第四章 4

 夏の暑い日。

 沙耶は手足を縛られ身動きできない状態で仰向けに寝かされて、口に巨大な漏斗が押し込まれていた。


「貴女が暑いっていうから、苦労していっぱい買ってきたのよ。その私の厚意を無為にするつもり!?」


 左手で漏斗を支え、右手でテーブルの上に置かれた大きな鍋の中からおたまで何かをかきだし、それを漏斗の中に次から次に入れながら、目を剥いてヒステリックに喚く母。

 鍋の中味――漏斗に詰め込まれて強引に沙耶の口の中に注ぎ込まれているのは、アイスクリームだった。呼吸もろくにできない勢いで、無理矢理アイスを口中に注ぎ流し続ける、母の深き愛に、沙耶は苦痛と絶望と諦めで満たされる。

 時折アイスの中に、よく知った感触と味が混じっている。何日かおきに食事に混ぜられる、あの昆虫の味。残したり吐き出したりするとさらなる仕打ちが待っている、あの昆虫。しかしとっくの昔に慣れてしまっていて、何とも思わない。


 生まれたときからずっとこうだった。自分にとってはこれが普通。

 だが母の話では――外の世界を唯一知る術であるテレビを見た限りでも、それは外の世界の普通とはかけ離れているらしい。

 自分だけが悪い意味で特別。自分だけが母から普通とは違う特別な愛を授かり、一生をこの部屋で終わる。その理由が、沙耶にはわからない。いや、理解できない。


 母の話を信じていたのは幼い頃に限られる。今では信じていない。

 沙耶がこの部屋にいる事で、普通の幸せとやらを得られずに過ごすだけで世界は平和になる、沙耶以外の人間は幸せになれると、母は何度も言い聞かせてきたが、そんなはずは無いと、ある時を境に否定できるようになった。

 恐らくはテレビを通じて、母以外の人間というものを知った影響であろう。


 自分の生は何なのだろうと、何度も自問してきた。何万回も、何十万回も自問してきた。一日の間に何度も何度も答えの無い問いかけを、返事の無い何者かに向かって問うてきた。母に問う事はできないから、心の中で、存在しない何かに向かって尋ね続けていた。

 この行為こそが彼を呼び覚ます要因になったのではないかと、沙耶は――いや、後から彼自身が推察していた。


 ある時を境に、沙耶の呼び声に、返答が返ってくるようになった。


(君の命に意味はあるさ)

 優しく笑いかけながら、彼は沙耶に告げた。

 沙耶は驚いた。自分の中に現れたその人物は、自分であるようで自分ではない。しかし明らかに沙耶の味方であるという事がすぐにわかった。


(母さんの言うような、世界の犠牲のためなんかじゃあない。君の命の意味は……)


