第一章 8

 雪岡研究所から四人が歩くこと数分で、隣のエルドラドのアジトがあるというマンションに到着した。同じ繁華街の中である。雑居ビルにあった始末屋組織も、デパートの地下にある雪岡研究所もそうだが、こんな身近な場所に社会の暗部が存在するなど、どうにも現実味が無い。

 エレベーターで二階に上がり、目的地と思しき扉の前に立ち、純子がベルを押した。


「こんにちはー。さっき電話で連絡した雪岡純子だけどー。ここで借金した雲塚晃君て子の返済の件ねー」


 インターホンに向かって純子が明るい声で告げると、中から扉が開かれた。白スーツに赤いシャツといういかにも筋者な格好をした、年配のがっしりした体格をした禿頭の強面が現れ、無言で顎だけ振り、中に入るように促す。


「ようこそ。私がここの頭をしている嘉納万太です」


 応接間へと通され、強面の男二名を脇に挟んだ男が、無表情で挨拶する。部下の強面達とは異なり、威圧感も威厳もへったくれも無い、マッシュルームカットの壮年の小男だった。


「御高名な雪岡純子さんに御目にかかれるとは光栄です。とはいえ、返済するのにわざわざ出向いていただかなくてもよかったのですが」


 見た目はどう見ても小娘な純子に対して、必要以上にへりくだった態度を取る嘉納。笑顔だが、目は全く笑っていない。こちらに強い警戒心を抱いているのが、十夜にもよくわかる。


「ああ、実はその返済の件だけどねえ。やっぱり気が変わってやめたよー」


 にこにこと笑いながら告げた純子の言葉に、十夜と晃は驚愕の表情を浮かべる。ここまで来て突然気が変わるなど、一体何を言っているのだろうと。そして、どうするつもりなのかと、二人して不安になる。


「私が立て替えてあげるのも本人のためにならないしねー。そこで提案なんだけど、お金じゃなくて、別のもので立て替えるってのはどうかなー?」

「ほう? 何で立て替えてくれるので?」


 不審げな面持ちになる嘉納に、純子はにっこりと微笑むと、嘉納の横にいるマッチョな強面に近寄り、おもむろにその胸部を素手で貫いた。まるで紙にでも突き刺すかのように、純子の手が男の厚い胸に手首まで埋まっている。

 一瞬何が起こったのか、何をしたのか、そこにいた誰もが判断がつかなかった。おそらく殺された当人も。真だけが無表情にその様子を見つめていたし、実際真は、純子のこの行動を見ても、大して驚きはしなかった。


「てなわけでー、晃君の内臓とかの代わりに、この人の心臓でどうかなあ? 五千万の価値は無いと思うけれど、そこはまけてもらうって感じでさ。ね?」


 崩れ落ちる男に目もくれず、激しく血を噴き出し脈打つ心臓を嘉納の方に差し出す純子。十夜達と会った時から変わらぬあの屈託の無い笑顔が、たっぷりと返り血を浴びている。


 血相を変え、臨戦態勢を取ろうとした隣のエルドラドの構成員達に、真が懐から素早く二挺の銃を抜き、両手で別々の構成員の頭に銃口を向ける。

 銃口を向けられた構成員は、懐に手を伸ばそうとした格好でフリーズしている。

 小柄な美少年相手にいかつい大人が硬直しているという、滑稽とも言える構図を目の当たりにし、晃は興奮を覚え、真の凛々しさと愛らしさが同居した整った顔をまじまじと見つめる。


「もし駄目だって言われたら、私、宣戦布告と受け取っちゃうかも? 私としてはその方がありがたいなあ。私ルールでは、敵対した人は自由に実験素材として扱っていいことになっているしねえ」

「わ、わかった。それで帳消しにしましょう……」


 血の気が引いた様子の嘉納がかすれ声で言うと、純子は笑顔のまま心臓を手放す。嘉納の足元に部下の心臓が落とされる。


「はい、交渉成立っと。んー、お互いが損しない形の実に有意義な交渉だったねー。じゃ、帰ろっか、皆」


 常軌を逸した純子の行為を目の当りにし、思考停止していた十夜と晃であったが、純子に促されて、その後を追う形でそそくさと部屋から出た。


(何これ……?)


