第四章 5

 ここで初めて則夫は、恐怖に抗い、彼等に再び挑むという思考に至った。

 愛だけは何としてでも守らなくてはならない。行き場の無い彼女は、裏通りの組織で働いてこそいるが、実際には表通りの住人と何ら変わらない。こんな汚い世界の抗争の巻き添えにされて死なせるわけにはいかないと、則夫の魂が絶叫して恐怖をかき消した。


「んんん? どう見てもこのねーちゃん、カタギだぞ。こんなとこで何してんだ? おい、立てるか? 怪我とかねーか? こいつらにひでーこととかされてねーか?」


 だが、田沢が訝りながらも愛を案じており、彼女に暴行を働いたりする気配は微塵も感じさせない様子なのを見て、則夫は胸を撫で下ろす。

 愛はへたりこみ、泣き顔で震えながら英雄と田沢を見上げている。


「まずいな……この娘が睦月に見つかったら……」

 愛を見下ろし、渋面になる英雄。


「あ、そりゃ確かにやべーな」

 田沢も苦笑いを浮かべる。


「やばいさ。おい、あんた。早くここから逃げるんだ。いや……必ず表口から逃げろよ。さもないと殺されるぞ」


 愛を無理矢理起こして立たせながら、英雄は厳しい口調で忠告する。


 愛からしたら何が何だかわからなかったが、とりあえずこの二人は自分を傷つけるつもりがなく、それどころか案じてくれている様子なのは理解した。一方で、何か危険があるという事も。

 泣きながら愛は事務室を駆け足で出て行く。自分を養ってくれた組織の面々が殺されるのを目の当たりにしつつも、それに背を向けて逃げる事しかできない自分に、後ろめたさにも似た感情を覚えていた。