 彼の告げた言葉は、沙耶の心に潤いを与え、沙耶の心が死ぬまでの時間を引き延ばしてくれた。


***


 肉殻貝塚の事務所に銃声が響いたのは、放たれ小象が掃き溜めバカンスを雇ったという情報を掴んだ、わずか二時間半後の出来事だった。

 掃き溜めバカンスの殺し屋、大谷英雄、高田彰人、睦月の三名が、事務所の前に立つ。


「ここが今日の遊び場かい」


 鞘に収めたままの刀を肩で叩いて弄びながら、ゆっくりとした足取りで三人より遅れて到着した田沢が、子供のようなやんちゃな笑みを広げてみせる。


「遊び場になるかねえ。あっさり死んだし」


 銃を手にした彰人がつまらなそうに吐き捨て、たった今射殺した門番役と思しき男の死体を見下ろし、左目だけを激しく瞬きしながら、死体に向かって唾を吐く。


「油断は禁物だ。一応これまでは抗争で、一人も死者を出していないらしい。今のこいつが、記念すべき初の死者って事になるが」


 英雄が淡々とした口調で言うと、銃を構えて周囲の気配を探る。肉殻貝塚のアジトは、廃棄された工場を買い取った代物である。裏通りの組織の拠点としてはポピュラーだ。


「二手に分かれるとしようや。俺と英雄で突っ込むわ。睦月は裏口、彰人は正面を見張っとけ」

「ああ」

「見張り役かよ。つまんないのぉ」


 田沢の指示に、左目をいつも以上にせわしなく瞬きしている彰人が頷き、睦月は不服そうに顔をしかめる。


「いつも美味しい役だけ取ろうなんて贅沢だろ。それでなくてもてめーは、毎回毎回派手に暴れてんだろーが」

 と、彰人。


「ま、そうだけれどねぇ」

 微笑みながら睦月。


「たまには地味な裏方に徹しろっての。俺だって弾けたくてウズウズしてんだからよ」

「はいはい。じゃあ今回主人公のお二人は頑張ってねぇ」


 彰人に向かって手をひらひらと振って、睦月は軽い足取りで工場の裏手へと回る。


「なるべく敵をとりこぼして、正面口の方に逃がしてくれるように頼むぜ」


 へらへらと笑いながら冗談を口にする彰人に、田沢は微笑み、英雄は無表情のまま背を向け、工場の中へと入っていく。

 銃声を聞きつけた肉殻貝塚の面々が、建物内から入り口へと殺到する。


「こいつっ、掃き溜めバカンスの大谷だ!」


 先頭にいた肉殻貝塚の構成員が、英雄の姿を見て叫ぶ。その声音には少なからぬ恐怖が混じっている。

 叫び声の直後、銃声が幾つも鳴り響いた。遮蔽物の無い狭い通路で、瞬時に始まった銃撃戦。肉殻貝塚側の数は四人。その内の一人はナンバー2の石田竜男であった。


「もう来やがったのかよ。外にいる連中を呼び戻していねえってのに」


 毒づきながらも、石田は覚悟を決めている。

 未だ依頼を仕損じた事は一度も無い殺し専門組織に、初の黒星をつけてやろうぜと、ついさっき事務所内にいた構成員全員に鼓舞してきたばかりだ。自分達の力の全てをぶつけて、何が何でも生き延びてやると、ありったけの気合いを込めて銃を撃つ。


 全員一斉に銃撃を行ったはずであったが――


「え?」


 隣にいた二人がいきなり崩れ落ちたのを見て、中央にいた石田は呆気に取られた。

 彼は二発立て続けに、白スーツの背の低い男を狙って撃ったつもりだった。腕には自信があった。隣の二人もそうだろう。

 だが白スーツの男は、遮蔽物も無い空間で、四つの銃から吐き出された銃弾を全てかわし、逆に二人を瞬時に撃ち殺していた。石田はまるで反応できなかった。


「じゃあ、遊ばせてもらいますよっと」


 楽しそうにそんなことを口走りながら、田沢は俊足でもって、銃を持った二人の男との間合いを一気に詰める。


「え?」


 石田は再び呆気に取られ、間の抜けた声を漏らした。気がついたら着流し姿の男が眼前に迫り、白刃を一閃していた。刀が横薙ぎにされ、石田が声を漏らした直後、彼の首は切断されて床に転がっていた。


 最後に残った一人は、瞬く間に仲間三人が殺された事に恐怖のあまり硬直する。英雄も田沢も、彼が恐怖にすくんだその瞬間を見逃さなかった。

 田沢が最後の男に突っ込んだのを見て、英雄は自分が手を出す必要は無いと判断し、銃を撃つのを留まる。刀で喉を貫かれて最後の男も果てた。


「おめーの名前だけ呼ばれて俺の方は無視かよ。ま、流石は掃き溜めバカンスの金字塔ってとこかね」


 英雄の方を向いて、肩をすくめて冗談めかす田沢。


「何だ、あんたの名を呼んで驚いてもらいたかったのか」

「はははっ、お前さんも言うようになったもんだ」


 英雄が珍しく冗談を口にしたことに、田沢はおかしそうに笑う。


「これで五人か。お、こいつは名指しで殺すように指示のあった、ナンバー2の石田だな」


 床に落ちた石田の生首を田沢は足で蹴り転がすと、顔を上に向けて額を踏みつけて見下ろす。


「石田竜男と石井陣、それにボスの石川一郎は必ず殺して欲しいとのことだ。構成員十五人、皆殺しにはしなくていいらしい」

 依頼内容を解説する英雄。


「つーか石石石って、苗字がどれも似てる奴ばかりでわけわかんねーな。しかし……こういう少数精鋭の結束力堅い集団相手の場合は、憂いを断つためには皆殺しにすべきだろうによぉ、どういうこっちゃ?」

