負の旋律Ⅵ
ユリア・エイル・フライア・フォン・ヴァイスリッターはヴァイスリッター聖国の第一王女である。
ユリアの他に王女はおらず、三人の兄がいる。それ故に、ユリアに王位が継承されることはほぼありえない。
ユリアには天才的な戦闘能力がある。生まれつき魔術師の才能があり、剣士の才能も他者の追従を許さないほどだ。
それでも、一週間休む間もなく逃げ続ければ普通に疲労で倒れる。そんなギリギリの状態のユリアを救ったのが、ルク・ディゼスピアと名乗る少年だった。
ディゼスピア、という名からして、おそらく偽名であろうとは思っているが、本名を聞こうとは思わない。彼にも彼なりの事情があるのだろうし、ユリアだって彼に少なからず嘘を吐いているのだから。
しかし、ユリアにはルクにどうしても尋ねてみたいことがある。
目の前を歩くルクの髪は今現在は白だ。だが、助けて貰ったときに確かに黒に変わった。髪の色が一瞬で変化するだなんて、そんな話は聞いたことがない。
魔術で認識をずらしているだけだという可能性はないだろう。聖族は魔族を憎んでいる。髪の色を誤魔化そうと、ルクが実は魔族だったなら、少なからず悪感情を抱いているはずだ。
そんなことは全くない。それどころか好きになってしまった。
聖族と魔族の混血なのだろうか。いや、それはありえない。聖族と魔族は触れ合うことすら許されていないのだから。
ユリアはその仕組みを聞きたくて仕方がない。そこまでの強さを手に入れれば、ルクに迷惑を掛けずに逃げ切ることも容易になる。
だが、聞くことは出来ない。誰だって言いたくないことはある。
ルクだって自分がそれを気になっているということは察しているはずだ。それでも言わないということは、知られたくないことなのだろう。
だから、今は我慢する。また会えたときには尋ねてみよう。そのときには自分も包み隠さず話すつもりだ。
× × × ×
ひたすら国境に向かって歩くこと二日。ルクスはとうとうグライミリティス王国へと戻って来た。それでも安心は出来ない。振り向けば少し先には今抜けてきたばかりの森がある。
しかし、だからと言ってユリアに着いて行くことは出来ない。国境まで、それがディゼスピアとの約束だ。ユリアからは体調は万全ではないものの、充分に回復していると聞いている。逃げ切ることが出来ないとは考えにくい。
心配だ。頭では理解していても、心が納得していない。
別れた途端に襲われるのではないだろうか。そんな不安が波となって押し寄せてくる。
「ここでお別れ、だね」
声音が随分と未練がましくなってしまった。それも仕方がないことだろう。いくら会おうと思っても、これっきりの可能性は低くないのだから。
「はい。ありがとうございました」
にこやかに笑う彼女を見ると、ここまで送ってよかったなと思える。他人とまともに会話をしたのは何年ぶりだろうか。この二日間は充実したものだった。
もう一日も歩けば聖族との交易が盛んな都市まで辿り着けるだろう。いくら聖族との交易が盛んだと言っても、騎士団を派遣してくるようなことはないはずだ。
グライミリティス王国は中立国だ。そこに攻撃を仕掛ければ、ヴァイスリッター聖国の勝ち目はなくなる。魔王を倒せたとしても、結果的に負けることになるだろう。
「ルクさんはどちらへ向かわれるのですか? やはり魔導国でしょうか?」
「いや、ぼくは——」
聖国に向かうと言いかけて、ルクスは顔を強張らせた。
首を傾げたユリアを無視して、振り向きざまに魔術を展開する。
「展開——Df.Angelus No.VI
瞬間、ルクスとユリアが白く薄い膜に覆われていく。それと並行して、森の方角から大量の矢が降り注いだ。
「……すごい」