 十夜の中の、純子のいい人イメージが音を立てて崩れる。突然目の前で、滅茶苦茶な理由で人を殺してみせた。それでいて、会った時から変わらぬ明るい笑顔のままだ。いや、その笑顔には、べったりと返り血がこびりついているという、とんでもない違いもあるが……

 今起こった出来事を思い起こし、十夜は頭の整理がつかず、震えながら歩いていた。


「大した平和的交渉だな」


 事務所を出た所で、真が声を発する。いつもの抑揚に欠けた喋りではなく、あからさまに皮肉をこめた声だった。


「あの、あれ、あれって、一体どういうこと? お金払うんじゃなかったの? 踏み倒したら裏通りは信用第一だから、評判が不味くなるんじゃなかったの? あんなことして平気なの?」


 混乱と興奮が混ざった口調で、晃が矢継ぎ早に質問を浴びせる。

 そんな晃の様子を見て、流石の晃ですらこれにはパニック気味かと、十夜は何故か安心した。


「んー、そのつもりだったけれどねー。途中から気が変わったっていうか、五千万程度払ってもいいんだけれど、やっぱあんな組織にお金やることなんか無いかなーって思っちゃってさあ。私、気まぐれだしー。あれなら晃君が踏み倒したんじゃなく、私が払ったってことになるから、問題無いと思うよお? 向こうだってそれで了承してくれたしねえ。私の信用なんか、最初から最底辺だしさあ」


 喋っている間に、純子の服や肌にかかった返り血が赤い霧状になって、空中に文字通り霧散していき、わずかな染みも無く消え去った。

 それを見てさらに驚きを上乗せされる十夜と晃。先程の素手による臓器摘出もそうだが、純子が明らかに超常の力を備えているという事がわかるワンシーンであった。


「本当にあれで帳消しになったの?」

 十夜が震える声で問う。


 あんな真似をして今の組織――隣のエルドラドが黙っているとも思えない。

 だが自分が彼の組織の立場だったらどうするだろうとも考える。こんな異常な性格と異常な力を持つ人物に、リスクを犯して復讐しようとするだろうか?


「力関係を考えれば、向こうが勝手に帳消しにしてくれるんじゃない? 力関係考えずに怒ってこちらと喧嘩するつもりだったら、さっきも言ったように、私としては願ったりかなったりだしねえ。私の好きなように扱っても構わない実験台が、いっぱい確保できるし。ま、あの様子ならこの件はこれで解決でしょー」


 無邪気な微笑みを浮かべたまま、平然とした様子で答える純子。


「僕がついてくる意味も無かったな。むしろ皆で来る必要も無かった。お前一人で済んだろ」

 真が指摘する。


「んー、せっかくだから私の巧みな交渉術を披露してあげようと思ってさー。この子達にとっても、今後裏通りで生きていくのに、いい勉強になると思うしー」

「ならんならん」

「うん、ならない」


 純子の言葉に対し、真と晃が揃って顔の前で手を振って否定する。


「あれま。じゃー、ちょっと私は野暮用あるから、皆は研究所に戻っててね。真君、可愛い後輩の面倒をちゃんと見てあげるんだよー」

「僕の見てる前ではできないような、ろくでもないことをしに行くんだな?」


 一人でどこかに行こうとする純子に、真が皮肉を込めた口調で突っ込む。


「かもねえ? でも真君だって可愛い後輩達を放っておいて、私の邪魔しには来ないでしょ?」


 それだけ言い残すと、純子は来た方向とは逆側に向かって歩き出す。


(信じられない……。何なんだ……あの子は)


 声に出さず呻く十夜。


 生まれて初めて目の当たりにした殺人現場。しかも素手で心臓を抉り出すという、漫画みたいな殺し方。

 いや、それより衝撃的だったのは、人を殺してなお無邪気な笑顔を崩さぬあの美少女そのものだ。

 あまりにも異常かつ突飛な行動。普通ではない世界の中でさらに狂った存在。ネット上の都市伝説での噂なんかより、さらに強烈なインパクトを持つ実物。

 十夜は純子に恐怖を覚える一方で、惹かれ始めてもいた。

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