第一章 15

 凛が初めて殺した相手は、高校三年の時の担任教師だった。


 担任教師が授業中に堂々と、凛の父親を人殺しと罵った際、凛の中で生まれて初めて殺意が芽生えた。そう――父親と同じ気持ちを味わった。

 これが殺意というものかと理解し、それが生じる事は全くもっておかしな事ではないと理解した。そしてそれを実行する事も。


「何で人を殺しちゃいけないの?」


 その際に凛は担任の目を見据えて、はっきりと告げた。担任の心ない罵倒に引いていたクラスの全員が、さらにドン引きしていた。己を見据える、冷たい怒りを帯びた凛の瞳に、担任はひるんでいた。


 こいつは絶対に生かしておかないと、凛は心の中で決めた。この教師は死して然るべき存在だと。

 凛からすれば彼はそれだけの罪を犯した。世の法律や倫理がどうであろうと、凛の中では有罪。断じて死刑。しかしだからといってこんな奴のために、殺人犯となって一生を棒に振りたいとも思わない。


(死んで当然の糞野郎ですら、私が生まれる前から勝手に作られたふざけた法律と、人権とやらで守られていて、殺したら犯罪になる。その方が余程おかしいし狂っている。この世界の方が間違っている)


 殺意を知った凛は、真面目にそう考えた。


 何か方法が無いかと悩み、裏通りの力を借りるしか無いという結論に至り、いろいろ調べている内に雪岡研究所の存在を知り、力を得た凛は、卒業式の日に担任教師を殺害した。罪悪感は一切無く、カタルシスにも似た快い感覚で満たされた。


 凛の人生に強い影響を与えたのは、殺人を犯した父親の存在だった。

 凛の父親は有名な脚本家だったが、友人であった別の脚本家に、自分が書いてストックしておいた話を盗まれ、それをテレビ番組に使われたがために激怒して、その脚本家を殺したのだ。


「お前や母さんに肩身の狭い思いをさせたのは、本当に申し訳ないと思っている。だがな、それだけだ。父さんがした悪い事はな」


 父は凛を前にして真顔でそう言ってのけた。


「それ以外は何も悪い事をしたとは思っていない。父さんが殺したのは、殺されて当然の、死に値する最低の屑だった。だから殺したまでの話だ」


 そう言われた時、凛は父が正しいと信じたかった。理解はできなかったが、無理矢理信じて縋ろうとしていた。


 だが自らも手を汚した後、父は正しかったと確信に変わった。安堵し、父の気持ちも理解できた。

 間違っているのは殺された糞野郎の側であり、間違っているのは殺されて然るべき下衆を殺しても罪になるこの世界の方だと、信じて疑わなかった。


 とは言え凛の中で、誰でも殺していいというわけではない。


(単純に能力の優劣が生きる価値の有無なんて事は断じて無い。そうじゃない。もっと違う何かが……要る)


 教師に殺意を抱いたその日、凛は考えた。

 人を殺すには特別な基準が必要だ。その基準に至らぬ者を凛は殺す気になれない。


(そうよ、私が生きている間に私の人生に面白いと感じる影響を与えてくれるかどうか、またその可能性――うん、これね。これこそ真理よ)


 それが凛の中で出た基準の結論だった。


 一度人を殺してしまったら、単純に力がある者が生殺与奪を握れる世界でしか己は生きられないであろうと思い込み、凛は裏通りの住人となる道を選び、殺人のためだけではなく、裏通りで生きる力を得るためにも、雪岡研究所の門を叩いたのである。

 どうせ自分は普通ではないのだから、普通ではない世界で生きる方がよい、そう考えて。

 そしてその考えに疑念を抱いたことは、その後の二年間、一度として無い。


 ホルマリン漬け大統領第七支部に襲撃があった翌日の夜、凛は裏通りの住人のみが出入りできる『タスマニアデビル』という名のバーにて、カウンター席でブランデーを飲んでいた。

 ここ安楽市における裏通りの住人同士で、情報収集にも取引にも親睦のための交流にも使われる場所であり、争いは御法度の中立地帯に指定されているため、裏通りの者が一切の警戒を解いて安心していられる空間だ。


「こんばんはー、凛ちゃん」


 その凛の隣に、酒場には似つかわしくない、未成年としか思えない容姿の白衣姿の少女が座り、声をかけてくる。


「よくここにいるってわかったわね」


 凛はこのバーを滅多に利用しない。依頼を平然と台無しにする事で有名で、信義に欠ける始末屋として、裏通りの住人からも忌避されている彼女からすると、ここはあまり居心地がよくないからだ。

 だが情報収集の仕事の必要性で、どうしても訪れなくてはならない事もある。今回もそのケースだ。一応の保険ではあるが、馴染みのフリーの情報屋に、ホルマリン漬け大統領の動きを探ってもらう依頼を直に頼みに来ていた。


