絶望の戯曲Ⅳ


 誰かを好きになる、ということの意味を知らなかった。恋愛感情に疎いとか、多分そういうことではないのだと思う。


 自分を誤魔化して生きているやつが嫌いだった。なあなあで流されるままに暮らしているやつが嫌いだった。愛とか恋とか運命とか、喚くだけ喚き散らかして数年でお互いに不倫し、自分一人を残して蒸発した両親が嫌いだった。


 反面教師になっていたのだと思う。自分はそうなりたくないと思った。自分はそうありたくないと思った。ならば、どうありたいのか。


 自分があり、個性があり、目的がある。それは、今の世の中では難しいことなのだと理解していたが、納得は出来なかった。どうせありのままでいられないのなら、せめて他の誰でもない自分でありたかった。


 雨宮紫苑はそんな子供だった。だからと言って、本当にそれが出来ていたかどうかと問われれば弱い。そんな人間は社会では生き辛いからだ。


 しかし、紫苑は運良く、それが出来ているやつと出会った。


 親に捨てられ、養子として迎え入れてくれた家の隣に住んでいた家族の子供だった。その子供の名は、紗倉葵という。


 彼女はいつも自由だった。何色にも染まらなかった——いや、違う。むしろ、単色だった。白ではなかったけれど、混ざり切った黒でもなかった。何色かと訊かれれば、赤だと答える。


 燃えるような正義の赤。彼女はいつも、自分の正義を貫いていた。自分の正しさを心の底から信じていた。誰にも屈しない強さを持っていた。そんな彼女に、紫苑は憧れた。


 どす黒くなりかけていた自らを洗い流し、紫苑は自分を貫いた。葵の隣にいても、それは容易いことではなかった。しかし、やり遂げた。自分の色がなんなのか、それは自分自身には分からないが、黒ではない。それだけ分かれば充分だった。


 ある日、紫苑は一人の女子生徒に告白された。他人に興味のなかった——というより、黒いやつに興味のなかった紫苑には知り合い以下の存在だった。当然、断ったが、疑問が浮かんだ。


 ——誰かを好きになるというのは一体どういう気持ちなのか。


 葵のことは嫌いじゃない。幼馴染みだし、自分が唯一認める存在だ。だが、恋愛感情はない。向こうだってそれは同じだろう。紫苑には好きという気持ちが分からない。結局、死ぬまで、その気持ちが分かることはなかった。


 だが、死ぬ何日か前、葵の他に目に映り込む少女が現れた。その少女は黒ではなかった。何色なのかは話したことがないから判断出来ないけれど、黒ではないことだけは分かる。他とは違うことだけは分かる。一度くらい話してみたかった、転生した直後にそんなことを思った。


 築地京華を好きになったつもりはなかった。嫌いではなかったし、むしろ気に入っていたけれど、それは違う感情だろうと思っていた。


 京華(そのときはそれがあの少女だとはしらなかった)が自分のことを好きになったのも、吊り橋効果と似たようなものだろうと思った。世界に一人しか同郷の者がいなかったのだ、その気持ちは分からないでもない——なんて考えが浮かんできたところで、違和感を覚えた。


 その気持ちは分からないでもない? なにが分かるというのだろうか。変化はそこからだった。


        × × × ×


 昔の自分を思い出しながら、ディゼスピア——雨宮紫苑はバハムートの背でぼんやりと空を眺めていた。


 今では、確かに自分は築地京華のことが好きなのだと思う。自分は今、自分ために動いているが、葵と言葉を交わすまでは京華のために動いていた。京華のためならば、死んでもいいと思っていた。


「恋、ね……」


 言葉にしてみてもいまいち実感が沸かないけれど、否定する気は起きない。救いたいやつがいる。自分ためだけじゃなく、そいつのためにも動くことが、こんなにも力の湧いてくることだとは思わなかった。


