第六章 11
藍が薬仏市を去ってから十年以上が経つ。藍が生まれ育ったこの街には、たった一つのことを除いて、悪い思い出しかない。
十年振りに訪れた薬仏市は、大して変わってないように藍には思えた。かつてあった店が無くなり、かつて無かった店が建っているのも見かけたが、大きな変化は感じられない。
そしてクラブ猫屋敷も、その外観は全く変わってないように見える。繁華街にある潰れた店舗の一つ。藍のいい思い出がいっぱい詰まっている場所。しかし結局捨て去ってしまった場所。二度と戻らないと決めたにも関わらず、再び訪れた己の決断を自嘲しつつ、扉を開く。
『そろそろ来ると思った』
懐かしい声がかかる。明らかにおかしな響きの声。人のものならざる声。
「ミルク……ナル……久しぶり」
ホールの中央にいる白猫とボックス席に寝転がった少年に向かって、藍は力無く微笑みかける。
「藍、大変なことになっちゃったにぅ」
ナルが身を起こして心配げに言う。十年以上経っているにも関わらず、彼は全く成長せず子供のままだ。
「知ってるのね」
『雪岡純子の流した広告で知ったのですよっと。それまでお前があいつの子供を身篭っていたなんて、知らなかったし』
「で、あいつはどこ?」
藍の問いに、ナルと白猫が顔を見合わせる。
「今帰ったとこさ」
声は藍の後ろからかかった。
激しい動悸を覚えつつ藍が振り返ると、そこに最も会いたくて会いたくなかった人物の顔があった。様々な感情が暴走し、藍の中で荒れ狂っている。顔を見ただけで、頭の中がどうにかなってしまいそうになり、悲しみ、懐かしさ、愛情、悔しさ、あらゆる感情が詰まりに詰まった涙が溢れ出す。
(会っても……泣かないでいようって思ったのに)
入り口に立ち、ばつの悪そうな顔で見下ろすバイパーから顔を背け、涙をぬぐう藍。
『おかえり、パパ』
「ここはお前が茶化すシーンじゃねえだろ」
白猫を睨みつけると、バイパーは藍の横をすり抜け、ナルの向かいの椅子に腰を下ろした。それを見たナルが立ち上がり、今まで寝転がっていた席を指して、藍に座るようにと促す。バイパーはそれを見て舌打ちし、藍はナルに小さく微笑み会釈して、ナルがいた椅子に腰掛ける。
「じゃあ僕達は席外しておこうかにぅ」
『ふん。ごゆっくりしとけ。しかしまさかこんな展開になるとはね。純子の奴、私のマウスとも知らずに……』
ナルと白猫がホールを出て行き、後にはバイパーと藍の二人が残される。
「誰も歳をとってないように見えるんだけれど」
十年前と変わらぬ外見のバイパーとナルを指して藍。
「皆不老不死だからな」
と、バイパー。
「ずっと昔、不老不死の法を求めていた妖術師が、自分の作った化猫二匹に術の実験を行った。術は成功して、二匹の猫は歳をとらなくなり、術師自身もその術をてめーにかけた。だが、肉体の老いは止めることができても、精神の老いを止めることはできなかった。心の成長が止まり、感性が摩滅し、何を見ても、何を味わっても、無感動かつ無関心になっていき、倦怠感と虚無感だけが大きくなって、最期は動こうとしなくなっちまって、何も食おうともしねーで、阿呆面でぼーっと宙を見上げたまま逝ったとよ」
「その猫のうちの一匹がミルクね」
初めて聞いた話だが、先程までここにいたクラブ猫屋敷の主――人間の言葉を喋る白猫のことを指していることは、察しがついた。
「この世の多くの者は、魂の成長が一度の人生では限界があるんだとよ。精神の老いが、魂の成長って奴を妨げちまうかららしい。転生というシステムの意義は、一度人生のリセットをするためにあるんだとよ。死によって前世の記憶が無くなっても、赤ん坊からやり直しても、魂は成長しているんだとよ。だがミルクの精神は老いることが無かった。肉体さえ滅びなければ永遠に生きていける。だからこうして今も生きている。リセットする必要が無く、精神を保ち、転生せずとも永遠に魂の成長が臨める――たまにそういう適正をもった奴がいるそうだ。そういう奴は過ぎたる命を持つ者とか、オーバーライフとか呼ばれているんだとよ」
全く関心の無い話であったが、藍は口を挟まず聞いていた。バイパーが無関係な話をしつつ、藍の方から話を切り出させようとしていることはわかっているが、本題を切り出しにくい。
この豪放磊落な男はやはり頼りになると、藍は側に来ただけで感じ取る。女の直感だ。最初からこうすればよかったのはわかっていたが、抵抗があって出来なかった。
「話はもう知っているわよね」
重い空気の中、藍が本題に入る。
「雪岡純子か。厄介な奴に目をつけられたもんだな。まあ俺も直接は知らねーけど、俺の御主人様が因縁深い間柄らしいし。ある意味丁度いいかもだが」
