第五章 36

 この世の全ては物理法則から成るものであり、科学的根拠の無いものなど存在しないと、純子は考えている。不可侵の領域など絶対に無いと、信念をもって断ずる。

 過去両手両足の指を使っても数え切れないほど、絶対逃れられない文字通りの必殺と思わせる能力や術や技を使う者を見てきたが、それらにも全て術理が存在しており、その仕組みを解き明かせば防ぐことができた。

 神隠しの力霊――触れた者をランダムに強制空間転移させてしまうこの霊も例外ではないと、純子は確信している。


 人差し指の上でウレタン製巻き糞玩具を弄びながら、純子は上空の力霊に向けて、自らの存在をアピールするかのように、強い気を込めて視線を送っていた。


(あれにどう対抗するのか、雪岡純子の力を見届けてやるわ)


 累の張った結界の中で、遠巻きに純子の背を見やりながら幸子は思った。美香と真も、幸子のすぐ両側で見守っている。瞬一も結界の中で寝かされている。累だけは結界の外に出ていた。

 力霊が純子と累の存在を察知して、猛スピードで急降下してくる。


「千年前――私か私の親のどちらかを飛ばしたのか、生前の術師の仕業か、すでに力霊だったのか知らないけど――」


 自分にだけわかる言葉を呟く純子に狙いを定め、力霊が凄まじい速度で接近してくる。純子が霊に向かって、今まで人差し指の上で廻していた玩具を投げつける。玩具は霊を素通りして地面に落ちた。

 純子はわりと余裕をもって力霊のダイブをかわし、ほくそ笑んだ。


「やっぱりそういうことかー。触れたものを全て転移ってわけじゃあない。それなら空気だって転移し続けることになるから、かまいたちが発生しそうだし」

「どういうことだかさっぱりわからんが、大丈夫なのか!?」


 遠巻きに見守る美香が叫ぶ。


「うん。飛ばすのはあくまで生物――いや、精神を持つ者と、それと接触している衣類とかに限られるんだよ。じゃあどういう原理でもって、精神を持つ者に限ってワープさせているのか。それを考えればいいね」


 腰を落として地面に片膝をついた格好で解説する純子。力霊は空中で静止し、純子を見下ろしている。常に動き回っていた力霊が完全に止まっている姿を、幸子は初めて見た。

 純子もまた力霊を見上げていた。両者とも互いに視線をぶつけたまま動こうとしない。力霊の方は、今度は逃れられないように狙いを定めているかのようにも見えなくもないが、純子が何をしようとしているのか、結界の中にいる三人には全く伺い知れない。


 力霊がゆっくりと動き出す。長い体をくねらせ、純子に照準をつけたかと思うと、先程を上回るスピードでダイブした。

 今度は避けようとしない純子に、美香と幸子は目を剥く。真は何のリアクションも無く平然と見守っている。これも純子の目論み通りであるのだろうと確信していた。


 累が片手を軽く払う。純子に接触する間際で、力霊の体を緑色の炎が包み込み、弾かれたように苦しみのた打ち回る。

 霊体を焼くその炎は力霊を苦しませるだけではなく、その場に拘束する作用もあるようで、力霊は炎に焼かれた状態のまま、その場から移動することができない様子だ。


「解析開始」


 純子が呟いて立ち上がると、力霊に向かって手を伸ばした。真紅の瞳が発光している。

 そのまま霊に触れる純子。自分の体が飛ばされそうになる何千分の一秒かの間に、その能力のシステムを解明せんと努める。

 解析に入る前にも、どういう仕組みで触れた者を転移するのか、予め何十通りも想定してある。可能性の高い順に、それらの推測と照合させていく。一致したら、予め用意していたその術理を破る方法を用いればいいだけの話だ。


(つまり――意識の一部を無作為に飛ばす。精神は物質的な距離を超越して移動も可能なために、精神を一瞬にして転移することはさほど苦ではない、と。その己の意識の部分的な転移にあわせて、触れた者の精神を取り込み、そのまま肉体やら着用品までも物質的に取り込んで、飛ばすという仕組み。つまり――ある意味これも、霊による立派な憑依現象に他ならないってわけね。おそらく生前の能力も似たようなものかな)


