第四章 9

 日曜日だけ、沙耶の待遇は激変する。


「沙耶、朝御飯よ」


 にこにこと微笑み、母が食べきれないほどの御馳走を部屋に運び込む。いつもは食事の中に入っている、数々のおぞましいものや口の中を傷つける危険物が、その日だけは絶対に混じらない。


 沙耶も安堵しきっている。日曜日はあらゆる苦痛を免除される。

 母の御馳走を嬉しそうに頬張る沙耶。母もそんな沙耶を笑顔で眺めている。自分の作った料理を美味しそうに食べる我が子を見て喜ぶ、普通の母親のそれになっている。


「今日は何を観る? 映画? アニメ? それとも何か読みたい本がある?」


 沙耶と食事を共にしながら、普段はネチネチとした声しか発しない母が、とても優しく澄んだ声音で問いかける。

 テレビを観られるのは一日に二時間だけと決められているが、日曜だけは無制限である。沙耶にとっての人生の娯楽といったら、それくらいしかない。

 本を読む事もあったが、あまり好きではない。日曜は大抵母親と一緒にテレビを観て過ごして終わる。


 この世界の決まりによって母親に虐げられ続ける沙耶だが、日曜日だけは一日中愛されるのもまた、この世界の決まりであった。

 その日だけはご馳走を用意され、たっぷりと優しくされるのだ。部屋の外に出ること以外ならば、大抵の望みがかなえられる。もっとも沙耶は、日曜であろうと母に向かって大した望みを告げた事など無いが。


「はい、今日のプレゼント」


 リボンつきの袋を渡される。中味はきっと服だろうと沙耶は判断した。どうせすぐに平日には母親に汚され、週末を待たずして血まみれになって使い物にならないと判断されて、捨てられる運命にあるプレゼント。けれども沙耶は笑顔で受け取り、礼を述べた。


 週に一度だけのこよなく愛される日の意味するところが、自分が絶望して心を完全に殺さないためであるという事を、沙耶は理解している。理解しつつも、日曜日がくるのを心待ちにしている。

 ずっと日曜が続けばいいのにといつも思い、口に出した事もある。


「そうねえ。ずっと優しくだけできればいいね」


 その際に母は、沙耶を撫でながら優しい声音で言った。


「でも……だめなのよ。沙耶に優しくできるのは日曜だけなの。そう決まっているの。私にもどうにも出来ないの」


 一体何が決まっているというのだろう? 沙耶には理解できない。

 母に問いただしても教えてくれなかった。ただ、瞳には確かに哀しそうな光が宿っていたのが見てとれた。


 日曜日の意味を理解する一方で、沙耶はもう一つの事実に気付いていた。いくら日曜という休息を用意して沙耶の心が壊れないよう繋ぎとめようとしても、自分の心はゆっくりと崩れつつある。

 段々と感じなくなってきている。鈍くなってきている。苦痛にも、快楽にも。世界に対する憎悪すら薄れている。

 沙耶は予感していた。やがて自分は何も感じなくなってしまうのだろう。体よりも先に心が死んでしまうだろうと。


「ああ、九時からあのアニメがあったわね。すっかり忘れていたわ」

 母がテレビをつける。


 そんな沙耶を今一番夢中にさせているのが、日曜の午前九時から放映されているアニメ番組だった。

 せめてこのアニメを最終回まで観るまでは、心が壊れませんようにと、沙耶は祈っていた。祈りなどという行為自体、生まれて初めてであった。それくらい沙耶はそのアニメに熱中していた。

 アニメの内容自体は陳腐な代物だ。ありきたりなバトルもので、可愛い系の男の子が主人公で、主人公は適度に義に厚くて特別な力を持っていて、無尽蔵に女性キャラが次から次に出てきて、何故か主人公はモテモテで、理由はわからないけれど、自分の持っている力のせいで悪い連中と戦うストーリー。