 愛が出て行くのを見て、則夫はもう一度ホッとする。


「おい彰人。そっちに女の子が一人行く。表通りのだ。睦月に見つからないように逃がしてやってくれ」


 英雄が携帯電話を取り出して彰人に指示を送ったその直後、女の悲鳴があがった。聞き間違いようのない愛の声だったために、則夫は再び心臓が凍りつく。


「おいおい、まさか……睦月は裏で見張っているはずじゃ……」

「あはっ。暇すぎて来ちゃったけれど、やっぱりもう終わっていたみたいだねぇ」


 田沢の言葉途中に睦月が現れて、微笑みながら室内の惨状を見渡す。


「二人いれば十分で、俺達は来る必要無かったみたいだねぇ。少数精鋭の手ごわい連中だって聞いてたから、こっちも四人も繰り出したのにさぁ」

「んー、こいつはわりと骨があったぜ」


 と、田沢が石井の頭をつま先でつつく。


「睦月、殺したのか?」

 睦月を睨みつけ、低い声で問う英雄。


「あー、今そこにいた女の子? うん、捧げておいたよぉ? 魚みたいに三枚におろっ……」


 睦月が喋り終える前に、英雄は睦月の学ランの襟首を両手で荒々しく掴むと、そのまま乱暴に壁にまで押し付ける。


「中枢からも狙われてるってのに! お前はまだ!」


 顔がくっつきそうなほどの距離から怒りの視線をぶつける英雄だったが、睦月は微笑んだままで、動じた気配も悪びれる様子も無い。


「頭ではわかっているんだよぉ……。でも、止められないんだ」


 笑顔のまま、しかし目だけは笑っていないのが英雄にも見てとれた。哀しく、弱々しく、寂しい光が宿っていた。それを見て、秀雄の怒りも急激に醒めていった。


「沙耶のためにこの世の全ての悪を浄化する。沙耶のために苦しませて絶望させてから殺して捧げる。そのために俺は生きているんだもん」

「ああ、そうかよ。好きにやってろ!」


 決まり悪そうに吐き捨てると、英雄は睦月を離し、部屋の外へと出て行く。田沢もそれに続く。


「おい、どうしたんだ?」

「ん……ちょっとしたら行くよぉ。先に行ってて」


 振り返って尋ねる田沢に、睦月は複雑な表情で答え、そのままうつむいた。田沢はそれを見て、何も言わずに歩きだした。

 しばらくその場に一人、うつむいたまま佇む睦月。それを倒れたまま見つめる則夫。


「沙耶……俺、あとどれくらい殺せばいいんだい? いつになったら目を覚ますのぉ? この世の全ての女を捧げないと駄目だっていうの? もう俺さぁ……あはぁ……」


 顔を上げ、虚空に向かって問いかける。則夫の耳にも睦月の言葉は届いていた。彼が殺人を嘆いている事が、則夫の頭でも理解できた。


 睦月の姿も消えて大分経ってから、則夫はようやく恐怖から解き放たれようとしていた。

 臆病で無力な己に対する怒りが恐怖を上回り、体を動かした。今から追えば間に合うだろう。うまくいけば不意打ちを喰らわせてやれるかもしれない。


(仇、取る……皆の仇。それに何より、何も悪くない愛ちゃん殺した事、許せない)

 決意と共に起き上がり、鈍足で駆け出す。


「ああああ愛いいああ愛ちゃんをっ、愛ちゃんを殺したあいつだけはあいつだけは許さない! 許さない! ゆゆゆゆ許さなあい!」


 涙と鼻水でぐちゃぐちゃにした泣き顔で、どもりながら大声でわめき、本人としては全速力で必死に睦月の後を追う。


(いた……!)


 丁度工場を出た所で、則夫は睦月の姿を視界にとらえた。いるのは睦月だけだ。英雄と田沢の姿は見当たらない。ズボンのポケットに手を突っ込み、遅い足取りでトボトボと歩いていた。


「うおおおおおっ!」


 咆哮をあげ、則夫は睦月に襲い掛かる。それが奇襲の意味を損なう愚行であるという事も、則夫の頭では考えがまわらなかった。


「んー?」


 殺気と声に振り返る睦月。知らない顔であったが、肉殻貝塚のアジトから出てきた事と、自分を殺さんと向かってきている事から、肉殻貝塚の残党であろうと察した。


 その巨体で睦月の細い体に体当たりをぶちかまし、そのまま押し倒して素手で絞め殺そうとした則夫であったが、睦月は余裕をもってその突撃を避けると、避け様に則夫に向かって右手を払った。


「あぐあぁぁ!」


 背中に熱い感触を覚える則夫。次いで両足のふくらはぎにも同じ感触を覚えたかと思うと、則夫は前のめりに転倒した。

 転倒した後、背中とふくらはぎの裏から血が噴き出ている事がわかった。


 睦月の右手の袖からは、緩やかなカーブを描いた刃が伸びていた。刃の切っ先からは則夫の血が滴り落ちている。


「妙な感触? 切断できないのも意外だったけれど、硬かったって事かねぇ?」


 何者かに話しかけるかのような口調で睦月。いや、実際睦月は右手の袖から伸びている刃に向かって語りかけていた。

 刃は睦月とは異なる――独立した意志でもって動き、袖の中からゆっくりと伸び、外へと出ようとしていた。

 右手の袖だけではない。学ランの左手の袖からも、裾からも、無数の刃が外へ外へと伸びていった。やがて全ての刃が服の中から出て地面に落ちると、刃同士で組み重なり、一つの固体となった。


(蜘蛛?)


 則夫はそれを見て目を剥いた。刃で体を構成された体高数十センチもあろうかという蜘蛛が、睦月の足元に、則夫の前に現れたのだ。

 刃の蜘蛛は、まさに蜘蛛そのものの動きで則夫へと近づく。自分にとどめを刺そうとしている。怒りと殺意に燃えていた則夫の魂が、再び凍りつくような死の恐怖へと塗り替えられる。


 直後、聞いた事が無いタイプの銃声が響く。


 則夫が顔をあげると、睦月の頭部が消え失せていた。首から上が粉微塵になっている。


 それだけでも驚くべき光景であったが、その後に起こった出来事は、さらに信じられない光景であった。

 赤い霧のようなものが、首無しとなった睦月の頭部あたりに生じたかと思うと、血が、骨が、肉が、脳が、皮膚が瞬時に再構築されて、睦月の頭部は元通りになっていた。


「君は!」


 睦月が驚愕して叫び声をあげる。睦月の見ている方向に、則夫も倒れたまま顔を向ける。


 そこにはショットガンとサブマシンガンを携えた、制服姿の少年がいた。

 その少年は則夫も知っていた。裏通りでは知らぬ者はいない有名な人物だ。雪岡純子の殺人人形という呼び名を持つ、マッドサイエンティスト雪岡純子専属の殺し屋――相沢真。

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