第六章 28
「はっ、どこまでなめくさってくれやがるんだ。この便器はよ」
吐き捨てるバイパーだったが、純子の言葉が冗談や脅しの類とは思えない。
「言っておくけど、凍らせたのは扉じゃなくて空気中の水分だからね? いくら君でも触らないほうが身のためだよー。手が張り付いて凍傷になっちゃうよー」
「アドバイスどーも。でもそのアドバイス意味あるのか? お前はこれから俺を凍らせて持ち運ぼうってのによ」
一瞬にして超低温を作り出すことができるということで、純子に近づいても一瞬にして凍らされる可能性があり、接近戦を挑むには危険すぎる相手だとバイパーは悟る。
(ま、そういう相手も想定した武器もあるわけだがな)
不敵に笑うバイパー。彼の戦闘スイタルは、徒手空拳による近接格闘戦だけではない。
バイパーが駆ける。純子との一気に間合いを詰めた。奥の手を発動させるためには、時間を稼がないといけない。
だが時間稼ぎをしていると悟らせてはいけない。逃げ回っていたりいつまでも動かないでいたりすれば、この相手にはそれを容易に悟られてしまいかねない。ならば危険を承知のうえで、接近して戦うしかない。
見た目が女の子でも、中身は危険な怪物だと割り切ることができれば、バイパーにしてみれば気が楽だ。渾身の力を込めて、右拳を純子の愛らしい顔めがけて振るう。
純子は頭を下げてかわす。純子の動きを読んで続けて左アッパーが放たれたが、純子は右手でもってそれを防いだ。今度はあの聞きなれた音がしなかった。バイパーの太い手首が、純子の小さな手によって掴まれて止められていたのだ。
強烈な悪寒を覚えて、バイパーは右足で純子を蹴り上げようとした。純子はバイパーの手首を離して後方へと跳ぶ。バイパーも左足で床を蹴り、純子から距離を置くために後方へと跳んだ。
「大したもんだねえ。いい勘してるよお」
口笛を吹き、感心したように純子。
あのままいれば手首ごと潰されたか、それとも凍らされたのか、ろくなことにならなかったであろうと、バイパーは推察する。
(百戦錬磨ってのは過大評価だな。俺は自分が不利に立たされた覚えがあまりねえし)
秀蘭の評価の言葉は、バイパーの耳にも届いていた。それを今ここで心の中で否定する。
互いに徒手空拳でありながら、互いにその攻撃は相手にとって致命的になりうる。今までバイパーは、銃を持った相手に対しても、これほど身に危険を覚えた戦いを経験したことはあまりない。そもそも当たり所が悪くないかぎり、銃弾では傷つかない体だが。
(で、次はどうするよ。破壊力は互角でも、技とスピードはこのふざけた便器のが上だし、これ以上は時間稼ぎするのがしんどいぞ)
目の前で嬉しそうな笑顔で自分を見据えている可愛らしい少女が、バイパーには悪魔に見えてならない。
(いや……時間的にはもう効いている頃か? そもそもこの化け物に効くかどうかも定かじゃねーけどよ)
そう考えて、バイパーは賭けに出た。純子と向かい合った格好のまま後方に駆けて距離を取るなり、純子めがけて腕を振るう。
何かを投げつけてきたのを見てとって、純子は身を翻してかわす。
何を投げたのか、純子にはわからなかった。確認するために振り返るなどという愚行もしない。点のようにしか見えなかったので、小さな礫か針なのではないかと推察する。
純子の読みは当たっていた。バイパーが投げたのは長針である。真が使っている長針よりもさらに長い。30センチ近くはある。
バイパーはそれら長針を体内に隠し持ち、接近戦が危険な相手にのみ使用する。もっともバイパーが接近戦を危険として判断し、これを用いたことは今までに一度しかなかったが。
(まだ駄目か。だが続けるしかねえ)
両腕に力をこめ、腕の中に仕込んでいる針をそれぞれ六本ずつ体内から押し出して、指と指の間へと納めると、両腕を激しく何度も振るい、針を投げつける。
