聖と魔の二重奏Ⅲ
目を覚ますと、視界には木製の天井がぼんやりと映り込んできた。いつの間に寝てしまったのだろう。確かティナと話していて、それで……その辺りで記憶が途切れている。
話は一応終わっていたはずだから、気が抜けて疲れで倒れた、とかそんなところだろうか。悪いことをしてしまったと思いながら、ユリアは身体を起こして部屋から出る。
出た先は、昨日クリスティーナと話し合ったリビングらしき空間だった。なんだかいい匂いがする。
「おっ、おはようユリア。よく眠れたかい?」
声がした方向を見てみれば、クリスティーナが朝食を作ってくれているようだった。ユリアは快活な笑みを見せるクリスティーナに笑顔で応える。
「はい。久々によく眠れました」
本当に久々だ。逃げ出してからというもの、毎日仮眠ばかりの生活だったのだ。やはり、安心出来る場所や信頼の置ける人物がいるというのは、心に安らぎを与えてくれる。
「そっかそっか! それはよかった! もうちょっと時間かかるから、お風呂でも入っておいで」
お風呂なんて久しぶりだ。ユリアはお言葉に甘えて風呂に浸かり、温まった身体で朝食を頂く。食べ終えると、クリスティーナに問われた。
「ユリアはいつ戻るつもりなんだい?」
「そうですね……今日にでも発とうかと」
状況は一刻を争う。聖国が今すぐ魔導国に攻め入る可能性もなくはないのだ。早く向かうに越したことはない。
「そっか。まあ、そうだよね」
クリスティーナは表情に真剣味を宿し、ユリアに尋ねる。
「確認だ。きみはどうしてここに来た?」
子ども扱いはやめて欲しいなと思いながらも、クリスティーナが世話好きなのは知っていたので特に不思議には感じず、ユリアは質問に答える。
「自分が利用されて殺されると思ったからです」
「それは誰になにを言われたせいかな?」
「お兄様に過去の勇者の末路を聞かされたせいです」
「そう。じゃあ、悪いのはきみの兄になるのかな?」
「……いえ。悪いのは、兄を唆した天使と悪魔です」
言いながら、これは誰に聞いたんだったか、と疑問を覚える。確か、兄がそう言っていたのだったか。
「天使と悪魔は誰の差し金だ?」
自分はそれを知らない。いや、知っている。確かに、知っている。そう、それは——
「——ルクス・アエテルニターティス」
「それは誰だい?」
聞かれて言葉に詰まる。これは、誰だっただろうか? ああ、そうだ。なぜ忘れたのだろう。数ヶ月行動をともにした相手だというのに。
「魔導国国境まで私の護衛をしてくれた方です」
「そうだね。では訊こう——ルクス・アエテルニターティスは味方か敵か」
「——敵です。魔導国国境に辿り着き、裏切ったルクス・アエテルニターティスから辛うじて逃げ、私はここに来たのですから」
そう、裏切られたのだ。最後の最後で、裏切られた。しかし、一体どう裏切られたのだったか。記憶が混濁している。
「ルクス・アエテルニターティスの正体は?」
「天使と悪魔に取り入り、神へ反逆を企てる人類の敵、です」
「きみはどうする?」
「急ぎ聖国へ帰り、聖王へ進言し、ルクス・アエテルニターティスを——」
「ルクス・アエテルニターティスを? どうするんだい?」
言うべきことは分かっている。なのに、どうしてか喉でつっかえてしまう。なぜ躊躇する。敵は明確なのに。
「こ、ころ……殺し、ます」
「そうだね。きみは正しい。泣く理由がどこにある」
言われて初めて、自分が泣いていることに気づいた。なぜ、こんなにも悲しいのだろう。裏切られたからだろうか。
「……分かりません。胸が、締めつけられるように、痛いんです。どうしてなんでしょうか? な、涙が、止まりません……っ」
零れ落ちた涙は頬を伝い、木造のテーブルにぽつりと落ちる。悲しい、苦しい、虚しい——胸にぽっかりと穴が空いた気分だ。記憶改竄でもされたのだろうか。