ぽつりと言葉を漏らしたユリアの目に映るのは、矢がことごとく膜に弾かれているという光景だった。全てを防ぎきり、膜はすうっと霧散していく。
「結界、ですか? 聞いたことのない魔術です」
一般的な魔術は全て【Atk.】か【Df.】から始まる。攻撃魔術か守護魔術かを指定するのだ。そこは、ルクスの詠唱も同じだった。問題はその後、【Angelus】だ。通常ならば、ここでは使用する属性を唱え、指定する。だが、ルクスにはそれがなかった。
「まあ、それはね」
聞いたことがないのも当たり前だ。天使だけが行使出来る魔術なのだから。
「そんなことより、だ」
「……そうですね」
森から姿を見せたのは五十はいるだろう騎士団だ。予想はしていたが、驚きはある。
〈まさか、こんな早く来るとはな〉
空気を読んでいたのか、ずっと黙っていたディゼスピアが呆れたように言う。
追手の騎士を殺してまだ二日だ。ユニコーンなら聖都からここまで二日で来れるだろうが、それでもおかしい。
死んだという情報をどこから手に入れたのか。伏兵がいたとしても、気配で気づいていたはずだ。あのとき、周囲には他の人間はいなかった。
〈ったく、聖国の情報網はどうなってんだ。もともと部隊を分けてたのか? 面倒くせぇ〉
(まあ、戦うしかないよ)
〈分かってる。……肩慣らしくらいにはなるか。よし、一緒に殺るぞ〉
ディゼスピアの言葉にルクスは狼狽える。
(い、いや、ぼくは無理だって)
〈いつまでも、ぼくは人は殺せません、じゃあ困んだよ。覚悟決めろ。守りてぇんじゃねぇのか〉
守りたい。確かにそうだ。自分はユリアを守りたい。その気持ちは今でも変わらない。
背後には守るべき存在がいる。眼前にはそれを狙う騎士が五十。ユリアはヴァイスリッター聖国の王女で、騎士は聖国に忠誠を誓う白騎士だ。
ユリアに危害を加えるとはとても思えないが、本人が自分の身が危ないと言っている。自分の考えとユリアの言葉、どちらを信じるべきかは考えるまでもない。
誰かを守ろうと思ったことなどなかった。
誰かに必要とされたこともなかった。
自分の命に価値を感じなかった。
(その全てをぼくに教えてくれたのはユリアだ)
守りたいという気持ちも、頼られた経験も、生きたいという意志も、全て彼女から教えてもらった。
父親に殴られたとき、家が潰れたとき、母親に無視されるようになったとき、村人から軽蔑の視線を向けられたとき、自分はなんのために生きているのだろうと頭を悩ませた。
ディゼスピアからは度々、世界を平和にするためだ、不毛な争いを止めるためだと言われた。自分が強くなっていくことを自覚してはいたが、実感は沸かなかった。
ディゼスピアは生まれたときからいたし、村に戦士はいなかったから尺度が分からない。髪の色を黒や白に変えられることも、天使や悪魔の声が聞けることも、ルクスにとっては当たり前の日常でしかなかった。
もし、勇者と魔王を殺して国を纏めれば自分は自分自身に価値を見出せるだろうか。きっと、そう感じたから、自分は英雄になりたかったのだ。
自分の働きで魔族と聖族が共生するようになったのなら、満足出来る。生きたいと、生きててよかったと思える気がした。
英雄は皆から愛され、必要とされるものだ。そして、皆を救うものだ。
たった一人の少女を救えずして、英雄になれるものか。愛する人も守れないものが、英雄を名乗れるものか。
(——やってやる)
今、やるべきことは決まった。ルクスは決意を固め、ディゼスピアと身体を共有するべく呪文を詠唱する。
「解放——
「な、銀髪……?」
この二日間何度も聞いた驚愕の声が背中に届く。白、黒ときて銀だ。驚くのも無理はない。
〈皆殺しだ。だが使うのは攻防ともに一番のみにしろ〉
(ハンデか?)
