第一章 2

 相沢真が雪岡研究所で生活するようになり、すでに五年が経つ。

 表通りから裏通りへとドロップアウトして、雪岡研究所を我が家とするようになったが、半年ほど海外で傭兵生活などもしていたので、ずっと雪岡研究所にいたわけではない。だが、裏通り歴は何年かと問われれば、五年と答える。

 その間、真は研究所の主の忠実ならざる手足となって、研究所の主である雪岡純子と相対した者を屠り、時に殺さず見逃してきた。


 人前で表情をほとんど見せることなく、五年間成長せずに姿も変わらぬまま、雪岡純子の専属の殺し屋として働いてきた彼は、いつしか『雪岡純子の殺人人形』という通り名で呼ばれるようになり、裏通りでもトップクラスの殺し屋の一人として、恐れられる存在となっていた。


「真君、またお仕事入るかもー」


 朝食の際に、真とテーブルを挟んで向かい合った形で座っている、立場上は自分の主にあたる少女が、弾んだ声で告げる。


 真の横には、金髪翠眼の少年が座っている。

 背は真よりもやや低く、見た目の年齢的には真より年下に見える。一見少女にも見える際だった美貌の持ち主で、見た目は完全に白人であるが、名前は雫野累しずくのるいといい、本人曰く日本生まれで日本育ちの日本人との事だ。


「常に入りまくりだろ。てか、この味噌汁ちょっと濃くないか?」


 仕事の内容を聞くより前に、朝食の味に文句を言う真。研究所での食事は全て、目の前の真紅の瞳の少女が作っていた。


「あはは、ちょっとぼけてたかなあ。すまんこ。二日くらい徹夜して寝てないしねえ」


 無邪気に笑う少女。二日も徹夜と言うわりには、少女の目の下に隈はできていないし、眠そうな様子も全く見受けられない。


「僕の方に……卵が二つも……入ってましたよ……。いります?」


 たどたどしい口調で累が言い、隣の真の味噌汁に、自分の味噌汁の中の卵を入れようとする構えを取ったが、真は片手だけあげてそれを拒絶した。


「で、次は何して遊べばいいんだ?」

 無表情のまま尋ねる真。声も抑揚が乏しい。


「いつもの遊び相手だけどね。また『ホルマリン漬け大統領』の人達と遊んできてほしいんだ。あ、なるべく殺さないでよー。最近また実験台が不足気味だからさあ」


 真の主――裏通りの生ける伝説として悪名高いマッドサイエンティスト雪岡純子は、フォークに突き刺したウィンナーをくるくる回して弄びながら要求する。


「わかった。皆殺しにしてくる」

 無表情のまま真が言った。


「いや、殺さないでってばー。死体じゃ実験台にならないんだからさあ」


 笑いながら言う純子であったが、真は冗談ではなく本気で、主の望みを聞く気が無い。


「殺す程度じゃ生ぬるい下衆がいたら、話は別だけどな。そういうのを見たら殺さないでおく。お前の実験台にした方が、より残酷な処罰になるしな」


 そういう下衆がいる確率は高そうだと、口に出さずに真は付け加える。これから相手をする組織が如何なるものかを考えれば、そういう結論に行き着く。

 純子もそれを見越して、真が思わず殺したくなくなるほどの下衆な輩を見つけてきては、自分から喧嘩を売り、抗争へと発展させて、真を刺客として差し向けている。


「僕は僕で好きにやらせてもらうよ。いつも通り」


 そう宣言して湯呑を取り、茶をすする真。

 純子と真は主従の間柄であるが、真は純子の要求に必ず従うわけではい。それどころか要求とは逆の行いをすることの方が多いが、純子も真のそうした行動を承知のうえで扱っているし、遊んでいる。