「きみはルクス・アエテルニターティスと二人きりだったからね。なにをされていてもおかしくないさ。その苦しさはあたしがなんとかしてあげよう」
クリスティーナはユリアの背後に立ち、優しく頭を撫でる。
「なにが苦しい?」
「ルクス——ルクスさん、を、殺さなければならないことが」
「そう。それは辛いね」
クリスティーナの手にぼんやりと光が灯る。それと同時に、胸の苦しみが薄れていく。
「なにが悲しい?」
「ルクスさんが、敵、だということが、とても……悲しいです」
「うんうん。痛いよね」
悲しみさえも、どこかへ消えていく。涙はもう流れなかった。
「さあ、仕上げだ。なにが虚しい?」
「大事なものを、失くしてしまった気が、するんです」
そう——それは自分にとって、掛け替えのないものだった。それなのに、なにを失くしたのか、はっきりしない。これも、全て、ルクスの仕業なのだろうか、とユリアは眉間に皺を寄せる。
「失くしてはいけない、いえ、失くしたくなんてなかったものなはずだと、そう思うんです。この数ヶ月、それが支えだった気がするんです。なにも分からないのに、なにも覚えていないのに、なにもなかったはずなのに、なにかが抜け落ちてしまったような——心が欠けてしまったような……そんな気分になって、落ち着きません」
一体、なにを失くしたのだろう。胸に手を当て瞳を閉じて考えてみるも、まぶたの裏に浮かんでくるのはルクスの顔ばかりで——
「虚しくて……、切なく、て、それで、それ、で——もうっ、な、なにを、どうしたらいいのかっ……分からなく、なりそうでっ!」
悲しさも苦しさも、胸の痛みも煩わしさも、全てが戻ってくる。押し寄せてくる。襲いかかってくる。切なくて、心が焦がれそうで、身が千切れそうだ。
——怖い。
と、そう思った。得体の知れない感情に飲み込まれてしまいそうで恐ろしい。自分はおかしくなってしまったのだろうか。
「虚しいのが元凶だね。心に空いた穴が悪だ。なら、塞いでしまえばいい、閉じてしまえばいい、埋めてしまえばいい。心を満たせば、きっと全てが元通り」
空虚な穴が徐々に塞がっていくのが分かった。乱れた呼吸が自然と整っていく。涙は再び塞き止められる。これでいい、これでいいのだ——
「——嫌っ!」
椅子から転がり落ちた。どうして拒絶したのか分からない。ただ、そうしなければいけない気がした。二度と元に戻れない気がした。なにに戻る? 分からない。
分からない、分からない、分からない。なにも分からないのに、なぜか、ここに入るべきなにかがあるのだと、根拠もなく思った。
ただ——その拒絶はあまりにも遅過ぎた。
「気分はどうだい? 落ち着いた?」
苦しくない、悲しくない、虚しくない。さっきまでの考え、いや、反射的な拒絶が嘘だったかのように、心はすっきりしていた。
「……はい、ごめんなさい」
「気にしない気にしない。誰だって怖いことはあるさ。あたしにだってある」
おどけてそんなことを言うクリスティーナに、思わず笑みが溢れた。自分にはこんなにも頼りになる友人がいる。なにを怖がっていたのだろう。もう、不安はなにもない。
「もう一度訊こう。きみの目的はなんだい? ルクス・アエテルニターティスをどうすることだい?」
ユリアは間髪入れずに答える。
「——殺すことです」
「うん、よく出来たね。じゃあ、行ってらっしゃい。応援してるよ」
顔を綻ばせたクリスティーナに、ユリアは微笑みを返す。
「はい、行ってきます」
玄関の戸を開け、寒空の下を歩いていくユリアを見送りながら、クリスティーナはぽつりと独り言をつぶやいた。
「ごめんね。絶対ハッピーエンドにしてやるから、許してくれよ」
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