「何で……飛ばないの……」


 神隠しの霊に触れても平然としている純子を見て、幸子が呻く。


(まあ、こいつは僕にとってのラスボスなんだし、どれほど凄い力を見せ付けてくれても驚かないが)


 力霊に触れている純子と、それを見て驚愕している幸子を交互に見て、真は思う。


「移動のスピードもすごいけれど、憑依のスピードもかなりのものだねえ。この霊に接触した際に恐怖を覚える。つまり憑依されるイコール転移という仕組みだよ。単純に精神力が怨念を上回れば、霊の憑依にレジストできるから飛ばないっていうだけの話だよ」


 誰とも無く解説すると、純子は力霊から手を離した。


「さてと、仕組みは解明できたし、もうこの子は必要ないかなー」


 累の方を見て純子が頷く。

 累が力霊の方に向かって手をかざし、口の中で呪文を唱えた途端、力霊を焼く緑の炎が天を衝く勢いで吹き上がり、巨大な炎柱となって力霊を包み込んだ。


 炎の中で力霊はさらに激しく苦しみもがいていたが、徐々にその動きが鈍くなっていき、さらにはその細長く伸びた胴体が縮んでいく。

 異形だったその姿が人間の男性のそれになったかと思うと、純子と累に穏やかな表情を向けて唇を動かし――おそらくは礼を告げ、天に昇っていくかのように炎柱の中を上がっていき、やがて消えた。


「成仏させたの? どうして……?」


 力霊が怨念を浄化されて冥府へと旅立ったのを見て、驚きの表情のまま尋ねる幸子。


「残念ながら私の望んでいた力ではなかったしねー。これは生まれついての特殊な能力の保持者か、鍛錬を積んだ人にしか扱いこなせないよ。私が望んでいたのは、誰にでも扱える力なんだしさー。それにさあ、いろいろ研究しようにも、これはちょっと取り扱いが危険だしねー」


 ついでに言うと個人的な因縁もあったが、それは心に秘めておく純子であった。


「何を言ってるの? 貴女はその力霊の力を得ようとしたのではなかったの? それを浄化して冥界に送ってしまうなんて……」

「だからあ、力を得たかったわけではなくて、研究したかっただけだってば」


 納得いかない様子で食いつく幸子に、純子は笑顔で答える。

 ヨブの報酬の目的は力霊を雪岡純子から奪うこと。哀れなる霊を解放することだった。その目的を他ならぬ純子が成し遂げてしまった。わけがわからない。純子の言葉の意味を理解できたのは、真と累だけだった。


「どっちにしろ私にとってはハズレだったんだからさー。当たりつきアイスは食べてみるまで当たりかハズレかわからないのと同じだよ。んでさー、私がこうして君達ヨブの報酬の目的をかなえてあげたんだから、代わりに私の質問に答えて欲しいんだけど、いいかなー?」


 屈託の無い笑顔で、しかし有無を言わせぬ何かを漂わせながら言う純子に、幸子は気圧され気味になる。


「何?」

「君に力霊を売ったのはこの子かな?」


 と、結界の中で仰向けに寝かされている瞬一を指す。


「そうよ」

「本当にそう? 何か違いがあるように見えなくはないかなあ? よく確かめて欲しいんだけどなー」


 言われて幸子は、よく目を凝らして瞬一を見てみる。


(確かに雰囲気はまるで違う。でも、私が会ったのは本当に偽者だってこと?)


