絶望の戯曲Ⅰ
——昔から要領が悪く、物覚えも良い方ではなかった。
生まれつき身体も弱く、出来の悪い子供だと親戚の叔父や叔母が陰で囁き合っていたのは知っている。友達もほとんどいなかったし、虐められる側の人間、搾取される側の人間で、それを半ば諦め、受け入れていた。
ただ、もちろん好んで虐められたくはないため、なるべく目立たぬよう、誰の邪魔にもならぬよう、日陰の中で、孤独に、寂しく、いてもいなくてもよい存在として生きていた。
見える世界は灰色で、聞こえる世界は静寂で、それが当たり前で、それを変えようとも思わない。これからも今まで通り、なにも変わらぬ日々が続いていくのだと確信していた。
だから、だからこそ——変化は恐ろしく劇的だった。
× × × ×
昨日から母親が出掛けているため、今日は弁当がなく、購買でパンを買わなくてはならない。四時限目の終了を告げるチャイムが鳴り、築地京華はそっと席を立ち購買へ向かう。ちなみに購買を利用するのは入学して初めてのことだった。
前髪の長い京華はただでさえ目が見えないほどなのに、下を向いて歩くために顔すらも全く見えない。
なにもできないくせに見た目だけは整っているため、男子から告白されたりしたことが数回あり、それが嫉妬した女子に虐められる原因となった。それから葵は髪を伸ばし、体重も増やした。今では男子に見向きもされない。それが楽でいい。
購買に辿り着くと、予想以上の人が並んでいた。これは長く待つことになりそうだ。すぐ後ろに並んだ生徒も、「だるい」だの「面倒くせぇ」だのとぼやいている。
人の多い場所は嫌いだ。二年生や三年生がいると余計に。なんだか怖いし、鈍臭い自分がなにかをやらかしてしまいそうで怖い。さっさと買って戻ろう。
そうして待つこと数分、幾つか前の上級生のもとに五人の柄の悪い上級生が近寄り、そのまま列に入った。上履きの色を見るに三年生だ。三年生の教室は一階——購買と同じ階——にあるため、後方に三年生はいない。文句を言える者はいないだろう。
口の中でため息を吐いて、待ち時間が伸びたことを受け入れる。他の生徒と同じように、文句を言う気にはならない。学校では上級生が、並びに声のでかい自己主張の強いやつが上位に君臨するのだ。
まあ、いつかは買えるのだからそんなに気にすることでもない。
「「——おい」」
真後ろから、そんな声が聞こえてきた。男子の声と女子の声だ。まさか話し掛けられたのだろうか。そっと顔だけを背後に向けると、顔の整った黒髪の目つきの悪い男子と茶髪をサイドアップに纏めた女子が視界に映る。
雨宮紫音と紗倉葵だ。頭脳明晰、スポーツ万能、眉目秀麗と三拍子が揃った二人はいつも一緒にいるため目立ち、素行不良も加わって入学数カ月にして学校中にその名が知れ渡っている。そして、京華の近づきたくない人ランキングトップツーに君臨している人物でもあった。
「おい、そこの三年、てめぇらに言ってんだよ」
「おい、そこの三年、きみ達に言ってるんだよ」
彼らの声に反応して、前方で喋っていた三年生が自分の方へと振り向く。京華は素早く視線を落とし、身体を縮こまらせた。巻き込まれたくない。
「は? なんだよお前」
「おい、こいつ最近調子乗ってるって噂のやつだろ」
「つか、なにタメ口きいてんの? 今年の一年は礼儀も知らねぇのか」
三年生は列から出て彼らのもとへ寄っていく。必然的に京華に近づくことにもなる。もう帰ってしまおうか、すごく怖い。
二人は高圧的な三年生に怯むことなく、むしろ馬鹿にしたように笑って口を開いた。
「おいおい、マナーも知らないやつが礼儀を語るのかよ。随分と間抜けな話じゃないか。ねえ?」
「確かに。つーか、親の交尾が二年早かったくらいでなに粋がってんだよ。なにも教わることのねぇ輩を敬う必要がどこにある? ああ、いや、教えてもらうことあったわ。なあ、先輩って先に生まれただけの輩って意味なのか?」
二人の言葉に三年生は分かりやすく怒りを顕にし、一人が紫苑の襟元を掴んだ。
「てめぇ、もういっぺん言ってみろ、ぶっ殺すぞ」
「ははっ、もう一回言われたいとかドMかよ、おい! それとも難聴なのか? 流石先輩だぜ!」
瞬間、三年生が紫苑の頬目掛けて拳を突き出した。それを容易に受け止めた紫苑は足を引っ掛け、態勢を崩した三年生の顔面を力の限り殴り飛ばす。