「そりゃわかるよー。私の手がけたマウスには全員、体内にGPS受信機を埋め込んであるもの。あ、除去しようとしちゃ駄目だよー。取り出そうとすると死んじゃうように設定してあるからね」


 凛が見た二年前と変わらぬ真紅の神秘的な輝きを放つ瞳と、見る者の心を和ませる朗らかな笑顔を向けて喋る純子に、凛は懐かしさも相まって胸に熱いものを感じる。


「何の用?」

「その前に、質問で返して悪いけれどさあ、どうして昨日はドンパチしてくれなかったのお?」


 純子が注文せずとも、クマの着ぐるみで身を包んだマスターが、純子の前にブランデーの入ったグラスを置いた。凛の飲んでいるものと同じ銘柄のものだ。


「あの子達を殺したくはない。昔の私と似ているし。成長させればもっと綺麗に黒く咲ける。もしかしたら私以上に綺麗な黒になるかもしれないじゃない。そういう可能性の芽を潰すのは嫌なのよね」

 正直に思った所を述べる凛。


「別に殺さなくてもいいんじゃない? 気絶させるとか、ギブアップに追い込む程度にするとかでもさー」


 グラスを手に取って軽く振りながら純子が問う。


「私は殺し合いがしたいのよ。刺激が欲しいの。そんな中途半端なのは嫌。でもあの子達は殺したくないから戦うこと自体したくない」


 殺し合いは好きだが、気の乗らない殺人はできれば回避したいというのが、凛のポリシーである。


「もしちゃんとドンパチしてくれたら、凛ちゃんをさらに改造して、新しい能力をあげてもいいんだけれどなー」

「あ、やっぱやるわ」


 にんまりと笑って、純子を見る凛。殺したくない相手は殺さないポリシーも、己の欲望の前では塵芥の如く掃き捨てられた。


「改造してもらう他に、私からもう一つお願いあるんだけれど、いいかしら?」

「なあにー?」

「貴女といつも一緒にいるあの可愛い子、あれと殺り合いたいとずっと思ってたんだけど、駄目かな?」


 雪岡純子が作った最強のマウスと噂される、雪岡純子の殺人人形――相沢真。凛が駆け出しの頃から、裏通りではメジャーな名前であり、憧れていた。


「いいよー。ところで町田さんは元気―?」


 ダメモトで聞いたにも関わらず、笑顔であっさり快諾する純子に、凛は思わず鼻白む。あの少年の力をよほど信じているのか、それとも純子にとって、実は取るに足らない存在だったのかと、疑問に思う。


「元気だし、いつもあれこれうるさいよ。まあ頭の中にもう一人いるってのは面白いわ」

(うるさいのはお前がいつも危なっかしいからだ)


 凛の言葉を受けて、すかさず町田の突っ込みが入る。


「個人が開花した超常の能力を損なうことなく、そのままコピーするための研究の一環として、手始めに脳の移植をしてみたってだけなんだけれどもねえ。精神や記憶まで――ていうか、魂そのものがそっくり移植されるってのは、私としては望ましくないんだけれど」

「私には興味無い話だし、どうでもいいかな」

「あれま。じゃ、そういうわけで明日はよろしくー。凛ちゃんも楽しんでね」


 グラスの中身を一気に呷ると、純子は席を立って軽く手を振り、店を出て行った。


(あの女が関わっているせいで、胸騒ぎがして仕方が無い。ただの研究熱心のマッドサイエンティストというだけではない。享楽主義の愉快犯でもあるからな。どんなろくでもない事をしでかしてくるかわからんぞ)

「体の無い町田さんは、私の胸を使って胸騒ぎしてるのかしら」


 不安を訴える町田にそんな軽口を返し、凛はグラスに口をつけた。


***


「……と同じに……なるんだ……」


 夜道を歩きながら、口の中で呟く十夜。


「晃と同じになるんだ」


 先程から譫言のように同じ言葉を幾度も繰りかえし、十夜は自宅へと向かって歩いていた。


 十夜が非日常な現実に足を踏み入れたのは、晃を追ってのことだ。十夜が心を許せるのは晃しかいなかった。晃と同じ道を歩いていたかったし、対等でありたい。

 予感はしていたが、やはり晃も自分と同じく恵まれぬ家庭環境にあった。だが晃はそれを排除したうえで、裏通りへと堕ちた。


「晃と同じに……俺も晃みたいにケリをつけてこないと」


 晃がやったからには自分もやらなくてはならない。そう自分に言い聞かせる十夜だが、晃どうこうだけではない。十夜も昔から抱いていたことだ。

 あの最低最悪の父親をいつ殺していいのかと、ずっと己に問いかけていた。晃の行為はそのための引き金だ。


「いずれはやらなくちゃならなかったんだ……」


 アパートの二階にある自宅が見えた時、十夜は自宅の扉を睨んで呟いた。

 仕損じる事の無いよう決意を固めんとして、今まで受けた理不尽の仕打ちの全てを思い起こし、憎悪と怒りに魂を焦がし、心を殺意の一色で染めあげていく。

 完全な殺意を固めた心に、十夜はこのうえない心地好さを覚えていた。憎しみから生じた殺意がこれほど気持ちいいものだとは、多くの人間が知らないであろうと、優越感すら生じていた。


