間奏曲Ⅱ


 西暦二○一五年、十二月十二日。


 その日も、いつもと変わらぬ平穏な日々の中の一つとして過ぎ去っていくのだと——三人は思っていた。


 いや、むしろ、そんなことは意識すらしていなかっただろう。当たり前のことが当たり前に続く、三人に限らず、誰もがそう思っている。


 だからこそ、彼と彼女の人生の終止符ピリオドが唐突に打たれたことに、少女は唖然とする他なかった。


 夥しい量の血に吐き気を覚え、顔面を蒼白とさせながら、少女は追憶する。

 どうしてこんなことになったのだろう。今日も、常と変わらず平凡な日々を過ごしていたはずだったのに。


        × × × ×


「いやー、今日も寒いねぇ」


 栗色の髪をサイドアップに纏めた少女がはぁっと白い息を吐き出し、楽しそうにくつくつと笑う。少女の名は、紗倉葵という。それを横目で見ていた彼女の幼馴染みに当たる少年——雨宮紫苑は葵を睨めつけた。


「そんな寒い日に人を部屋から引きずり出して荷物持ちをさせてるのはどこのどいつだよ。くそったれ」

「誰だね、そんな酷なことをしたやつは」

「てめぇだ、てめぇ。ぶっ殺すぞ」

「ダメだぜ、きみぃ。こんなかわいい女の子にぶっ殺すなんて言っちゃ」


 やれやれとばかりに肩を竦める葵の顔は確かに整っているが、ムカつくことには変わりない。両手が葵の荷物で塞がっているためにぶん殴ることが出来ないのを心底残念に思う。


「そういや、この前お前と歩いてたの、うちの生徒か?」


 紫苑の問いに、葵は首を傾げる。葵は毎日誰かしらと遊んでいるため、この前とか抽象的なことを言われても思い当たることが多過ぎて困る。


 そんな葵の脳内を察したのか、紫苑は再び口を開いた。


「ほら、黒髪ロングの、お前より美人なやつだよ」

「ああ。ていうか、この場合、お前よりは余計じゃないかな?」


 葵は口を尖らせて不満を露わにする。


「事実だ」

「それはきみの主観だろう」

「主観でなにが悪い。周りがどう思ってようが、俺がお前より美人だと思ったら、俺の中ではお前より美人なんだよ」

「……この男、地獄に落ちないかな」


 ぼそりとつぶやいた言葉はしっかりと紫苑の耳に届いていたらしい。


「なんだよ、妬いてんのか?」

「は? まさか、そんなわけないだろ。きみ、人から好かれることが出来ると思ってるのかい? 自惚れも大概にしときなよ」

「このくそあま……よし、これ全部地面に叩きつけてやろう」

「待った! ごめん! 大好き! 愛してるっ!」


 凄まじい勢いで擦り寄ってきた葵を華麗に躱し、紫苑は長嘆息する。


「なんて安い愛だ……」

「言うだけならタダだからね。愛してるから荷物は大事に扱ってください」

「気持ちだけもらっとく」

「やだ、この男、超冷たい。なに? クール便なの?」

「よし、分かった。これを冷凍庫に突っ込んでくればいいんだな? そうなんだな?」

「調子乗ってごめんなさい。愛してます旦那様。でも、もう少し温もりがあってもいいと思うんです」

「お前みたいなの貰うくらいなら死んだ方がマシだろ」

「……ちょっと? それはさすがに女の子に向ける言葉じゃなくないですか? あたしだってちょっとは傷つくんだよ?」

「はいはい、愛してる愛してる」

「あたしは愛してないけどなぁ」

「よし、この荷物——」


 と、そんなやり取りを二三繰り返した後、葵は思い出したように言う。


「そういえば、さっきの話なんだけどさ、あの子は確かにうちの生徒で、あたしの友達だけど、それがどうかしたのかい?」


 ていうか、同級生の顔くらい記憶しとけよ、という言葉は心に留め、訊ねる。


「ああ、いや、単に俺の好みのタイプだったってだけ」

「ふぅん。紹介してもいいけど、彼女競争率高いぜ?」

「まあ、お前よりかわいいもんな」

「だから一言余計だっての。あたしだって結構モテるんだよ?」

「知ってる知ってる。入学当初は紹介してくれって鬱陶しいくらいに来たからな」

「それを言うならあたしもなんだけどね。きみ、顔だけはいいから」

「はあ? 俺とか聖母かっつーくれぇに優しいだろ。ほら、荷物持ってるし」


 紫苑の言い分に、葵はふむと考える。確かに、なんだかんだ言っても彼はいつも付き合ってくれるのだ。


「きみってツンデレだよね」

「死ね」

「照れんなよぉー」

「う、うぜぇ……」