〈違ぇよ、そんなことをしてやる理由はない。そうしなきゃ準備運動にもならねぇからだ〉
(なるほど)
ルクスは納得して、早速魔術を唱える。
「展開——Atk.Angelus No.I
続けて、ディゼスピアが唱えた。
「展開——Atk.Diaboli No.I
右手に聖剣を左手に魔剣を握りしめたルクスは敵を見据え、出せる最大の力で地を蹴る。
地面が激しい音を立てて陥没し、ルクスの姿が消える。それとほぼ同時に、一人の騎士の首から上が地面に転がった。
——戦慄。
続け様にその隣の騎士の首も飛ぶ。そこでようやく、騎士団は状況を理解したようだった。狩るものと狩られるもの、自分達がどちらなのか。
「撤退っ!」
指揮官らしき人物が叫ぶ。いまだ呆然としていた騎士達もはっと意識を戻し、ユニコーンを操って森の中へ逃げようとする。
「散開しろ! 全滅は防げ! このことを必ず聖王さ——」
「やかましい。余計なことすんじゃねぇよ、面倒くせぇ」
ごろごろと転がる頭部に目もくれず、ディゼスピアは舌打ちをしてその場から消え去る。
森の中は地獄と化していた。ある騎士の首は斬り落とされ、またある騎士の胴体は別たれる、そしてある騎士の背には剣が突き刺ささった。
ルクスはふと立ち止まり、顔を上げる。視界には屍のみが映っていた。そして首を傾げた。
× × × ×
騎士は走っていた。
ただ、がむしゃらに走っていた。仲間は皆、やつに殺されてしまっただろう。一体なんなんだ、あの化物は。
あれは人間ではない。人の姿をした化物だ。あんなのと戦うくらいなら、魔王と戦った方が幾分かマシなのではないだろうか。そのくらいの強さだった。
勇者や魔王と互角かそれ以上の実力。聖気は勇者に及ばないだろうし、邪気も魔王に及ばないだろうが、その両方を併せ持つ謎の剣士。
問題は、あの聖剣と魔剣だ。聖国に伝わるものではないことは分かる。聖国の聖剣は見たことがある。しかし、それならば、あの剣はなんだ。
聖剣も魔剣もこの世に一つずつしかないはずなのに。魔王と勇者にしか扱えないはずなのに。まさか、あれが魔王なのだろうか。だが、魔王が聖剣を使うなんて話は聞いたことがない。
それに、弓を防いだあの魔術。聞いたことがない詠唱だった。
甘く見ていた。極秘に動いていたために、最大戦力を連れてこられなかったのも痛い。ちなみに彼は騎士団の中でも下っ端だ。
だいたい、聞いていた任務と違うじゃないか。彼は舌打ちする。
姫を追っていた白騎士六名が魔族に返り討ちにされたため、それを始末するという任務だったはずだ。それがどうしてこんなことになった。
それともあれが魔族なのか? と一瞬考えるが、頭を振る。銀髪の魔族など見たことがない。それ以前に銀髪の人間を初めて見た。
まさか、魔族が生み出した人間兵器なのだろうか。ぞっとする話だ。だが、やつらならやりかねない。
なにせ、悪逆非道と名高い王だ。彼も、魔王の暴虐は幼い頃より聞かされてきた。人体実験を行っていても不思議ではない。
一刻も早く、聖王に伝えなければ。聖剣と魔剣を持つ男の強さを。魔導国の悪行を。銀髪は伝えるまでもないだろう。そして、絶対に姫を連れ戻さなければ。このままでは聖国は確実に負ける。
もうすぐ、森を抜ける。
戦闘が始まってすぐに隊長から渡された緊急避難用の転移結晶でここまで来たのだ。
転移する場所はランダムだが、森の全長は七十キロ以上ある。迷いの森という名がつくだけのことはあり、進路を阻む魔物も多い。このまま逃げ切れるだろう。
「見つけた」
「——え?」
一瞬、なにが起きているのか理解出来なかった。口を開けて、彼は立ち止まる。自らの使命を全て忘れてしまうほどに、衝撃的だった。
銀髪、両手の剣、鼠色のローブ。間違いなく、あの人外だ。どうしてここにいるのだろう。まさか転移を個人で使用できるのだろうか。それとも魔導具でも持っているのだろうか。
次に発せられた言葉に、耳を疑った。
「転移でも使ったの? ここまで走ってくるのは流石に疲れたんだけど」