 話は大して面白いとは思わなかったが、沙耶は睦月という名の主人公の男の子がとても好きになって、そのアニメにハマっていた。


***


 夜。裏通りの活動が激しくなる時間帯、真は安楽市絶好町の繁華街を一人歩いていた。

 暇だったので、安楽市とその周辺における裏通りの住人達の憩いの場であるバー、『タスマニアデビル』へと向かうところであった。


 人通りの中で、自分に向けて放たれたあからさまな殺気を感じ取り、真は歩を止めた。すぐ側からだ。

 こんな場所でドンパチする気かと呆れる。裏通りの抗争で、稀に表通りを巻き込んでしまうことはあるが、基本的にはタブーである。おおっぴらに表通りの住人を巻き込むような形で殺し合いをしようものなら、中枢も警察も黙ってはいない。


 殺気の主はすぐ背後にいるようだった。相手との距離といい、ポジションといい、人通りの中といい、すぐに襲ってくる気なら不利な条件が整いすぎている。加えて言えば、かなりの使い手だという事もわかる。


 わずかな間の逡巡。振り返って人通りの中という場所も考慮せず先制攻撃でぶっ放そうかとも考えたが、妙な事に気がついた。

 相手が相当な使い手だというのなら、わざわざこのような殺気を放って自分の所在を教えるであろうか? しかもこのような場所で、だ。

 人ごみに紛れて暗殺するつもりなら、有り得ない真似だ。それとも通行人を盾にするつもりなのだろうか。相手の意図がいまひとつ読めない。


 殺気の主が早足になって距離を詰めてくる。真は歩を止める。両手を胸の前で交差させて、制服の裏にある銃に手を伸ばす。


「人気の無い場所へ……」


 不意に殺気が霧散した。それと全く同時に、殺気の主が明らかに真に向かって告げていた。他の通行人も声に反応して振り返ったりしたが、自分には無関係だと思ってそのまま通り過ぎていた。


 真もその時点で、声の主の姿を確認した。白いソフト帽に白いスリーピーススーツ、白いロングマフラーを垂らして、白いオーバーコートという、映画に出てくるギャングのような格好の全身白ずくめの男。

 それでいて背が真よりも低くて、おまけに短足なので滑稽にしか見えないが、いでたちよりもその足運びを一目見ただけで、改めて相当な使い手である事を実感した。


(掃き溜めバカンスの大谷英雄か。いきなり大物が来たな)


 その名は真も知っていた。有名な殺し屋だ。掃き溜めバカンスの殺し屋達の中でも、睦月と並び、双璧と言われる実力者である。


(つまり掃き溜めバカンスは睦月を守る構えなのか?)


 高揚感を覚えつつ、真は英雄と共に『安楽大将の森』という奇妙な名の公園へと入る。絶好町繁華街の外れにある大きな公園で、木々が生い茂り、遊歩道などがある市民の憩いの場所だ。が、夜には裏通りの住人の抗争にも利用される。