「ええ。あなたの子が人質に取られているの。あなたと引き換えにね」
藍のその言葉に、バイパーの瞳に獰猛な光が宿る。この男が、かつて自分の前で人の体を紙のように引き裂いた時のことを藍は思い出す。
「どうしてそうなった?」
うつむいて問うバイパー。明らかに責める口調で。
「なんだって雪岡純子なんかに餓鬼を人質に取られたりした?」
藍は言葉に詰まる。それを話すからには、全てを話さなければならない。話したくない話まで。
「どうして俺の元から離れて、餓鬼まで生んでおいて、有料便器なんかしてた? どうしてそんな風になっちまったんだ。ええ?」
「知ってて放っておいたの?」
バイパーの詰問に嘲笑で返す藍。
「餓鬼の件は知らねーよ。有料公衆便所の話は知っていたがね。よくもまあそんな真似ができたもんだ」
「他にどうしろと? 着の身着のままで何も無い私が、生きていくにも子供を産むにも育てるにも、他に選択肢は無かったのよ? 小学生の妊婦とか高値で買い取ってもらえたけどね。で、その買い取ってくれた人が都議会議員になって、児童ポルノ根絶を訴えていたのは心底笑えたけど」
おかしそうに微笑む藍に、バイパーは哀れむような視線を向けていた。
「十年以上経っても、お前ってちっとも変わってないのな。自分に対して肯定しか認めない。ほんのわずかでも否定されると、全力で反発する。あるいは他人が望むことと必ず反対のことをしたがる。右と言われれば頭で考えるより先に脊髄反射で左に行きたがる。そういう厄介な馬鹿餓鬼だったが、未だにそのまんまだ。現実のツンデレなんて始末におえなくて、見れたもんじゃねーよ。ま、詳しく聞かなくても、そんな糞極まりない性格で、こういう事態招いたんだろってこたーわかるがな」
バイパーの容赦の無い物言いに、藍は沈黙した。屈辱に頬を紅潮させて手は震えている。それ以上反論することができなかった。かつて愛した男の言葉は残らず的を射ていた。否定できないし、否定しきれない。
「確かに最適だな、お前のその商売はよ。お前のこと肯定だけしてくれて、ちやほやしてくれるわけだからよ」
「それも貴方に教わったことよ? 体だけ抱きあっても意味が無い。心まで抱いて、相手に一生忘れない強烈な思い出を与えてやれってね。芸術家や作家と一緒よ。人の心に焼き付く感動を与える事が、生き甲斐であり達成感。いや、私にとっては勝利の喜びのようなもの。私を買ってくれたお客さんに、いかに――」
「糞をどれだけ気持ちよくひり出してもらったかを語る、便器の自慢話なんてどうでもいいわ」
嘲りよりも憐みを込めて、バイパーが吐き捨てる。
「そうね。私はね、私と貴方の子供を貴方に助けてほしくて来たのよ」
藍がバイパーを睨みつけ、怒気を孕んだ声で告げる。
「助けてもらうって態度じゃねーぞ、それ。しかもてめーで蒔いた種でよ。おっと、種を蒔いたのは俺か。だから俺にも義務があるってか? 今の今まで、餓鬼がいるとも知らなかった俺に」
「もう一度……助けて欲しい」
藍は血を吐くかのように言い、うつむいて唇を噛みしめる。
「あの時のあなたはヒーローに見えた。白馬の王子様だった。救世主だった」
「今度はおだてるのか。警察署に乗り込んで警官皆殺しとか、とんだヒーローだな。はっ」
「本当にそうだったもの。私はそれで救われたのは確かだもの」
まだ十歳になったばかりの頃、藍は警察署署長である父親より性的虐待を受け続けていた。警察に言いつけても自分が警察で一番偉いからどうにもならないと笑いながら言われ、どうにもできないと諦め、運命を呪いながら日々を送っていた。
そんな藍の前に現れ、諦めていた運命をいともたやすく引っくり返したのが、バイパーだった。
藍はバイパーに懐き、ここクラブ猫屋敷で共に暮らすようになり、半年後には身を重ねる間柄にまでなったが、互いに我の強い者同士で衝突が絶えず、ある時とうとう藍は猫屋敷を出て行き、それきり音沙汰無く十年以上の月日が流れ、現在に至る。
「俺は正義のヒーローなんかじゃねえよ。ただ俺とお前は重なって見えた。それだけだったんだ。餓鬼は力が無い……大人に抗おうにも力が無くてかなわねえ……」
藍から視線を背け、苦い表情になる。
「生まれがロクでもねえと、それだけで人生のハズレって感じだろ? 俺もお前も、生まれてオギャーでいきなりハズレ引いちまった。でもよ、捨てる神いりゃ拾う神もいるって言うじゃんか。俺も運命の悪戯でとんでもねえ奴等に目えつけられて、それで救われちまった。それからはそれまでとは全然違う人生だったし、まあ……楽しくやってこれたんだ。俺は、な。でもお前はどうだったんだ?」
問われ、藍は反射的に唇を噛みしめてうつむく。