「あの組織は……好きではありません。昔の自分を思い出します……から。正直、もう……関わりあいにならない方が……いいと思います」

「同感だな」


 累が口を挟み、真も頷く。


「んー……そう言われてもねえ。私にとっては実験台確保できる貴重な組織だしー……」


 二人がかりで否定され、たじろぎ気味になる純子。


「すでにマウスも放っているけれど、捕まっちゃったみたいだしねー。あまりいい出来じゃなかったから別にいいけどー」


 純子は自分が実験台として改造した人間をマウスと呼んでいた。いや、純子だけではない。人体実験を行うマッドサイエンティスト達は皆そう呼んでいる。丸太と呼ぶ者も稀にいるが。


 二十一世紀後半の現在、科学の停滞が著しくなってしまった原因は、エコロジー優先で科学文明の発達が悪という風潮が、世界的に広まったからだ。

 その風潮に反発し、かつてはほぼフィクション上の存在だったマッドサイエンティストという人種が、現実世界に大量発生するに至ったのである。


「いい出来じゃないから、死んでも構わない、か」


 真が純子をじっと見つめる。無表情だが、明らかに責めている。


「いやー、そこまで言ってないしー」

「でもそういう意味だろ。お前は本当に僕を苛立たせるのが上手だな」


 心持ち皮肉っぽい口調で言うと、真は席を立ち、部屋を出て行く。


「ちょっとやそっとのことで苛々しないように、鍛えてあげているつもりなんだけどねえ」


 微笑みを張り付かせたまま、悪びれずにそう呟く純子だった。


***


 十夜は他人の不幸を聞くと、可哀想にという気持ちと、ざまあみろという気持ちが同時に強く沸き起こる。

 逆に幸福な人間を見ると、不幸の奈落に堕ちろと唾を吐き、その分、不幸な人間には幸せになって欲しいと強く願う。

 馬鹿馬鹿しい矛盾した思考であると、十夜も自覚している。他人と自分の比較。幸福と不幸。どっちが上か下か。それらを意識してばかりいる。


 あの父親の下で生活している自分。いつも視線を気にし、暴力に怯え、その理不尽さにやり場の無い怒りと悔しさに打ち震える人生。それ故に、自分はこんな風におかしくなってしまったと、十夜は信じている。己の全ての不幸の源は、父親だと。


(いつ反逆したらいい? いつ怒っていい? いつ殺せばいい?)


 中学生になってから、十夜はただ怯えて悲嘆にくれるだけではなく、そう自問するようになっていた。

 もう自分はある程度成長している。そろそろ一方的に虐待されているだけではなく、何かしらアクションを起こしてもいいのではないかと。


(いつ殺せばいい?)


 その言葉だけを胸の内で繰り返し、引き金を引く。


 十夜は線が細く、中性的で大人しそうな容貌をしているせいか、周囲からよく優しそうだと言われているが、自分では逆だと思っている。心に猛毒があると己自身を評している。

 自分は普通ではない。普通なら絶対にこんな黒い想いなど抱いていない。そう思い込み、卑下している。自己嫌悪を抱いている。


 手から腕を駆けのぼり魂にまで響く衝撃と、イヤーガードのせいで小さく響き渡る音が、十夜の意識を黒い情念の渦から引きずり出す。


「おおおおっ、すげっ! ド真ん中いったじゃん。初めてでいきなりかよっ」


 十夜が撃った銃弾が的の中心を撃ちぬいたのを見て、晃が喝采をあげる。


 晃に射撃場へと連れられてきた十夜は、確かな殺意を抱きながら銃を撃った。二十一世紀後半の日本でも、銃は市販されていないし、免許を持たぬ者に撃たせてくれる射撃場など存在しない。