 英雄が先導して真がそれに付き従うかのように歩き、二人は真っ暗な林の中へと入っていく。

 遮蔽物は利用できるが、暗すぎるのが難点だ。黒で包まれた空間。街灯の白い光源が頼りだが、それでも相手の姿が非常に見づらい。しかしその条件はお互い様である。


「あの場なら僕を殺せたかもしれないのに、わざわざ正々堂々勝負しようだなんて」


 ずっと無言で歩いていたが、英雄が足を止めたのを見計らって、真の方から声をかけた。


「そういうわけじゃない。万が一にも堅気を巻き込みたくなくてね」


 英雄が答える。真は無表情のまま、脳裏に眉をひそめる自分を思い浮かべる。


「言っている事が矛盾してないか? 睦月は表通りの者を無差別に何十人も殺しているから、中枢からの命で僕が殺す運びになったんだぞ」

「あいつの病気だな……。自分と同じくらいの年齢の女を見ると、抑えきれない殺意が沸くらしい」


 かつての己の境遇から来る憎悪が、その殺人衝動の根源なのであろうという事は容易に想像がつく。


「ああ、それと一応断っておきたいことがある」


 未だ銃を抜く気配を見せず、英雄が言う。


「これはあくまで俺の独断による暴走だよ。もしお前が俺に勝ったとしても、それは留意しておいてくれ」

「わかった。けれども睦月の前にあんたを殺したとなれば、掃き溜めバカンスそのものが黙っていないんじゃないか?」


 真からすれば、英雄が単独で自分を殺しにきた時点で、その予感があった。真と睦月との殺し合いだけではなく、掃き溜めバカンスという、裏通りでもトップメジャーな殺人専門組織を丸ごと一つ、敵に回す形になるであろうと。


 英雄がコンセントを服用する。それから互いに向かい合ったまま、無言になる。

 双方、動こうとしない。だがすでに始まっている。二人の頭の中で、めまぐるしい速さで相手の行動の予測を立て、それに合わせた自分の行動予測も立てている。

 百戦錬磨――互いが互いをそう認識し、心地好い緊張感に包まれていた。目の前の相手が相当に修羅場をくぐってきて現在に至り、こうして立っているという事も、理解できた。

 互いがそれまでに築きあげてきた殺しの技と業、その全てを今からぶつけあうことになる。これほどわくわくする瞬間は無い。


 先に動いたのは英雄だった。コンマ何秒か遅れて真も動く。

 英雄は左に二度ステップしてから二発撃ってきた。

 真は右に一歩軽く移動した所で身をかがめて、二発撃つ。互いに狙いは大きく外れる。

 英雄は後方に大きく跳び、真のように体勢を低くして一発撃つ。真は銃撃で応戦はせず、左に三回ほど小刻みにステップを踏んだだけに留める。


 と、そこで真の前方が大きく光った。それまで消えていた街灯の逆光だ。


(そういうことか)


 そこで真は自分の置かれた状況に気付いた。これが偶然であるはずがない。明らかに仕組まれている。英雄は最初から、逆光を浴びる不利なポジションへと真を誘導したのだ。


 裏通りにおける銃撃戦は、常に動きつつ、フェイントの掛け合いと相手の行動を予測しての撃ち合いが基本だが、この逆光は相手の動きを正確に見づらくするのに効果的だ。

 真にとっては視界が悪く、英雄には有利に働く。ただでさえ腕の立つ相手だというのに、地の利も相手側に取られて、死の恐怖が真の全身を怖気となって駆け巡る。


(たまらないな……この感覚)


 首筋から背中に走る死の恐怖より生ずる冷たい何か。全身総毛立ち、震えそうになるのを懸命に堪えつつも、己の中から来たる恐怖に対して、真は歓喜を覚えていた。

 久し振りに己に強い恐怖を与える程の者と殺し合いができる事が、嬉しくてたまらない。滅多に表情を出すことができなくなった真の顔に、笑みがこぼれる。

 恐怖があるからこそ楽しい。互いに命を懸けた死闘に勝る快感は無い。殺らねば殺られる。互いに力の限りを尽くし――命の全てをぶつけて、相手の命を仕留めにかかる殺りとり。これがあるために、真はこの世界から離れられない。


 スピードはほぼ互角。体型もお互い小柄なために的としても小さい。世間一般では男でチビは悪い事のように言われたり、コンプレックスになったりと、あまりよい印象ではないが、この世界で、こと銃撃戦においては、背が低く小柄である方が有利だ。


(長引くと僕にとって不利でしかないな。次の一発で決めるくらいのつもりで臨もう)


 木陰に身を潜め、地面に胸がつくほどかがんだ格好で、逆光に照らされた英雄を見据える真。


 相手の動きを先読みして撃つのは裏通りの銃撃戦の基本だ。激しく動き回りながら、敵に向かって狙い通りの正確な射撃など無理がある。どんなに優れた使い手でも、狙いが狂う。相手も激しく動いているとなれば尚更だ。

