間奏曲Ⅰ
紅く発光する蔓の隙間から月明かりが漏れる。
邪悪さを際立たせるスポットライトを浴びているのは、この世界で魔王と呼ばれている存在だ。
——結局、俺はなんのためにこの世界に転生したんだろう。
前世の記憶を脳裏に浮かべながら、魔王——ディゼスピア・ノット・ドゥ・ノアカヴァリエルは、眼前に現れた白騎士に声をかける。
「よく来たな」
自らの口から飛び出す厳つい声。最初は戸惑ったものだが、この声にも、この身体にも、もう随分と昔に慣れてしまった。
「……魔王ディゼスピア。ようやく、会えたな」
神々しいまでに白い鎧と、白い髪を持つ女は、凛とした瞳でディゼスピアの姿を捉える。
その顔は若々しく、普通の女性であれば一番魅力溢れる時期だろうことが分かる。まだ二十歳にもなってないんじゃないか? そんなことを考えるも、年齢なんてたいした問題ではないなと自嘲じみた笑みをこぼす。
「はぁ……出来れば会いたくなかったぜ」
女の身体から漏れる聖気に吐き気がする。魔王であるディゼスピアは光が苦手だ。太陽光は問題ないが、聖気からなる光なんて出来れば一生見たくもなかった。
それは眼前の女も同じはずなのだが、女はディゼスピアの心中とは正反対の言葉を発する。
「私はずっと会いたかったぞ?」
くすくすと笑う女からは、今から殺し合いをするような雰囲気を全く感じなかった。膨大な魔力に創造神の加護。魔王であるディゼスピアと一対一でも競り合うだけの実力があることは疑いようもなかった。
「俺に恨みでもあんのか?」
そう問うと、女は首を傾げて、けろっとした顔でこう答えた。
「——無いな」
「……ま、そうだろうな。お前はなにをしにここへ来た?」
「貴様を殺すため、だ。当然だろう」
何を言ってるんだ、と、そんな目で見られる。恨みもなしに殺される身にもなって欲しい。
「貴様は魔王で、私は勇者だ。戦う理由はそれだけで充分だと思うが?」
勇者——リーザ・フライア・フォン・ヴァイスリッターの言に、ディゼスピアは納得した。
そんなことは最初から分かっていたことだからだ。分かっている、納得している、でも、なにも言わずにはいられない。
「そりゃあ、まあ、そうなんだろうけどな……アホくせぇと、そう思わねぇか?」
本当——くだらない。
なにが勇者、なにが魔王だ。つまらないことをいつまでも引きずって、煽って、終わらせられるものを終わらせようとしない。
「思わなくもない。だが、それが摂理だ。貴様ら魔族は聖族を殲滅することを望み、私達聖族は魔族を殲滅することを望む。貴様も私を殺したくてたまらないだろう?」
「ああ」
「——私もだ。これは、数百年前から続いてきた、もはや習慣足るものであり、私達が変えられるものではなかろう」
その通りだと思う。だが、同時に気味の悪い話でもある。
お互い恨みなんてありはしなのに、それでも、彼と彼女は殺し合うというのだから。
「私は創造神に、貴様は破壊神に、お互い大変だな」
「そう思うなら、死んでくれねぇか?」
そう言うと、リーザは豪快に笑った。可笑しいだろう、ディゼスピアも冗談のつもりで言った。
「ははっ、それは無理な相談だな。私もまだ死にたくはない」
「俺も死にたくねぇんだよ」
「だろうな」
渇いた笑いが室内に響く。
これは、この談笑の時間は、最後の悪足掻きだ。お互い殺したくて堪らなくても、そのときが来るまで、会話でごまかす。
「なんで一人で来たんだ? 勇者は代々仲間を引き連れて来ると聞いていたが」
「ははっ、私は案外嫌われ者なんだ。それに、魔王、貴様と話がしたかったんだ。仲間なんて連れて来たらゆっくり語らうことも出来ないだろう? だいたい、貴様こそ配下一人つけていないではないか」
リーザの言葉に、ディゼスピアは少し驚く。どうやら、ディゼスピアとリーザは似たもの同士らしい。
「俺も、お前と話がしたかった」
「ほう……。気が合うな」
「だな。……癪じゃねぇか、このまま、なにも出来ずに殺し合うなんて」
「ああ、それには同感だ」