走った、と。今、確かに、目の前のなにかはそう言った。転移してから、まだ体感では十五分ほどしか経っていない。絶望しかなかった。
自分のような末端の騎士が逃げ切れるような相手じゃなかった。これから逃げ切れるのは、勇者と魔王を除けば、大魔術使いか、地上最速と謳われる今代の剣聖、歴代最強の現聖女くらいのものだ。三人とも勇者の仲間になる予定の強者である。
それにしても、どうして自分が逃げたことに気づいたのだろうか。木の幹に隠れて、視界に映らないように転移したはずなのに。
その答えは、眼前のなにかがゆっくりと歩み寄りながら教えてくれた。
「森の中程度でよかった。最初っから皆殺しにする予定だったから数を数えておいたんだけど、一人足りないから焦ったよ」
なんだこいつ。頭を抱えてうずくまりたい衝動に駆られる。
五十以上の騎士を相手にして、それを尋常ではない速さで
だが、今ここにいるということが、その言葉全てが真実であると雄弁に語っている。
「それじゃ、また」
言って、なにかは自分に向けて剣を振る。また、なんて笑えない冗談だ。一体どこでまた会うと言うのか。
「来世で」
らいせ? 聞き慣れない発音の言葉の意味を知ることなく、一人の騎士の命は散った。
× × × ×
ルクスが一仕事終えたような顔でユリアの元まで戻ると、ユリアは居なかった。
どこに行ってしまったのだろうか。あれだけの人を全員殺したのだから、恐れられて去ってしまったのかもしれない。少しだけ悲しいが、ユリアが無事ならそれでいい。
そう思って森に引き返そうとすると、ユリアが陰鬱な雰囲気を纏って森から現れた。
「どうしたの?」
ルクスが聞くも、ユリアは
ユリアの心中はかなり重かった。自分のためにこれだけの人が死んだのだ。そのことになにも感じないほど非情にはなりきれない。
それをルクに言うのは我儘に過ぎるということも理解していた。彼は自分のために戦ってくれたのだ。分かっている、分かっているけれど、なにも殺さなくてもと思わずにはいられない。
それでも、彼がいなければ自分は捕まっていただろうことを考えると、これだけの犠牲で済んで良かったなんて思えてしまうのだから、気持ち悪い。
自分のために逃げて、自分のために戦ってもらって、自分のために死んだ人を見て罪悪感を抱き、自分の身を案じると割り切れる。たった今手を合わせてきたのも、多分罪悪感から逃げたかっただけなのだ。自己中もほどほどにしておいた方がいい。
「さて、では今度こそお別れですね」
寂しくないと言えば嘘になるけれど、これ以上彼と一緒にいると、自分の醜い部分が表層に出てしまいそうで嫌だった。
「だね」
「またいつか、会いましょう」
「うん。またね」
微笑む彼を見ていると、さっきまでの戦いが嘘だったかのように感じる。しかし、確かに騎士達は死んだのだ。
自分はその命を犠牲にして生きているのだということを忘れないようにしようと誓った。彼の存在があれば、どんな苦しみも乗り越えられる。
背を向けて、ルクは森へと進んで行く。ぼうっとそれを眺めていると、はたとなにかに気づいた顔になった。
「ル、ルクさんっ!」
「ん? なに?」
呼び止められたルクが振り向く。
「ど、どこに向かうつもりですかっ」
「え? 聖都だけど……?」
思っていた通りの返答だったのに言葉に詰まる。そうか、そういうことだったのか。少し考えれば分かることなのに、自分はなにを勘違いしていたのだろう。
「聖都には……、というより、聖国にはもう近寄らない方がいいです」
ルクは首を傾げる。当然だ。その意味が分かるのは、聖国民だけ。最初から分かっていたのは、王族や騎士団だけだろう。
今まで当たり前のことだったから、気づくのが遅くなった。
「おそらく……あなたは既に、指名手配されています」
ルクの顔が驚愕に染まる中、ユリアの心を占めていたのは後悔だった。
出会って二日。初めて出会わなければよかったと思った。
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