 しかし真には可能だった。並外れた動体視力、日々の鍛錬で身につけた技術によって、どんなに激しい動きをしていても、銃を持つ手だけは全くブレさせずに、正確に固定させる事が真にはできる。撃つ瞬間にも銃は全くブレない。その瞬間だけ、まるで時間を凍結させたかの如く、完全に固定できる。


 相手の動きを先読みし、相手の急所が横切る空間までのタイミングをも読んでおく。


(逆光の右、体一つ分――)


 英雄は街灯の光が真にとって不利な要素であると計算している。それを自分の体で隠すような動きをするとは考えにくい。

 真はそれを計算の範囲内に入れて、英雄の動きを予測し、駆け回りながら、タイミングと照準を頭の中で正確に合わせた。


 果たして英雄が真の予測通り動き、予め頭の中で照準を合わせていた空間を横切ろうとした瞬間、真の撃った一発の銃弾が、英雄の服の防弾繊維を、肉を、内蔵を貫いていた。


 崩れ落ちたはずみに、英雄は銃を落としていた。

 致命傷なのは明らかである。一瞬意識が暗転したが、気がつくと仰向けになって夜空を眺めていた。


「綺麗な夜だな」


 思わずぽつりと場違いな事を呟いてしまう。自身でも意外に思うセリフが、英雄の口から自然に出てしまっていた。


 真が歩み寄ってくるのを足音で察する。


「ああ、とどめはいらない……。命がある限りは、命を味わっていたい。この苦しみと痛みも含めて……な」


 逃れられぬ死を実感しつつ、かつてないほどの死への恐怖と生への執着心が、英雄を支配していた。

 だが後悔はしていない。心は満ち足りている。


「死ぬまでまだ時間はあるだろうし、その時まで、お喋りの相手にでもなってくれないか?」

「本気で恐ろしかったよ。あんたは強かった。久しぶりに楽しめた」


 英雄の言葉に対して、真は間髪置かずに称賛の意を込めて語る。


「それでも負けたんじゃ話にならんさ」

 苦笑してから吐血する英雄。


「まあ……戦いの末に死ねたし……満足だ」

「そんな死に方で満足なのか?」


 侮蔑するわけではなく、いつもの淡々とした喋りでもなく、感情の込められた柔らかい口調で問う。同じ殺し屋としての、真なりの敬意の念があった。


「そういうニヒル気取りな奴は、あまり長生きしない」

「確かに……そうだな。その通りに……なっちまったし」


 真の言葉に、二度目の苦笑をこぼす英雄。


「僕は御免だ。絶対に誰にも負けず、殺される事無く、最期は畳の上で大往生を飾るようにするよ」


 冗談とは思えない口調に、英雄は真の黒目がちの目を覗き込む。黒い瞳には、強靭な意志の光が宿っている。この世界で、しかも殺しなどを生業にしている者の言う言葉であろうか? いや、それが本気であるからこそのこの結果かもしれないと、英雄は納得した。


「睦月は……どうにかならないのかな……。あいつを俺が……助けてやることができなかったのが……残念だ」


 意識が薄れていくのを感じながら、それでも最期の最期まで、自分を殺した相手と会話をしていたいと思い、英雄は喋り続ける。


「あいつの……発作みたいなものは、俺も何とかしたかった。でも俺では……無理だった。あいつを……どんな形でもいいから……救ってやりたかった」


 すでに声が掠れている。無理して何かを伝えようとしているのが真にもわかった。


「あいつに会ったら……伝えて……くれ……俺が……」


 言葉途中に、英雄に残っていた生気が完全に失われた。


「伝えたい事があったなら、もっと根性出して、最後まで言ってから死ねよ」


 白いスーツを真っ赤に染めた英雄の亡骸に、真は無表情のまま告げると、かがみこんで、見開いたままの英雄の目を閉ざした。

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