 ゆっくりと一歩一歩踏みしめるように階段を上り、アパートの扉を開ける。部屋には父の姿があった。


 父は十夜の顔を見て呆気に取られていた。これは十夜にとって、全く予想外のリアクションだった。無断で家を空けていたのだから、怒りの形相で怒鳴りつけてくると思っていたのに。父のこんな顔など初めて見る。

 予想外のリアクションはそれだけではない。父の目から涙があふれでて、その顔がしわくちゃになったのだ。


「今まで……どこほっつき歩いてやがったんだ! この馬鹿野郎!」


 涙と鼻水でぐしゃぐしゃの泣き顔。当然だが父のこんな顔も生まれて初めて見た。十夜の中で殺意がみるみるうちに霧散していくのがわかった。


「何かあったんじゃないかって……どんだけ心配したと思ってんだよぉ!」

(ずるい)


 自分を抱きしめ、おいおいと泣き出す父親に、十夜は心の中でぽつりと呟いた。


 これでは殺せないではないか。殺したいと思っていたのに、晃と同じになりたいと思っていたのに、これではできない。


 たかが数日家を空けただけで心配して泣き出すなら、何で普段からあんなに辛くあたったんだと言ってやりたいが、言うことができない。自分の中にずっとあった黒い感情が消えていき、己が浄化されていくような感覚にゆだね、何一つ言葉が口から出てこなかった。


(晃と同じにはなれない……)


 心地よい解放感に包まれながら、口に出さずに呟く。

 世界が一変した瞬間であった。

 自分は今、救われてしまった。晃は一生下ろす事のできない、黒い十字架を背負っているというのに。


 それから十夜は父と共に無言で夕食を取った。いつもと同じコンビニ弁当であるし、無言での夕食もいつも通りだが、何故かいつもとはまるで違う夕食であるかのように、十夜には感じられた。


「俺、裏通りで生きる」


 夕食を終えて落ち着いてから、十夜は父親の前でぽつりと呟いた。


「普通に学校行って、就職してっていう、そういう人生は送らない。普通じゃない生き方をするよ」

「何を言って……」


 声を荒げようとした父親であったが、十夜の決意に満ちた眼差しを見て思い留まる。


「……」


 父は両手の拳を握りしめてうなだれ、何やらずっと考え込んでいるようだった。もちろんこんな姿も初めて見る。十夜は自分からは言葉を発せず、父の次の言葉を待った。


「俺のせいで……なのか……?」


 顔をあげ、沈鬱な面持ちで問う父親に、十夜はどう返したらいいかわからなかった。

 そうとも言えるし、違うとも言える。晃に引きずられる格好ではあったが、父親がこんな風ではなかったら、自分の選択も変わっていたかもしれない。


「それもある。もう決めた」


 十夜の答えに、父親は押し黙り、再びうなだれて何か思案しているようだったが、やがて何事も無かったかのように立ち上がり、布団を敷いて寝転がった。


「父さん……」

「それがお前の俺への復讐かよ。毎日毎日お前の身の心配をさせられるわけか」


 十夜に背を向けて寝転がったまま、静かな口調で父は言った。


「やめろ。ふざけんな。俺はろくでもない親だろうが、お前がそんな世界に堕ちるのを見過ごせねーぞ」


 父親の声は静かだったが、怒りとも嘆きともつかぬ響きがあった。


「どんな事情があるのか知らないが、認めらんねーよ。俺のせいだってんなら謝る。俺に改めてほしいことがあるなら改める。だからそれだけはやめろ」

「何で今頃! 何で今更! いい父親になってんだよ!」


 十夜は初めて父親の前で感情を爆発させて立ち上がった。そしてそのまま父の顔も見ず、言葉を待つ事も無く、家の外へと飛び出した。


(俺は晃と一緒に生きていくって決めたんだ! あの普通じゃない世界で。俺の体ももう改造されて普通じゃ無くなった。引き返せないんだ! 自分に酔っている? それもあるさ。でも事実として受け入れて覚悟しなくちゃ駄目だろ!)


 深夜の住宅街を駆けながら、心の中でひとしきり喚いた直後、十夜はふと疑問を覚えた。


(晃は裏通りで生きることを心から望んでいる。それはわかる。でも、俺は?)

 走っていた十夜の足が止まる。


(晃と離れたくないからとかそんな理由で、それで改造手術まで受けて……)


 あまりにも今更な疑問。本当に己の意思で裏通りに堕ちたのだろうか?

 少なくとも自ら望んで堕ちたわけではないと、己の中ですぐに答えは出た。その答えは刺となって、十夜の心に深く刺さった。

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