 なぜ、いつ、好きになったのか。それは分からない。京華には理由があるようだが、紫苑にはない。流されたわけではない。運命を信じたわけでもない。ただ、いつの間にか大切になっていて、いつの間にか好きになっていた。


「人生、分かんねぇもんだなぁ……」


 まあ、いい。今はそれどころではない。そんな平和ボケしたことを考えるのは、全てが終わってからだ。


 下を向けば、大勢の騎士と勇者、魔王の姿が窺える。さて、と息を吐き、紫苑は葵に教わった通りの言葉を発する。


「——最高神に願う」


 一つだけ。地球の神が自分の世界から魂を奪われたことに憤慨し、最高神に申し立てをし、一つだけ願いを叶える約束を取付けてくれたらしい。一人につき一つではなく、本当に一つだけだ。葵はその一つを自分に託してくれた。


 もう言うべきことは決まっている。さっさと願いを済ませた紫苑は、心の中でルクスに声をかけた。


〈覚悟はいいか〉

(うん、もちろん)


 彼女の幸せが自分の幸せだ。そんな想いを二人とも抱えていた。迷いは欠片もない。


〈——行くぞ、これが最期の戦いだ〉


 紫苑とルクスは魔術を詠唱し、バハムートから飛び降りた。


        × × × ×


 紗倉葵が戦場に現れたのは、戦闘が始まって二十分が経過した頃だった。戦況はルクスと紫苑の優勢。得体の知れない敵に、ユリアと京華は手こずっている。とは言え、圧倒的なのではなく、僅差でという感じではあった。


 二十分。短いか長いかと問われれば誰もが短いと答えるであろう時間。しかし、勇者と魔王を相手に互角以上の戦いをしていられる時間としては、途方もなく長い。普通なら、一分持てばこれ以上ないほどの賛辞を受けられるだろう。


 葵だってまさかそんなに持ち堪えるとは思わなかったし、ましてや自分が出て行くことになるなんて思ってもみなかった。ここまま戦い続ければ、ルクスと紫苑が勝ってしまうのではないか、そんな懸念すら抱かせるほど、二十分という時間は異常だった。


 自分の仕事はもう終わりだと思っていたので少々面倒だが、幼馴染みをフルボッコに出来る機会もそうそうない。葵はなんだかんだノリノリで、ユリアと京華の前に姿を現す。


「おお、勇者と魔王よ、苦戦するとは情けない。仕方ないから、歴代最強の聖女様が助っ人に入ってあげよう」


 どこからともなく現れた葵に二人は目を丸くする。葵がずっと観戦していたことを知っているのは、紫苑とルクスだけだ。


「ティナ……どうしてここに」

「どうして? きみにはあたしが友達の窮地に助けに来ない薄情者に見えてたのかよ、心外だなぁ」

「聖女か……、巻き込まれて死んでも知らぬぞ」


 ——直後、葵に黒炎が迫る。


 京華はその魔術を知っている。魔王城での戦いで、一度見たことがあるからだ。【常闇に君臨せルキフェル・マし皇帝の黒炎ルムイグニース】、おそらく、破壊魔術ノット・ソーセレリー、攻撃の九番に相当する強大な術。


「ティナッ!」


 ユリアが呼ぶ。返事がくることはないと思っていた。しかし、ユリアの予想に反して、黒炎の中から声が届く。


「なんだい、ユリア? そんなに慌ててどうした。まるで怖い夢でも見たみたいな声だったぜ?」


 黒炎の中から平然と出て来た葵は京華に向き直ってにんまりと口端を歪める。


「——で、誰が死ぬって?」


 京華は自分の目を疑った。まさか、あれを受けて無傷でいられるなんて。なにかしらの魔術を使ったのだろうが、だとしても、信じられない。この聖女が、自分と同等の魔術を行使できるということが。


「アリス、残念だけれどきみの期待に応えることは出来そうにないよ。歴代最高の名は伊達じゃないんだ。死ぬのはルクス・アエテルニターティスだけだぜ」


 世界最高峰の三人が、場に集結した。

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