第七章 1

 寛永二十年――冬。


 不作に耐えられずに逃散してきた百姓を始め、飢饉の影響で各地から人が流れ込み、数年前に比べて江戸は人口が増大し、治安も悪くなった。

 辻斬りや強姦や追いはぎが横行している物騒な世であろうと、夜でも人は表へと出る。まさか自分が被害に合うとは思っていない。事件を話題に挙げて口では怖がりつつも、所詮は他人事だと思っている。

 だがそれはある日、突然他人事ではなくなる。


 江戸の街外れにて、酔いどれ、雪をさくさくと踏みしめて、上機嫌で帰路に着く町人。

 その彼の酔いを一気に醒ましたのは、目の前に佇む人影――赤い蓬髪の鬼の面を被り、妖しく輝く黒い刀を構えた、紋の無い黒い羽織と黒い袴といういでたちの剣士だった。

 町人は数秒硬直し、目の前に現れた者が何者であるかを察して叫んだ。


「ひぃやああっ! で、出た! 鬼辻だ!」


 町人は恐怖に顔を引きつらせて、上ずった声で悲鳴をあげると、提灯を落として一目散に逃げ出す。

 しかし逃げ出して数歩走った後、町人は足に鋭い痛みを覚えて転倒した。見ると両足の脛の真ん中に穴が穿たれ、血が噴出している。何をされたのかわからないが、これではろくに歩くこともできない。


「ひいっ! ひっ! ひいいっ! い、命ばかりはお助けをおぉぉ!」


 腰を引きずって後ずさりした後、刀を掲げる鬼面の辻斬りに向かって手を合わせて拝み、命乞いをする。

 斬ることそのものを目的としている辻斬りにその願いが聞き入れられるはずもなく、無慈悲な黒い刀身が振り下ろされる。

 血が雪を赤く染める。血が黒衣の剣士の心を黒く満たす。


 辻斬りの中でも特に話題になっていたのは、鬼辻と呼ばれる鬼面の辻斬りであった。毎夜現れるわけではないが、現れると一晩のうちに何人も斬る。

 相手が複数であろうとお構いなしに抜き、黒い刀で皆殺しにする。奉行所の役人十人以上に取り囲まれようと、それらをものともせずに一人で切り伏せるほどの手練。さらには妖の術を用いたという目撃例すら多く、妖怪変化だという噂すらあった。


 役人だけに留まらず多くの腕利きの剣士が、鬼辻が現れた際、己の名を上げんとしてこれに挑んだが、いずれも屠られた。

 妖術を用いたという噂から、妖術師や御祓い師の類も投入されたが、それらすらも朝には死体となって路上に転がっていた。


 鬼辻が今夜斬るのは、これで十三人目であった。そろそろ満足がいく頃だ。

 鬼辻が辻を行う理由など、他の辻斬り連中と大して変わらない。今の世が気に食わない、その腹いせだ。江戸の泰平の世が気に食わなくて仕方が無い。実際には数年前からの自然災害の数々と、それによってもたらされた大飢饉により、太平とも呼び難かったが、少なくとも戦のある世ではない。それが鬼辻は気に入らない。


(戦国の世が懐かしい……。戻りたい……あの頃に……)


 戦の世――彼にとってあれほど面白いものは無かった。

 それまでの時間に育まれてきた命が大量にぶつかりあい、散り散りに消え去っていく。無数の記憶が、思い出が、全て無為と化す。時と共に目の前に屍が増えていく光景。手に伝わる肉と骨を切り裂く感触、一瞬覗く肉の断面、飛び散る血、絶望の表情、沸き起こる歓喜。敗走し、山の中を迷いに迷ってようやく抜けた先にあった村で、戦う術すら知らず、泣き喚き逃げ惑う民を蹂躙したあの愉快な時間。仲間達の汚い顔に浮かんだ会心の笑み。そして想い人に組み敷かれる時の恍惚。

 そろそろ三桁の年数にさしからんとする彼の人生の前半部分は、戦国の世と共にあった。だが今や天下は平らげられ、鬼辻は日々恨みを募らせ、追憶に耽っていた。


(私から戦を取り上げ、御頭の命を奪った泰平の世が憎い。もっと……もっと荒れてしまえばよい。何もかも壊れてしまえばよい。誰も彼も死に果てればよい。徳川の世など滅びてしまえばよい)

 呪いの言葉を口の中で呟き、鬼辻が帰路に着こうとしたその時――


「何者かは知らぬが、妖術師が辻斬りなどに堕するとはのう。如何なる事情があっての事か知らぬが、嘆かわしいことよ」


 精悍な顔つきの青年剣士が、鬼辻の前に立ちふさがった。鬼辻が妖術師であると知りなお挑まんとするという事は、目の前の男も妖術師か呪術師なのであろう。いや、例え彼が何も言葉を発さなくても、超常の力を幼き頃から磨き上げた者特有の妖気が、青年の体より放たれている事が、鬼辻の目には一目でわかった。