 抱きついてくる幼馴染みをかなり本気で引き剥がしながら、紫苑は進む。一体、どこへ向かっているのだろうか。友達の家とは聞いていたが、誰のかを聞いていない。


「つーかさぁ、友達って誰?」

「ああ、それは——ん、着いてからのお楽しみにしとこうか。あたしも初だから途中で待ち合わせてるんだけど、びっくりするぜ?」


 テンションの上がっている葵の様子を見て、紫苑は粗方の予想をつける。まあ、そういうことなら、来てよかったかもしれない。


「待ち合わせ場所は?」

「そこのコンビニー」


 葵が指差したコンビニはすぐそこだ。そのまま少し歩き、コンビニに辿り着く。


「んー、まだ来てないみたいだねぇ。ま、そのうち来るだろ。なんか適当に買って、待ってようか」

「ああ」


 コンビニで菓子類やらジュース類やらを買い、重くなった荷物に辟易しながら、目的の人物を待つ。と、二十メートルほど先に見覚えのある少女が現れ、紫苑はやっぱりかと思う。


 長い黒髪を靡かせた、紫苑曰く幼馴染みより美人な彼女は、軽く手を振りながら小走りで近寄ってくる。


「——あっ!」


 隣で幼馴染みが声を漏らしたときには既に走り出していた。急に駆け寄ってきた紫苑に驚き、彼女はその大きな目を瞬かせる。


「避けろっ! 上だっ!」


 黒髪の少女が上を向くと、自分に向かって落ちてくる巨大な看板が目に映った。まだ、避ける余裕はある。ほとんど反射的に足を動かそうとして——彼女は硬直した。


 いや、正確には、身体が動かなくなったと言った方が正しい。恐怖で、ではない。まるで自分の身体ではなくなったかのように、身体の自由が効かなくなったのだ。


「くそっ!」


 どうして避けない。彼女が身体を動かせない、なんてことを知らない紫苑は必死に駆ける。


 あの看板に当たれば無事では済まないだろう。幸い、余裕はある。彼女を突き飛ばして自分も避けるくらいの時間はある。


 そうして、彼女の目の前にまで迫った紫苑は、そのままの勢いで彼女を突き飛ばそうと腕を伸ばす。紫苑の手が、彼女の肩に触れ——彼女はぴくりとも動かなかった。


「え——」


 意味が分からない。どうして動かないんだ? それに、押しているという感覚がない。力は入れているつもりなのに、霧散して全く表面に出てこないのだ。自分の身体が、完全に止まっている。


 気づいたときには、彼女の頭上は暗くなっていた。幼馴染みの叫び声が耳に届く。


 なにかを考える暇もなく、紫苑の意識は刈り取られた。


        × × × ×


 葵は口を開いたまま立ち竦んでいた。


 今、目の前で起きた出来事が信じられない。


 巨大な看板の下から、大量の血が地面に流れていく。これは現実なのだろうか。そんな馬鹿みたいなことすら考えてしまった。夢か幻だったらどれだけいいか。


 紫苑は幼馴染みで、家族のような存在だ。口喧嘩は絶えないけれど、本当に気を許せる相手だった。


 黒髪の少女は今年度から仲良くなった友人で、気の合う子だった。紫苑のことが好きで、すごく純粋な女の子だ。紫苑から彼女がタイプだと聞いたときは、二人が付き合う未来を想像して、なんだか幸せになったりもした。


 それが、どうしてこんなことになっている?


 ふらふらと覚束ない足取りで、葵は看板に近づく。まだ、生きているんじゃないだろうか。実はどっきりだったり、するんじゃないだろうか。そんな現実逃避が、脳裏を過る。


「嘘……だろう?」


 二人に向けて発した言葉に、返事はない。そして、葵が看板の前で膝から崩れ落ちたときだった。


 看板が、建物が、人が——世界が灰色に染まる。


「え?」


 なにが起きたのだろう。辺りをきょろきょろと見回すと、一つの光る球体が目に映った。光る球体は遠くもなく近くもなく、距離感の分からない謎めいたなにかだった。それはふよふよと宙に漂いながら、声を発した。


「——彼らを救いたいか?」


 葵は考えるまでもなく頷く。


「なら、私とともに来い。お前に力を与えよう」

「あなたは……」


 戸惑う葵に、光は答える。


「私は地球を管理する者。ここ、日本では——神と呼ばれている」


 西暦二○一五年、十二月十二日。紗倉葵は——神と出会った。

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