 ここは安楽市内にある裏通りの施設だ。ここも晃が事前に調べて見つけ、まずは銃の撃ち方を習った方がいいと言って、十夜を連れてきたのである。


 射撃場にいる係員から一通り説明を受けて、二人はその後十分ほど銃を撃ち続けた。


「筋のいい子ねえ。本当に初めてなの?」


 休憩しようとイヤーガードを外したのを見計らい、隣で銃を撃っていたロングヘアの背の高い女性が、十夜に声をかけてきた。

 歳は二十歳前後。黒いショートジャケットと黒いシフォンブラウス、さらには黒いスラックスという全身黒ずくめの服装に、蛇が絡まった十字架のペンダントを下げている。顔立ちは面長気味で、女優と言われても納得がいくほど綺麗に整っている。

 女性はコケティッシュな笑みを浮かべて、興味深そうに十夜のことを見下ろしていた。


「え、ええ」


 相手がかなりの美人であったため、照れくさそうに答える十夜。整っているのは顔だけではない。出る所が出て引っ込む所は引っ込んでいる抜群のプロポーションで、おまけに上背もあるため、十夜は綺麗で格好いいという印象を覚えた。


「撃つ時に物凄い殺気を迸らせていたけれど、そんなに殺したい相手がいるの?」


 黒ずくめの女性のからかうような言葉が、十夜の心臓がドクンと大きく鳴った。


 この女性はきっと裏通りの住人なのであろうと、容易に察せられる。だからこそこんな場所にいるのだし、自分の殺意を一目で見抜いてきたのだろうと十夜は理解する。


「駄目だよ。暗殺する時は殺気を出来るだけ抑えないとね。殺しの満足感は、殺した後に思う存分に味わいなさい。正面から互いに認識しあって殺しあう時は別にいいけどね。ま、実際は裏通りの殺し合いって、暗殺よりも、正面きってドンパチする方が多いんだけど。何しろ皆殺気には敏感だから、暗殺って一般的じゃないのよね」


 黒ずくめの女性は愛想よく微笑みながら、十夜の考えを裏付ける言葉をぽんぽんと口にする。


「じゃ、頑張って殺すのよ」


 冗談とも本気ともつかぬ口調でそう言い残し、女性は射撃場を後にした。


(これであいつを殺すこともできる……)


 手にした銃をまじまじと見つめていると、よからぬ欲求が再び鎌首をもたげる。

 十夜の中で渦巻く黒い炎。それに心を焦がしているだけで、言いようの無い心地好さがある。

 もしもその炎を内から外へと解き放ったらどれだけ気持ちいいかと、どうしても考えてしまう。何しろそれを実行できる道具が今、己の手の中にあるのだ。


(先のことなんてどうなってもいいから、まず俺を散々苦しめたあいつを殺そうかな)


 幼い頃から自分を理不尽に虐げていた父へお返し――いや、とびっきりのプレゼントを届けに行ってやりたい。そう思った直後――


「おーい、何ぼーっとしてんのさー」


 晃に声をかけられ、十夜は我に返り、恐ろしい想像をしていた己に嫌悪感を覚える。


「じゃ、銃の腕も上達したことだし、いざ裏通りの組織に僕らを売り込みに行こう」


 溌剌とした笑顔で告げ、晃は十夜の手を引いて射撃場の外へと連れ出そうとする。


「いやいや、上達したって……ちょっと撃っただけじゃん。それにさあ、いきなりそんな組織に売り込みに行ったって、門前払い食らうんじゃない?」

「僕がそんな行き当たりばったりだと思ってるの? 心外だなあ。ちゃーんと事前にアポとって話つけてあるんだよ。紹介料とかも取られちゃったけれど、でもその分信用はおけるってことだしね」


 不安げに尋ねる十夜に、晃は笑顔のまま答えた。

 この辺の抜かりなさは流石晃だと感心する所だが、それにしても十分ばかり練習した程度で、射撃の腕が上がったとは思えない。撃ったことが無いよりはマシかもしれないが、本当に銃の撃ち合いができるほどのレベルになったわけでもない。


 自分は一体何をやっているのだろう。学校をフケて、裏通りなどという物騒な世界に足を踏み入れようなどとしている。

 しかし何を思ったところで、結局は晃の後についていくだけだ。十夜にはそれしかない。

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