 剣士は不敵な笑みを浮かべて、堂々と隙を晒して頭を垂れた。


「草露香四郎(くさつゆこうしろう)と申します。草露流妖術五代目――となる予定の身でござる」


 剣士が名乗る。草露の名を聞いて、鬼辻は鬼面の中で微笑んだ。その名は当然知っている。数ある妖術流派の中でも、高名な流派の一つだ。


「雫野流妖術開祖……雫野累です」


 鬼辻と呼ばれた男は、相手を実力者と認めて敬意を払い、自らの口で正体を明かした。その名を聞いて香四郎は一瞬驚愕の表情を浮かべたが、すぐにまた不敵な面構えにと戻る。


「術です……か? それとも剣……ですか?」


 そう問うと、累は刀の切っ先を香四郎へと向ける。累の体より殺気と妖気が漲る。


「然らば剣で」


 相手の力量が相当なものだと理解するも、臆することなく刀を抜いて中段に構える香四郎。

 累の目からも、その淀み無い動作を一目見るなり、香四郎が剣士としても相当な力量であることがわかった。


 累も同様に中段で身構え、対峙する。

 漆黒の刀身が雪明りに照らされて煌きを放つ。累が手にするのはただの刀ではない。天より墜ちた石の中にあった鉄より鍛えられたという妖刀――『妾松』。

 香四郎もその剣のことは知っている。決して錆びず折れず、何百人斬っても刃こぼれ一つしないという話だ。まともに剣でうちあうと、相手の刀が折られる可能性が高い。

 それを承知のうえで、香四郎は嬉々として累へと一気に間合いをつめる。強敵との戦いが楽しみで仕方なかった。


 すり足で互いに寄っていく二人。

 累と香四郎が互いを間合いに捉えた時、二人はほぼ同時に地を強く大きく蹴って相手へ襲いかかり、互いに一太刀振るう。


 香四郎の右手が切られて血がしぶく。だが香四郎は己が手傷を受けた事よりも、別の事に気を取られた。

 累の鬼面の紐と髪が切られ、下から出てきた累の容貌に、香四郎は目を奪われた。

 雪明かりに照らされてきらめく金色の髪と白い肌。そして緑の瞳。初めて見る、異人の顔。少女とも少年ともつかぬ驚異的なまでの美貌。あの鬼面の下からこのような異人の美しい子供が現れようとは、全く想像ができなかった。


 香四郎に生じた隙を逃さんと、累が喉元を狙って剣を突く。香四郎は際どい所でそれをかわし、後ろに大きく跳躍して間合いを取った。

 剣の腕は相手の方が上だと、今のやりとりだけで香四郎は判断した。


「楽しくなってきた」

 笑みをこぼし、闇の中に身を翻す香四郎。


 香四郎の後を追い、暗闇の中を疾走する累。逃げているのでは無い。誘っているのだ。それはもちろん累も見抜いているが、相手の思惑が何なのか、如何なる術を仕掛けてくるのか、見てみたいという好奇心の方が先に立った。せっかくの腕の立つ妖術師との戦いだ。累とて存分に興じてみたい。


 闇夜の中、住宅街から出て、草むらを駆ける二人の妖術師。やがて香四郎の前に林が姿を現す。香四郎はその中へと駆け込む。

 木々の中に伏兵が潜んでいる可能性を見てとる累。殺気は抑えられているが、夥しい妖気が林の中から感じられる。恐らくは香四郎が作った魑魅魍魎の類であろう。

 林の中に入ると、林全体に妖気が充満しているのがわかる。木々そのものが妖であった場合は多少厄介であるが、たとえそうであっても負ける気はしない。


 香四郎が足を止めて振り返る。暗闇の中でも累は、その勝ち誇った笑みをしっかりと見た。余程の罠が仕掛けられてあるのであろうと思う。

 林の中へと誘い込んだ理由がすぐにわかった。木々の上から、また木陰から、夥しい数のそれが姿を現し、眼を光らせたのだ。


(二股ですか。それもこれほどの数を作り出すとは)


 尾が二つに分かれた猫――それが何十匹も群れを成して累を取り囲み、狙いを定めていた。前から後ろから横から上から下から。

 一斉にこれらが襲いかかってこられたとしたら、刀一本で対処するには無理がある。少なくとも無傷とはいかない。それもただの猫ではない、妖術師によって生み出された化け猫共だ。通常の猫よりも殺傷力を備えているのは間違いない。

 つまりこれは――累も術で対抗せねばならぬ時が来たという事だ。


「人喰い蛍」


 累が一言呟くと、累の周囲に無数の光の輝きが出現する。

 それは言葉通り、蛍ほどの大きさの輝きであったが、光り方が蛍のそれとはまるで異なる。何百という光がゆっくりと上から下へ下から上へと、三日月の形を描いて点滅し、踊っている。


 化け猫達が一斉にけたたましい叫び声をあげると、四方八方から累めがけて襲いかかる。猫達はおそらく察しているはずだ。己の身の危険、飛び掛れば高確率で屍となって転がるであろうことを。だが彼等に自由意志は無い。術で操られ、主の命に従い命を散らす運命にある。

 何百もの光が一斉に踊り狂い、累に向かって飛びかかった猫達を貫き、その体に無数の穴を穿つ。猫の体を一度貫くだけではなく、反転して再び貫いたり体内で暴れまわったりして、その体を徹底的に食い散らかす。

 自分の作った化け猫達が瞬く間に蹂躙されるのを目の当たりにして、香四郎の顔から笑みが消えていた。勝利の確信があっさりと打ち崩され、累の術に心底恐怖していた。あの数の光がもし自分に向けて放たれたら、ひとたまりもない。


 化け猫が全て殺し尽くされる前に、香四郎は駆け出していた。生き延びるには、この機しかない。あまりにも強すぎる。想像を遥かに超えていた。勝てる見込みが少しも見当たらない。今逃げるのが最良の選択と判断し、躊躇い無く実行した。

 何十匹といた化け猫を殺し尽くし、それまで香四郎がいた暗闇を見据え、賢明な判断だと累は頷いた。


「もう少し楽しませて……くれると思いましたが……」


 そう言いつつも、累は笑っていた。

 勇敢に戦い続けてあっさりと殺される相手より、逃げ延びた相手の方が期待できる。敵が今より腕を上げて、再び自分の前に立ち塞がり、楽しませてくれる事を願う。

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