「正当防衛だよな?」
転がったまま起き上がらない三年生を見下ろしながら葵に尋ねる。
「うんうん、正義の鉄槌さ。ここにいる全員が承認だ。まあ、停学は免れないだろうけど」
「また停学かよ……反省文面倒くせぇんだよなぁ、あれ」
「ま、この人達が『一年生に殴りかかったら返り討ちにされました』なんて超格好悪い報告を教員にしたらの話だけど」
「ほう……」
紫苑が立ち竦む残りの三年生を睨むと、全員が首を横に振る。こんな目に合った上に停学で反省文だなんて、そんなのは誰だって嫌に違いなかった。
「さ、とっととパン買っちゃおうぜぇ。今日はきみの奢りだから楽しみだよ! きみの金で食う飯ほどうまいものはないね!」
「ほんっといい性格してんな、お前……。明日は負けねぇ」
「明日もあたしが勝ってみせるさ」
話の内容を聞くに、二人はなにやら勝負をしてその日の昼食代をどちらが払うのか決めているらしかった。まあ、そんなことはどうでもいい。とりあえず、京華は今見た出来事を見なかったことにして黙々と列が進むのを待つ。
ようやく次が京華の番になり、あらかじめなにを買うか決めておいた京華は商品名を店員のおばさんに告げ、すぐにお金を支払えるように財布を——
「……あれ?」
——忘れた。思い返してみれば、教室から財布を持ってきていない。どうしようか。考えているうちに京華の目の前に頼んだパンが置かれる。
焦りで思考が働かない。普通に考えて、取りに戻るという選択肢しかないのだが、置かれたパンを見て狼狽えてしまう。
「えっと、その、あの……」
視線が自分に集まっているような気がしてくる。注目されるのは嫌いだ。財布を忘れたなんて恥ずかしいし、かと言って早くどかなければそのうち文句が飛んでくるだろう。
「買わないのかい?」
店員のおばさんが怪訝そうな顔をして訊いてくる。すごく悪いことをしている気分だ。早くこの場を立ち去りたい。そう思えば、自分がどうすべきなのかが一応理解できた。
「あ、えっと、財布を……その」
口をもごもごと動かし、聞き取りづらい小さな声で財布を忘れたことを伝えようとすると、目の前に一万円が落ちてきた。
「え?」
「——フレンチトーストと、焼きそばパン、ハムエッグ、あと……なんだっけ?」
「生クリームメロンパンとサンドウィッチ、揚げパンだよ」
「それ、追加で。あ、万札で大丈夫っすか?」
「大丈夫だよ。お釣り細かくなっちゃうけど、いいね?」
「はい」
「じゃあ、ちょっと待っててね」
京華がわけが分からずあたふたとしているうちに追加されたパンが目の前に並ぶ。
「この子のも一緒でいいんだね?」
「はい。あ、袋分けてもらっていいっすか」
「はいよ」
「え? え? あの」
京華がパンと声の主——紫苑へ視線を行き来させて混乱している間に、紫苑はビニール袋に入ったパンを受け取り、さっさと歩き出してしまう。自分もとりあえず袋を持ち列から外れると、葵が話しかけてきた。
「気にしなくていいよ」
「え、でも、そんな」
「別にきみのためにやったわけじゃない。紫苑は待つのが嫌いなんだ。自分が早く昼食を摂るためにきみの分を払ったに過ぎない。だから、きみが気負う必要はどこにもない。ラッキーだと思っておきな」
そんな人がいるのか。多分、自分とは正反対の人生を歩んでいるのだろう。迷ってばかりの自分とは。
そんな京華を見て、葵はにやりと笑う。
「惚れちゃったかい? かっこいいだろ、あたしの幼馴染みは」
「そ、そそそ、そんな、惚れっ、なんてっ!」
本当だ。本当に惚れてなどいない。あんなのと関わったら、それだけで注目されてしまう。そんなのは絶対に嫌だ。
「なぁんだ、残念。ま、きみみたいなタイプ、紫苑は好きじゃないから惚れなくて正解だったかもね。さて、じゃ、あたしは行くよ。あ、ちなみに、紫苑は積極的で強気な女の子がタイプらしいぜ。肉食系女子ってやつだね」
そんなもの聞いてない。快活に笑いながら遠ざかっていく背中に、京華は心の中で訴え、しばらくその場に佇んでいた。
好きになってなどいない。ただ、少し——憧れた。
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