋っている時に張り付かせていた笑顔とは全く異なる邪悪な笑みが、老人の顔に浮かぶ。

 部屋の一角、襖に札が一枚貼られた押入れの前に立つ右衛門作。


「よっと」

 貼ってあった札をはがし、襖を開く。


 中にあったのは全て絵だ。しかし室内に飾られていた絵とは異なる。

 それらは磔にされて殺されている切支丹の絵や、島原の乱で幕府軍に原城に攻め込まれて無残に殺されていく切支丹の絵であった。殺されている切支丹の中には女子供も多く混じっている。

 全てが凄惨かつ禍々しい内容の絵であった。さらにそれらの絵の中にはほぼ必ず、頭から角が生え、背からは蝙蝠の羽が生えた、全身真っ黒の化け物が混じって描かれていた。


「ほっほっほっ、待たせたのお、今仕上げてやるでの」


 描きかけの絵の一枚に向かって、楽しげに語りかける。


 ごにょごにょと呪文のような呟きが老人の口から漏れた。否、呪文そのものである。


 室内の風景が一変した。数奇屋造りの部屋は何処かへと消え去り、赤く染まった空と地平まで続く赤い大地が現れる。妖術を行使して室内に亜空間を生み出し、異界化させたのだ。

 一面に数え切れぬほどの十字架が立ち並び、磔にされて双眸から血を流し続ける切支丹達の姿があった。彼等は皆悲痛な表情で呻いている。十字架の周囲にはぽつぽつと、南蛮画に描かれていた黒い化け物がいて、磔にされた切支丹達を見上げて笑っていた。


「さて、始めるかの」


 老人が腰を下ろし、絵を描き始める。画材一式と部屋に飾られていた絵の数々も、この空間へと転送されている。


 しばらく一心不乱に絵を描き続けていたが、やがて仕上がった。描かれた絵は、まだ十歳にも満たないであろう娘が、幕府の兵に刀で突き刺されて殺されているという代物だった。そしてその背後には、頭から山羊の角が生えた全身黒い化け物がいる。

 絵が完成すると同時に、老人のすぐ横に立っていた十字架に磔にされていた切支丹の娘の体が、がくがくと震えだす。その娘は、たった今出来上がった絵の中に描かれている娘そのものであった。

 娘の体に変化が生じる。肌が黒く変色していく。口が裂け、牙が生え、爪が鋭く伸び、先が尖った尻尾が生え、体が膨らんで元の二倍以上の大きさになり、頭からは山羊の角が生える。黒い化け物へと変貌を遂げた娘は、十字架をへし折って赤い地面へと降りる。


「ほっほっほっ、よい出来じゃ」

 黒い化け物を眺めてにたにたと笑いながら、満足げにうなずく右衛門作。


 その後も老人は幾枚かの絵を仕上げ、磔にされていた切支丹達を化け物へと変えると、呪文を唱え、部屋を元へと戻した。

 描きあげた幾つかの絵を押入れの中へとしまう。全てしまった後、襖を閉めずに中から一枚の絵を取り出し、目を落とす。


「四郎よ。苦しいか?」


 絵に描かれているのは、キリストさながらに磔にされて茨の冠を被せられ、釘で手足を打たれた豪奢な南蛮衣装の美少年であった。

 双眸からは血の涙を流し、苦悶の形相だ。その背中からは光り輝く鳥の羽と禍々しい蝙蝠の羽の二枚が生え、額からは前方に向かってねじれた角が生えていた。頭上には光り輝く輪がある。


「四郎よ、ワシが憎いか? お前を、お前達の全てを裏切ったワシが」


 満面に歪んだ笑みを広げ、老人は絵に向かって語りかける。描かれているのは、切支丹達より神の子と持てはやされ、一揆軍の大将として祭り上げられた末に、島原の乱にて落命した天草四郎時貞だ。


 老人は天草四郎のことをよく知っていた。当然だ。この老人の名は山田右衛門作。島原の乱で一揆軍の幹部を務め、幕府の討伐軍に殺された三万七千人の中で、唯一人生き残った人物である。

 彼が生き残れた理由は単純だ。右衛門作は幕府軍と内通しており、一揆軍の内情を全て矢文で幕府軍へと伝えていたのである。元々幕府との交渉役を担っていたが故に、その立場を利用することができた。

 内通は一揆軍に発覚し、右衛門作は妻子を殺されて投獄されたが、原城落城の際に幕府軍に内通の証を示し、幕府軍の総大将を務めた松平信綱の庇護を受け、現在は松平信綱の屋敷にて暮らしている。


「この雫野右衛門作のためにお主らは捧げられたのだ。ワシを見限った師を見返し、この世のあらゆる場所で、未来永劫伝説として語り継がれる大妖術師となるための、尊い生贄よ。ほっほっほっ。それによってワシは、お主等蛆虫共が崇めるデウスやイエスなどよりも、ずっと尊い存在になろうぞ」


 南蛮画家の名でも切支丹の洗礼名でもない、妖術師として与えられた苗字を口にして、右衛門作は嘯いた。

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