本当に気が合う。出来れば同種属で出会いたかったものだが、それを言ったところでなにかが変わるわけでもない。
「俺達みたいなのが依り代になっちまうとは……創造神も破壊神も今回ばかりは運が悪かったな」
「だな! まあ、私達も運が悪かった方に入るのだろうがな。なぜ、受け入れられないのか。魔王も、こうしてみれば、ただの人間なのだがな……」
「それが摂理なんだろう?」
ディゼスピアの返答にリーザは面を食らったような顔をして、盛大に笑った。見ている方が気分が良くなるくらいのいい笑顔だった。
「いや、最期に貴様のような男と出会えてよかった」
「最期? お前は勝つつもりじゃないのか?」
「いや、勝つつもりだ。だがな、魔王、こういう話を知っているか?」
リーザは嬉々として語り出す。
それは勇者の伝説のようなものだったが、ディゼスピアには聞き覚えのないものだった。おそらく、聖族の伝説なのだろう。
大袈裟な身振り手振りで語るリーザを見て、苦笑しつつ、その伝説に聞きいる。結末は、こんな言葉で締めくくられた。
「『勇者はその聖なる力をもって魔王を打ち倒した。魔王との熾烈な戦いによって力衰えた勇者は生き残った魔族にその尊い命を奪われてしまったが、魔王を失った魔族は勢いを衰えさせ、聖族の英雄達によって葬られた。こうして聖族は魔族に勝ったのだ』」
語り終えると同時に二人して笑う。
二人にとっては、おかしいとしか思えないものだったからだ。おそらく、他の魔族が聞いても首を傾げるだろう。これを聞いて魔族に憤慨するのは聖族だけだ。
笑いを堪えながら、ディゼスピアはリーザに問う。
「その魔族は一体どうやって勇者を倒したんだ?」
「さぁな。聖気を振り払う力でも持っていたのではないか?」
「おお、それは凄い。是非ともご教授してもらいたいものだな!」
この、末端の魔族なら近づくだけで消し飛ばす程の聖気を持つ勇者を、名も知れぬ魔族がどうすれば倒せるというのか。ディゼスピアにはその矛盾がおかしくてたまらなかった。
「そもそも、魔王と勇者の戦いにおいて、勝敗というものは一瞬で決まると言っていい。だから俺達はこうして、死ぬ前に話をしている。そうだろう?」
「ああ、全くもってその通りだな……本当、嫌になるよ、こんな役目は」
片手で額を押さえ、わざとらしく上を見上げるリーザ。
一瞬で決まる戦いでは確かに全力を出すが、一瞬の全力で消費する力などたかがしれている。ただの魔族が勇者を倒すことなど、どう足掻いても不可能だ。
旧魔王城に保管されている勇者についての書物には、勇者は仲間を引き連れてくると書いてあるが、それは魔王の力が勇者の力よりも強大だからではない。
魔王と拮抗した力を持つ勇者が、魔王に辿り着くまでに勇者の力を消費しないために、だ。僅かな差も生まれないように、勇者の仲間が魔王の側近の相手をする。
勇者が勝ったのならば、勇者は安全に聖族の領地まで帰れるはずなのだ。
つまり、そういうことなのだろう。
「貴様を倒して帰ったところで、私は欲に塗れた奴らによって消される。だから、最期、だ。私は魔族相手には一騎当千だろうが、聖族相手には己の技量のみで戦わなければいけないからな。いや、むしろ、それ以上、か」
創造神の力というのも厄介なものだ。
魔族相手にはその聖気でもって強大な力を発揮するが、聖族相手にはその加護を本人の意思とは関係なくかける。勇者を殺すことくらい、いつでも出来るというわけだ。
そういう意味では、破壊神の力の方が恵まれているか。
「さて。そろそろ、我慢も限界だ」
リーザは苦々しい表情を浮かべ、重々しい動作で腰にぶら下げていた聖剣を抜く。戦いたくないという感情が伝わってくるようだった。
だが——殺したい。
時間にして三十分程度だろうか。そんな僅かな時間でも、ディゼスピアとリーザの欲求を膨らませるのには充分だったらしい。
魔剣の柄に手を置き、ディゼスピアは改めてリーザと対峙する。
「なぁ、最後に一つだけいいか?」
「なんだ?」
「輪廻転生って言葉を知ってるか?」
リーザは眉を顰める。聞き慣れない日本語の発音に戸惑っているのだろう。