目の前の男と別れてさえいなければ、全く別の人生があったであろう。身を売って生計をたて、且つそれを誇りにしている今の自分。
疚しさが全く無いわけではない。ましてやそれを知った惣介を苦しめ、今のこの状況を作り上げた原因でもあるとなっては、自分を肯定するなどとてもできない。
「私の口からどうしてもそれを言わせないと気がすまないの?」
歪んだ笑みを浮かべ、藍は身を乗り出し、バイパーを睨みつける。
「ああ、言ってもらいたいね。ちゃんと認めろ。心からお願いしてみろ。そうした時に初めて、考えてやる程度に値するって所だ」
口の端を大きく吊り上げて笑い返すバイパーに、藍は笑みを消し、怒りと屈辱に震えていたが、やがて腰を落として再びうつむいた。いや、うなだれた。
「私が全部間違ってたわ! 私のせいであの子に辛い想いをさせて、今も危ない状況になってる! だから助けて!」
血を吐く想いで懇願する。
「はい、よくできました」
言葉では揶揄しているかのようではあるが、バイパーの口調は淡々としており、その視線は優しげなものに変わっているかのように、藍には見えた。
「ま、俺の返事は決まっているんだがね。とりあえずそのゲームとやらの時間はまだ猶予あるんだろう? 少し待ってくれ。こっちも今は外せない用事があってな」
言ってバイパーが電話をかける。
「よう。どうしても外せない野暮用ができちまいやがった。てなわけで麗魅さんよ。しばらくお前一人であいつのガードは頼むわ」
『わかったけれど、今夜だけはお前ガードしろよ』
「ああ、今夜はな。明日から頼むわ」
短いやりとりですぐに電話を切る。メールで済まさずわざわざ電話したのは、藍に音声を聞かせるためだ。自分だけではなく相手の。女の声であったが、バイパーと男女の間柄の仲では無いだろうと、今の短い会話だけでも藍には判断がついた。
「そういうわけだ。どっちも外せない用事ってわけでな。全く……二人ものお守りするハメになっちまうとはな」
「二人?」
「俺の昔の恩人がちょっとややこしいことになっててな。さっきも言った、俺の運命を変え、救ってくれた奴だ。ミルクとは別のな。まあ、そっちは俺だけでガードしてるわけでもねーし、その合間にお前の餓鬼を助ければいいって寸法さ」
「私と貴方の子よ」
念押しするかのような藍の訂正に、渋面になるバイパー。
「名前は?」
「惣介」
その名を聞いて、バイパーがあんぐりと口を開ける。その反応を見て、お返しをしてやることが出来たとばかりに藍は意地悪く微笑む。
「おま……何でよりにもよって……まあいいが」
あからさまにがっくりと肩を落とし、大きく息を吐くバイパー。
「私は私で動いてみる」
バイパーだけに頼るわけにもいかない。バイパーがすぐに動けないのであれば、その時間を利用して自分でも手を打っておこうと藍は決めた。
「余計なことはしねー方がいい――と言っても、てめーが聞くたまでもねーか」
『安楽市に行くのなら、あまりやんちゃはしない方がいいですよっと。芦屋のテリトリーだし』
奥から白猫が現れると共に、聞きなれた声が響く。
「てめえ、盗み聞きしてたのか?」
忌々しげに白猫を睨むバイパー。
『あん? 一応今の今まで席は外してやっていたのですが? てめーらのくだらねー痴話喧嘩に私が興味あるわけないでしょーが』
皮肉げな声が返ってくる。この異質なイントネーションによる音声を発しているのは目の前の化け猫であるが、実際にこの猫の肉声というわけではない。猫の舌で人間の言葉は喋れないからだ。肉声とは異なる手段で音声を発している。
「そういうわけでミルク、この人をしばらく借りるわね」
白猫ミルクを見下ろし、藍が言った。
『ふん。こいつの性能を上げるためになるかもだし、構わないですよっと』
「ん? どういうことだ?」
ミルクの言葉を訝るバイパー。
『頭使えボケ。純子と事を構えるわけだし、あいつのマウスとの交戦も考えられるだろ。まああいつのマウスは私のマウスと違ってピンキリで、質の悪いのも多いけど。うまく質のいいのに当たれば、お前の力を引き上げることにもなるし、純子のマウスのデータもいただける、と。後者は正直どうでもいいですがね。あいつのマウスなんざ、面白みのないしょーもないのが多いですし』
「ちぎり甲斐のある相手は俺としても歓迎だ」
バイパーが獰猛な笑みを浮かべる。藍の目の前で何人もの警官を肉片に変えた際に見たあの笑みだ。十年以上経った今でも藍はその時の光景と、バイパーの顔に張り付いていたこの笑みを鮮烈に記憶している。
何者にもこの男は止めることが出来ない。この顔を見ただけで、藍には疑いなくそう思うことができた。
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