第七章 2
江戸の町から離れて東に、馬に模した妖を走らすこと数刻。木々が生い茂る山の中に、累が住処としている家があった。
長屋門と庭園を備えた立派な武家屋敷。人気の無い山の中にあること自体、違和感がある。わざわざ累は大工達を術で操り、この屋敷を山の中に造らせた。
屋敷の清掃や庭の植物の手入れは、累が生みだした妖に行わせている。運悪く屋敷に近づいた人間はそれらの妖の腹の中に収まるため、この屋敷の存在を知る者は限られている。おかげで近隣の村々からは、化け物の出る山としての噂が立ち、近づく者はいなくなった。
数年前までは累が一人で住んでいたが、今はもう一人同居人がいる。
「お帰りなさいませ、父上」
夜が白みかけた頃に帰宅した累を少女が迎える。
累を父と呼んだその娘は、見た目はどう見ても累より年上だ。歳の頃は十六、七といったところであろう。背も累より高い。ほっそりとした体つきで、やや面長な気品のある顔立ち。白い肌。首の後ろで結われた腰まで伸びた黒髪。切れ長の目に、累と同じ翠の瞳。服も累と同じものであった。女人の服装ではない。
累は無言で娘を力いっぱい抱きしめる。
人を斬った後、累は欲情することが多いが、町に手頃な娘がいればそれを組み敷いて処理している。
その日の夜は性欲の処理を済ませてこなかったが、この娘に対しては性欲の類が一切わかない。しかしそれでもその身を求めて強く抱きしめる。
少女は一見すると細く見える体だが、触れれば服の上からでも胸や足の肉づきがよく、柔肌の持ち主であることがわかる。これまで累が目合ってきたどの娘よりも抱き心地の良い、極上に値する代物だ。しかし累が求めているものは、ただの肉体的な快楽ではない。
累の魂が癒されていく。心が満たされていく。累に心の癒しを与えてくれるのは、この娘しかいない。
それは娘の方も同じだった。娘にとっても、累だけがこの世で唯一、心を開ける存在だった。
累を父と呼ぶこの娘の名は、綾音(あやね)。累の血を引いた実の娘だ。
数年前、農村に住む綾音の前に唐突に現れた、自分と同じ色の瞳を持つ異人の少年は、実の父であると綾音に告げた。そして合意の上で連れて行かれ、妖術師としての修行を施される日々が始まった。
少しでも体温と肉の感触を味わい逃さんと互いに寄り添いながら歩き、床の間へと入るなり、倒れこむようにして布団の上に横になる累と綾音。
実の娘であるせいか、累からすると性欲の対象としてはどうしても見なせないが、ただ抱擁だけが欲しい。ただの抱擁だけで事足りるが、その抱擁によって満たされるものは大きい。
自分よりも体も小さく見た目も幼い、しかし確かに血の繋がった父親に対して愛しさがこみ上げ、綾音は累の頭の後ろに手を回し、抱え込むかのような格好で抱きしめる。
累が世の父親のそれとはかけ離れていることは、当然綾音も理解している。だが何ら不服は無い。たとえ実の娘に甘えようと、外で辻斬りや強姦を繰り返す悪党であろうと、綾音にとって累はかけがえの無い存在であった。師であり父であり救済者であった。綾音は累を慕っていたし、累は綾音に縋っていた。だが――
「私が憎ければ、術師としての……力を磨き、その力で……私を殺してみなさい」
耳に心地よい涼やかな声で累が呟いた。それは綾音を抱きながら何度も何度も耳元で囁いてきた言葉。綾音を抱きしめる度に囁いていた。
憎しみなどあろうはずがない。累は綾音を忌まわしい小さな世界から連れ出してくれた。綾音に新たな人生をくれた。愛し愛される喜びを与えてくれた。
だがそんな累が綾音に対し、後ろめたさのような昏い感情を抱いている。苦しんでいる。それが綾音にはわかる。それが綾音にとっても心苦しい
累の苦しみをどうにかしてやりたいとは思うが、綾音も父親同様不器用だった。どうすればいいのかわからない。
せいぜい、甘えて縋る累を受け入れる程度だが、それは綾音からしてもお互い様のことだ。綾音も累に甘え、縋っている。
「お前は……最近……伸び悩んでいますね……」
布団を頭からかぶり、横向きの姿勢で綾音の胸に顔を埋めた累が、ふと囁いた。
「はい。お恥ずかしいことに」
ためらいがちに綾音がそう返す。妖術師としての修行のことに触れられている。確かに最近は調子が悪い。その理由はわかりきっているが、その話題にはできれば触れられたくない綾音であった。これ以上突っこんで聞かれたら、返す言葉にも困る。
綾音の心が乱れているせいだ。集中しづらい。意識してしまう。もうすぐ訪れる己の未来を意識し、修行に精が出ない。
そもそも綾音の心が乱れる原因を作ったのは、他ならぬ累である。その累からそんなことを告げられる事に、綾音は悲しみを覚える。
「心を……揺さぶれることがあるのでしょうが、それを鎮めるのもまた……修行の一つですよ?」
若干意地の悪い口調で言い放ったその言葉が、綾音の耳には痛々しく響いた。
綾音より哀れみが向けられているのを感じとり、累は眉をひそめる。
「生意気を言わせていただきますが、それは父上も同様でございましょう?」
遠慮がちな口調ではあったが、思ったことを口にする綾音。
「私も父上も、似た者同士ということではないでしょうか。些細なことに容易く心が揺れ、その影響が悪しき形でこれまた容易く出てしまう」
随分と言うようになったと、累は綾音に愛しさを覚える一方で、ひどく重さを感じる。
(自分のような父親を持ち、さらわれ、妖の道へと落とされたお前が、私をそのような目で見るとは……)
哀れみの視線で自分を見ていることを感じ取り、累は綾音の体を抱く手に力を込める。
累は綾音を愛でる一方で、疎んでもいた。自分の心を全て見透かしたかのような目で見られるのがたまらなく嫌だった。
辻斬りにせよ強姦にせよ、悪事を働いて帰ってきた後に、累は綾音の目が気になって仕方が無い。後ろめたさに心を針で刺されるような、そんな気分を抱かされる。
綾音と会うまでは、罪の意識など欠片も覚えず楽しんでいたのに、綾音と共に過ごすようになってから、いちいち綾音のことを意識してしまう。
世を憎み、辻斬りや強姦などの悪事を働いてウサ晴らしを行っている自分のような親をもった綾音のことを、不憫な娘だと思いこんでいる。そして後ろめたさにさいなまれる。
綾音からすれば父親のことを心底慕っていたにも変わらず、累は勝手に逆のことを思いこみ、苦しんでいた。
累が布団から顔を出し、微かに潤んだ瞳で綾音を見上げる。
綾音も累をじっと見つめる。見慣れているはずの顔に見惚れる。この世の者とは思えぬ美しさと愛らしさを備えた父の美貌を間近で見つめ、綾音はその頬にそっと手で触れる。
さらに淡い金髪を手で撫でる。これほど美しく、愛らしく、儚く、強く、悪く、面白い存在が自分のものであることが、綾音はたまらなく嬉しい。優越感とも独占欲ともつかぬ感情で満たされる。
そんな綾音と累の幸福な時間に、終わりが迫っていた。
綾音はそれを承知している。覚悟はできてないが、避けられない運命だと諦めている。
諦めてはいるが、納得しきっているわけではない。理不尽なる運命。理不尽なる言いつけ。綾音は口にこそ出さないが、心の底では反感を抱いている。幸福な時間に終わりを下すことを決めた父親に対して。
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