「その三人さえ殺せば、あとは自分達で始末できると判断しているのかもしれないな。あるいは吸収するつもりか」

「依頼主の放たれ小象って、ヤクザから転身した組織だろ? そのわりにゃあヌルいな」


 笑い飛ばすなり、わらじの下にある生首を蹴り飛ばす田沢。石田の生首は大きく跳ね上がって廊下の天井に激突し、再び床にと落ちた。


「相変わらず品の無い事をする」

「固いこと言いなさんな。何も考えねー感じねー仏さんをどう扱われた所で、そいつの魂が文句を言うこたぁ、できねーんだよ」


 眉をひそめる英雄に、肩をすくめてみせる田沢。長いことアメリカに行っていた影響なのか、田沢が昔より、オーバーアクションになったような気がする英雄であった。


 二人は奥へと進み、事務室らしき扉の前に立つ。中からは明らかに人の気配がする。

 田沢と英雄の襲撃にも当然気付いているであろう。扉を開ければ、銃弾が雨あられと出向かえてくる事も、予想済みである。


「はいはい、ノック無しで失礼しますよーっと」


 大声でわざわざ告げると、田沢は扉を蹴り開ける。

 その直後、立て続けに銃声があがり、銃弾が無数に降り注がれた。もちろん田沢も英雄もそうなることを予想している。

 銃弾の雨が入り口を通過した頃には、田沢は室内の中央にまで踊り込んでいた。


 身を低くして、刀を持った右腕を大きく横に伸ばした格好で、驚くべき脚力で室内を駆け抜けると、最も手近にいた者へと、刀を下から斜め上へと跳ね上げる。

 顔面から頭部にかけて斜めに赤い切れ目をいれられて、銃を両手で構えた格好のまま、その男は横向きに崩れ落ちた。


 室内にいた者の注意が全て田沢に向けられたその一瞬を見逃さず、今度は英雄が室内に足を踏み入れ、発砲して室内にいる二名を射殺する。二人とも胸の中央を撃ちぬかれていた。


「×3。○4」


 室内を見渡し、英雄が小声でつぶやいた。中央にソファーとテーブルがあり、テーブルの上に田沢が片足を乗せて、笑いながら刀に舌を這わせている。

 幾つか有るデスクの陰に三人ほど隠れ、一人はその姿を堂々とさらしていた。紫のスーツに身を包んだ全身紫の男、石井陣だ。刀身と柄まで紫のナイフを両手にそれぞれ握り、油断なく構えている。


「飛び道具が嫌いな者同士で遊ばねえか? まあ、そのちんまいのは、投げて使う事もできそうだがよ」

「ヤッパ好き同士って言った方がいいだろ?」


 朗らかな笑顔での田沢の呼びかけに、石井も凶暴な笑みを拡げて答える。


「俺はモグラ叩きか」


 机の陰に隠れている三名を見据える英雄。その内の二人がうまくタイミングを微妙にずらしながら、銃撃してくる。

 片方が机から出た瞬間を狙おうにも、もう片方がほんのわずかに遅れて撃ってくるため、回避に神経を取られてうまく当てられない。二人ともそれなりに腕がたつ。


 だがそれも長くは続かなかった。すぐにバターンを把握して、英雄の方でそれにうまくタイミングをあわせて、二人にほぼ同時にヒットさせる。一人は手を撃ち抜かれ、もう一人は顔の中央に穴を開けた。


(殺した方はボスの石川じゃないか。隠れているもう一人は何やってんだ)