「……なんだそれは?」
その返答は予想していたものだ。この世界にはそんな概念はない。死んだらそこで終わり、それがこの世界の常識だった。
「死んでも、肉体とは別に魂というものが廻り、再び生を受ける、という意味の言葉だ。もっとも、記憶は受け継がないらしいがな」
説明すると、リーザの顔色が変わった。そして、予想外の返答がディゼスピアの耳に届く。
「まさか……きみ、転生者なの?」
——転生者。
そんな言葉を知っているのは、この世界では転生者だけだ。
「お前も、なのか……?」
「う、うん」
まさかと思い、ディゼスピアはこの世界の言語から、前世の言語へと切り替えて声を発する。
「日本」
その単語を聞いた瞬間、リーザは目を見開く。そして、リーザはなにかを確信したような顔になり、ディゼスピアの使った言語——日本語を使って答える。
「わ、私も……日本」
先までの威勢はどこに行ったのか、リーザは狼狽えたように後退する。心なしか言葉遣いまで変わってる気がするが、それは、これがリーザの素だったということだろう。
「そんな……そんなことって……。なんで、こんな……っ!!」
つうっと、リーザの頬を雫が伝う。
その気持ちはディゼスピアには身に染みて理解できた。
「「ずっと探してた」」
全く同じ台詞を全く同じタイミングで言った。それも当然だとディゼスピアは思う。こんな——
「こんな、こんな訳の分からない世界に、理由もなく生まれ変わってっ!! どこかに私と同じような人がいるかもって、ずっと!! ずっと、探してたっ!!」
自分がどうして死んだのかも分からず、勇者だ魔王だと持て囃され、どうしていいか分からないまま、これまで生きてきた。
「なのに、なのに、どうして……っ!! やっと会えたのに、もっと話したいのに、どうして……」
「——それなら」
と、リーザの言葉を遮り、ディゼスピアはリーザに告げる。
最初に言いたかったこととは少し異なるが、まあ、だいたい同じだ。
「それなら、また転生して会えばいい」
「そんな、簡単に……」
「会えるさ、必ず。また勇者と魔王かもしれないが、それでも、次はもっと足掻いてやろう。俺とお前で、この糞みたいな現実を——変えてやろう」
こくり、と。リーザは何度も何度も頷く。
「お前、名前は?」
ディゼスピアの問いにリーザは首を傾げる。勇者の名前を知らないなんて、と思ったからだ。
リーザはディゼスピアの名前をフルネームで記憶している。勇者と魔王の名はパターンが決まっていたから、何度も伝説を言い聞かせられるうちに勝手に覚えたのだ。
「リ、リーザ・フライア・フォ——」
戸惑いを覚えつつも名乗ろうとすると、またもディゼスピアはそれを遮る。
「ああ、いや、言い方が悪かったな。それじゃない。日本での名前だ」
リーザはそこでようやくディゼスピアのしたいことを理解した。
日本での自分の本名を知っているのは、この世界ではもちろん自分だけだ。それをディゼスピアに教えておけば、もし本当に転生したとき、お互いを確認する手段として使うことが出来る。
そんなことにも思い至らなかった自分を少しだけ恥ずかしく思うのと同時に嬉しくなる。
ディゼスピアが本気で来世で出会おうと思っていてくれているのだということを理解して。
誰かに聞かれているという心配はいらなかった。日本語を理解できるのは、この世界ではディゼスピアとリーザだけだ。
「——
「そうか、京華。俺は
「し、紫苑?」
「どうした?」
「あ、ううん、……いい名前だなって思って」
「それはどうも」
お互いがお互いの名を反芻して胸にしっかりと刻み込む。
そして、視線を交差させ、微笑んだ。
「さあ、やろうか、勇者よ」
「……うん、手加減はなしだよ」
ディゼスピアは魔剣を鞘から抜き、構える。
最強の黒騎士と最強の白騎士の気迫は大気をも震わせる。もし、この場に他の魔族や聖族がいたなら卒倒していただろう。
生と死を分かつ一瞬の戦い。
ディゼスピアとリーザはありとあらゆる強化魔術に己の魔力を注ぎ込み、地を蹴る。
——衝突。