一度に全てを投げつけているわけでもない。着弾点も純子の動きを想定してそれぞれ変えている。要領的には裏通りにおけるコンセントを服用しての銃撃戦と同じだ。
「あれ?」
避けたと思ったのに、長針の一本が左太股を貫いていたのを見て、純子が怪訝な声をあげた。
「んー、今の、確かにかわしたと思ったのに。おかしいなー」
(そろそろ効きだしたか)
その様子を見てバイパーがほくそ笑む。さらに続けて二本の針を投げつける。
右膝、肩の間接部分を貫かれる純子。動きから封じようという腹積もりであろうと、純子は即座に判断する。
(かわしたと思ったのにかわせてないってことは、私の体に気づかないうちに何かされたと見ていいかなあ。でも何だろうなあ)
そう考えて純子は、己の体に起こった異常を解析しにかかる。即座に自分の体の異常の正体を突き止めた。
「なるるる。神経毒で感覚が狂わされていたわけね。君が近接格闘タイプだと思って油断してたよー。オーバーライフ的には、ハメ系の能力や術はあまり怖くなくて、単純パワーの方が有効なんだけれど。こういうシンプルな手もわりといい感じかなあ」
「遅効性だから効き目が表れるのも遅いが、相手に気付かれるのも遅いってな」
体内に蓄えられた、一日一回しか使えない神経ガス。それがバイパーの切り札である。その切り札を見破られても、バイパーは動じなかった。
「でもタネがわかっちゃったら、もうそれまでだよ。毒の性質を解析して解毒すればいいだけの話だし」
「まともに動けるのならな」
さらに長針を幾つも投げつけるバイパー。今度は動きを封じるのではない。すでに十分と見なして、致命傷を狙っている。かわそうとする純子だったが、明らかに動きがおぼつかず、腹部と左胸を針が貫く。
「なるるる。解毒しても、ちょっとの間は麻痺の後遺症が残っちゃうわけかー。しかも肉体の回復機能まで狂わされているから、時間が経たないかぎりは治すに治せずと。随分と厄介というか考えられているというか、明らかに対オーバーライフ用に設計されて作られた仕掛けだねえ、これ。こんなマウスを作るのは、私の知る限り二人だけ――」
バイパーを作ったのが誰なのか、純子はこの時点で看破した。
「自分の作ったものをすぐ自慢しにくる霧崎教授製なわけはないから、つまりは消去法でそういうことだねー」
呟くと同時に、純子の真紅の瞳が文字通り光った。蛍光の輝きを放つ純子の瞳を見て、バイパーは背筋に寒いものを感じる。
(何かしてくる――絶望的にヤバい何かを)
逃げるか、それとも攻撃を続けて一気に決着をつけるか、バイパーは逡巡した。本能は明らかに逃げろと告げているが、どこへ逃げろというのか? 外へ出る扉は氷漬けにされており、バイパーの膂力をもってしても簡単には破壊できそうにない。
純子の顔に穏やかな笑みが広がる。それを見てバイパーは余計にぞっとする。
(糞っ! やってやる!)
恐怖を呑み込み、バイパーも純子に合わせるようにして無理矢理笑ってみせ、ありったけの針を純子に放たんと両手を上げかけたその時――
『おう、そういうことだ、カス』
バイパーと純子、両者にとって聞き覚えのある声が室内に響く。
直後、氷漬けの扉が轟音と共に部屋の内側へ吹き飛んだ。
「てめえっ! 何で来てんだよ!」
思わず純子から顔を背けて振り返り、室内へと入ってきた白猫に向かってバイパーは叫んだ。
『来て悪いかボケ。十分遊ばせてやったろ。ちょっとこいつと話があるから、お前は黙ってろ。口挟んで邪魔したら殺すぞ』
バイパーに向かって一方的に毒づくと、ミルクは純子へと視線を向ける。バイパーは舌打ちして戦闘体勢を完全に解き、ミルクの背後へと回った。
「なるほどねえ。さしもの毒蛇も、猫にはかなわないってことかぁ」
そのやりとりを見ておかしそうに笑う純子だった。
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