「ぼぼぼぼぼすぅぅぅーっ」


 疑問に思った直後、大声と共に隠れていた一人が飛び出して、徒手空拳で英雄に飛びかかろうとした。則夫だった。

 大男であるが、動きも遅く、何の得物も持たないことに逆に意表をつかれて、英雄の反応は若干遅れたものの、引き金を引き、則夫の額に銃弾をヒットさせる。

 血を撒き散らしながら、則夫の巨体が後ろに大きくのけぞり、倒れる。


「ボス……則夫……殺られたのか?」


 ナイフを眼前で横向きに構え、田沢に視線を据えたまま呻く石井。確認したくても目を離す事ができない。


 則夫は――額の真ん中を撃たれていたが、死んではいなかった。意識もはっきりとあった。

 彼は全身の皮膚の下に防弾繊維を埋め込んでいた。よって銃弾を急所に受けても必ず即死に至ることもないが、銃弾に対して無敵というわけでもない。服に仕込む程度の防弾繊維では、当たり所や銃弾の威力によっては貫通する。

 則夫は倒れたまま、恐怖に身がすくんで動けなかった。石川が殺された時は勢いでもって飛び出たものの、成す術なくやられてしまった。

 相手は自分が死んだと思っている。立ち向かってもかなわない。それらの現実を直視した結果、仲間を殺され続けた事への怒りよりも、恐怖の方が上回っていた。


「飛び道具が嫌いなのは、俺も一緒なんだが……な!」


 石井が叫び、左手のナイフを田沢の顔めがけて投げる。投げた直後、石井自身も田沢に向かって一気に距離を詰めた。

 田沢は中段に構えていた刀を微かに動かして、飛来するナイフを弾いた。

 ほんのコンマ数秒だけ生じたその一瞬の隙を狙いすまし、身を低くして突進した石井は、腕を伸ばせば田沢の首筋に己のナイフが届くであろう攻撃範囲まで、踏み込んでいた。


 が、攻撃範囲に踏み込んだその瞬間、田沢の右膝が石井の顎を蹴り上げる。

 飛び膝蹴りなどという、思ってもみなかった攻撃をカウンターでくらって、石井は鼻血を噴出させつつ、もんどりうって倒れる。


 体勢を素早く立て直そうとしたが、今度は田沢の方から一気に間合いを詰められ、立ち上がる前に、白刃が石井の喉を貫いていた。


「嫌いな手なんか使うからだよ。それできっとお前さんは運気を逃したな。最後までポリシーは貫くべきだぜ、おい」


 にたにたと笑いながら、田沢は苦悶の表情で口と喉から大量の血の泡を吹き出す石井に、己の顔を寄せる。


「ん、そこで死んでいるのはボスの石川かよ。俺が殺したのは石井って奴だろ。これでおしまいか?」


 絶命した石井から刀を抜き、無雑作に着ている己の着物で血をぬぐいつつ、室内に倒れた死体を見回して呆気なさそうに言う田沢。


「そこにまだ一人いるが、どうしたものかな」

「うおおおおっ!」


 英雄が言った直後、最後に残った一人が咆哮と共に飛び出し、銃を撃つ。

 英雄はあっさりとかわし、逆に相手の脳天を撃ち抜く。最後の攻撃は隙だらけでほとんど特攻のように感じたが、仲間を皆殺された状態ではああなるのも無理はないと、英雄は思う。


「お、いい酒あんじゃん」


 仕事は終わったと見なして、室内にある冷蔵庫をあさり、ブランデーボトルをくすねる田沢。


「まだいるようだな」


 と、英雄が事務室の奥にある扉を見据え、銃を構える。その先に人がいる気配を感じたのである。


「いや、待て」


 その英雄を田沢が制して、刀を鞘に収めると、全く隙だらけの動きで扉へと向かい、無雑作に開ける。


(愛ちゃん……)


 則夫は声を出しそうになった。

 田沢が開けた扉の向こうにいたのは、ここに住み込みで働く少女、真島愛であった。腰が抜けたかのようにへたりこみ、田沢を見上げて泣きながら震えている。

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