光と闇の力は凄まじい衝撃を辺りに伝え、城を半壊させた。
膝から崩れ落ちたディゼスピアが仰向けになれば、輝く星空が視界一杯に広がる。
——ああ、負けたんだな。
清々しさを感じながら、そんな独白をした。
胸に空いた風穴からはどくどくと血が溢れているが、それだけなら回復魔術を唱えればどうにでもなる。
しかし、穴の淵は聖気に侵され、魔族の魔術では治癒することが出来ない。さらに、聖気によって徐々に身体が消滅していく。
「死ぬのか……」
不思議と、嫌とは思えない。即座に不思議でもなんでもないなと否定した。
目線を動かし、唇を噛み締めるリーザを窺う。
死ぬのは怖くない。
もう、希望があるから——
「手……抜いたでしょ」
リーザはディゼスピアの前に膝をつき、鋭い眼光を向けてそう言った。
今すぐにでもディゼスピアの息の根を止めたいのだろう。握りしめた手は震えていた。
「つい、な……」
「嘘っ! つい、なんてそんな理由で手加減できるなら、私達は殺し合いなんてしてないっ!!」
それもそうかと納得してしまいそうになる。しかし、それは堪えた。
力を振り絞り、ディゼスピアは手をリーザの頬に当てた。いや、実際に触れたらリーザの頬は邪気に、ディゼスピアの手は聖気に侵されてお互いに消滅してしまうだろうから、触れるすれすれくらいなのだが。
「……こんな綺麗な顔のやつに剣を振り下ろすわけにはいかないだろ?」
「……こんなときに、冗談?」
邪気が近づき過ぎて相当気分が悪いだろうに、なんでもないかのように笑う。
「だって、殺したくなかったんだ。だいたい、俺が殺さなくても死ぬんだろ?」
「まあ、ね……。でも、どうせならきみに——紫苑に、殺されたかったな」
直後、「そうだ!」と、何かを閃いたかのように声を上げ、リーザはディゼスピアに覆い被さるようにして、抱きついた。
「な——」
「一緒に死んだ方が、同じ時代に転生出来るかもよ?」
「…………」
そんなことで可能性が上がるとは思えなかったが、それでも、確かに、少しくらい出来ることはやっておくべきだろう。
なんて、ディゼスピアは言い訳じみたことを考えて受け入れることにする。
「紫苑の顔、結構タイプかも」
「はは……来世もこの顔で生まれてくるように願っておくよ」
「性格も」
「性格は言わずとも変えようがない」
くつくつと笑う。
消滅に痛みが伴わないというのは、唯一の救いだったかもしれなかった。
「……ねぇ」
「なんだ?」
「私はどう?」
「どうって……さっき言っただろ? 綺麗な顔だ」
「そっか」
「あ——」
ああ、という同意の声を遮り、ディゼスピアの口は塞がれた。
「私のファーストキスだよ、前世も含めて。大切にしてね?」
悪戯っぽく笑うリーザの頬は紅に染まっている。ディゼスピア自身、なんだか顔が熱かった。
「なんで?」
ディゼスピアが尋ねると、リーザは少し間を置いて答える。
「……なんとなく。紫苑を私のものにしたくなったの」
「そりゃあ……随分と肉食だな」
「肉食は嫌い?」
「はは、いや、それくらいがちょうどいい」
——よかった。
そんな顔で、リーザはディゼスピアの胸に頭を乗せる。
「ねぇ」
「なんだ?」
「口から消滅するっていうのは、正直、みっともないと思わない?」
それをお前が言うのかと突っ込みそうになるが、ぐっと堪える。
「——確かに」
「じゃあさ、お互い魔力を全放出して、一気に消滅しちゃおうよ!」
「……それは名案だな」
少し惜しい気もしたが、それでも来世で会えると思えばそれだけで充分だった。
「決まりね。じゃ、三つ数えたら」
「わかった」
「いくよっ! 一、二、三ッ!!」
リーザからは尋常ではない聖気が、ディゼスピアからはおぞましいほどの邪気が溢れ出す。
モノクロになった城の中。
涙でくしゃくしゃになったリーザの笑顔を最期に、今代の魔王——ディゼスピア・ノット・ドゥ・ノアカヴァリエルの身体は消滅した。
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