「私達はねー、この子の無実を証明して、日戯威の悪だくみを打ち破るために奔走してたんだよー。私の一番の目的もそれなんだ。この子の組織にはずっとお世話になっているしね。幸子ちゃんと瞬一君の取引の映像が出回っているからには、無実の証明か、さもなくば日戯威の奸計の証拠が無いと、裏通りにおいての信用の回復も、日戯威を潰すための大義名分も立たないからねえ。つまり、君は騙されたんだよ。瞬一君に罪を被せるために、君も日戯威に利用されたの。もう一度聞くよ? 君と会ったのは本当にこの子?」


 力霊を奪還しようとするのではなく、わざわざこちらの目的を代わりにかなえる代償としての質問。幸子は信じざるをえなかった。純子は真実を口にしていると。そうでないと合点がいかない部分も多いし、何より純子の言葉が嘘であると思えない。


(それに……この騒動、確かにいろいろとおかしい部分が多い。私の読みは完全に間違っていた?)


「ちょっと君、笑ってみてくれない?」

「笑う?」


 幸子に言われて、何かを確かめるのだろうと察して、瞬一は無理矢理ぎこちない作り笑いを浮かべて見せた。


「もっと営業用の笑い顔で」

「こんな状態で、こうしてくれた相手には難しいけれど……」


 言われた通りに頑張って笑い顔を作ってみせる瞬一。


(全然違うわ……)


 あの時出会った時の少年の愛想笑い。あれの表情とも印象とも全く違う。あれは腹の底を全く見せない笑みだった。目を見なくても、口元の笑みの作り方だけでもまるで違った。いや、よくよく考えれば姿や声は同じでも、喋り方も雰囲気も全然違う。


「この子は、別人だわ。あの時私と会った子ではない」

「はい、証拠の裏づけゲット、と」


 純子が歯を見せて笑う。


「何てことなの……私、取り返しのつかないことをしてしまった……」


 一方で幸子は罪悪感にとらわれ、立ち眩みすら覚えた。勘違いでもって、無実の少年を殺して盲霊にしようとして、目を潰してしまったのだ。


「よせ!」


 幸子が刀を抜き、自分の目に押し当てて引こうとした所を、すぐ隣にいた美香に手首を掴まれて止められた。


「離して。私は勘違いであの子の光を奪ってしまった。私も同じになって償う」

「大丈夫だ。目なら雪岡が治してくれる」


 悲壮感あふれる表情の幸子に向かって、真が言った。


「本当に?」

「マジで?」


 幸子と瞬一が同時に声をあげる。


「うん。新しい目を作って移植するくらい簡単だよー。で、人造魔眼のコースはいろいろあるけれどどれがいいー? 破壊光線を出せる目か、催眠術で人の心を支配できる目か、透視能力がついて女の子の服の下とか見える目か」

「いや……普通の目でいいから」


 親切で勧めてくれているのであろう純子だったが、引き気味に遠慮する瞬一。


「馬鹿! せっかくだから破壊光線をもらっておくんだ! 透視アイをもらったら兄弟の縁を切らせてもらう!」

「催眠術の目の方がよさそうだと思うがな」


 美香と真が後押しする。


「お前は力を欲しがっていたんだろ! ならいい機会だ!」


 力を手に入れるために純子の実験台になった美香からすれば、そうした危険の代償も無く力を得ることはむしろラッキーにも思えた。


「てなわけで、取り返しのつかないことにはなってないけれど、悪いと思っているなら証人になってほしいんだー。溜息中毒の無実の証明のためにね。すでに溜息中毒の悪いイメージが蔓延しちゃっているし、これを払拭するためには、それなりの証明が必要だからねー。世界的に有名な秘密結社、ヨブの報酬のエージェントが証人になってくれるなら、説得力もあるだろーし」


 純子が再び幸子の方を見て言う。


「わかったわ。それなら喜んで」


 力無く微笑み、承諾する幸子。


「結局俺、皆の足を引っ張っただけで終わっちゃった……」

 自嘲気味に瞬一。


「そんなことはない! ナイス囮!」

「うんうん、囮も重要な役目なんだよお?」


 美香と純子がフォローしてくれているようだったが、瞬一には皮肉にしか聞こえなかった。


「あなたはそういう立場にありながら、自分の汚名を注ぐために勇敢に立ち向かったと思う。あなたをこんな目に合わせた私が言っても嬉しくないだろうけれど」

「いや、別に恨んでないから……」


 幸子の真心こもった慰めが一番嬉しい瞬一であった。

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