負の旋律Ⅴ


「私は今、あなたを騙そうとしました」


 そう告白したユリアの表情は暗いままだ。そしてまた疑問が増える。


 騙されそうになっていたなんて、全く分からなかった。ディゼスピアなら気づいたかもしれないが、ルクスは人の悪意に敏感ではないし、頭を使うのも得意ではない。


 今だって、自分を騙そうとしたユリアに敵意を向けるどころか、なにをどうやって騙そうとしたのか訊きたいという好奇心が胸の内を埋めている。


「ルクさん、あなたに断られたとき、私は本当は国境までだなんて思っていませんでした。私が王女であることを信じてもらえていないから断られたのだと思ったからです」


 どうしてそんな風に思ったのかもルクスには分からない。ルクスは黙って聞くことに専念する。


「王女を誘拐するのはもちろん大罪ですが、利益もあります。要人の誘拐というのは基本的に交渉材料に使われますね」


 ここまで言えば分かるだろうという顔をする。そんな顔をされても、全く分からない。


「続けて」


 なにがおかしかったのだろうか。ルクスの言葉に、ユリアはくすりと笑みをこぼして、促されるままに話を続けた。


「先ほども言いましたが、私は王女であるとともに、それなりの力を持っている戦士でもあります。王族は神の子の末裔なので、稀に天才的な戦闘能力を持った子供が生まれるんです。私もそれです」


 それ、という代名詞に、ルクスは眉を顰める。まるで自分のことを道具かなにかだと思っているような言い方だったからだ。


 そんなルクスの機微を察してか否か、ユリアは慈しみを込めたような微笑を漏らす。


 ルクスには彼女がなにを考えているのかが分からない。ルクスが理解できるのはディゼスピアのことだけだ。ディゼスピアも自分のことを理解してくれているだろうと思っている。


 人を理解するのは大変なことだ。普通の人にだって一時間で相手を理解できる者などいない。両親のこともまともに理解していなかったルクスに分かるはずもなかった。


「つまり、私を誘拐するということは、聖国に対して大きな交渉材料を手に入れるということになります。どんな要求でも通るとは言いません。聖国が武力行使を行ってくる可能性も低くはないでしょう。ですが」


 そこまで言って、ユリアはその黄金に輝く瞳でルクスを真っ直ぐに見つめる。いや、正確には、ユリアの視線はルクスの髪に向いていた。


「——あなたには不思議な力があります。鍛錬を怠らなかったのでしょう。それを扱えるだけの技量も備わっている。聖国が武力行使を行ったとしても、失敗に終わる可能性は高い。いえ、絶対に失敗するでしょうね」


 褒められて悪い気はしない。ルクスは口の端を僅かに上げて、脳内に感謝の言葉を囁く。ルクスが強くなれたのは紛れもなくディゼスピアのおかげだ。彼なくして今のルクスはありえない。


「そうなってしまえば、聖国はあなたの要求に従うしかなくなります。私を見捨てる、という可能性は低いでしょう。私には勇者の仲間となり、魔王の側近を倒すだけの力がありますからね」


 そんなに強いのか、とルクスは改めてユリアの身体を見る。線は細く、とても戦えるようには見えない。だが、見た目の強靭さと強さは必ずしも比例しない。


 ディゼスピアに、魔族には骨と皮しかないような細腕で大岩を粉々に粉砕するやつがいたと聞いたことがある。見た目に惑わされるな、どんな敵が相手でも警戒を怠るなと耳がたこになるほど言われた。


「それに私は望んであなたに着いていっている。そのことは聖国にも分かるでしょう。逃げ出した王女が強大な力を持つ男を味方につけたと、そんな厄介な話はありませんから、下手をすれば聖国側から交渉を持ちかけてくるかもしれません」


 人を一人攫うだけでそんな大事に発展するのか。ルクスは驚きを隠せず目を白黒とさせてしまう。王女を攫うのは重罪だということは分かるが、思考はそこまで及ばない。


「そうなればもうこっちのものです。莫大な財宝なり、王家の家宝なり、好きなものを望んで私を裏切ればいい」

「そんなことはしないよ」


 口が勝手に動いていた。なにを言っているんだと怒りすら湧いてくる。好きな女を売った金で暮らしたくなどないし、そもそも売りたくもない。彼女を危険から解放したいから、彼女を国境まで送るのだ。


「ふふっ、そうですね。ルクさんはそんな人ではなかったようです。私の考えは完全に的外れでした。そうやってルクさんに安全な場所——そうですね、グライミリティスの端、魔導国国境間際まで連れて行ってもらい、私はあなたを裏切り、逃げるつもりでした」


 そこまで考えての行動だったのか。はあ、とルクスは感嘆の声を漏らす。


「そうなんだ」


 感心するばかりだ。普通の人はいつもこんなにも多くのことを考えて暮らしているのだろうかと考えると憂鬱になるため、ユリアが特別なのだと思い込むことにした。


「……えっと、それだけ、ですか?」


 ユリアが困ったように言う。


「うん? ……うん」


 一瞬、なにを言って欲しいのか考えたが、これまでの会話でどうせ自分にはなにも分からないことだけは分かりきっている。それなら、いちいち頭を使って疲れるのは無駄でしかない。


「はあ……」


 ユリアは呆れたようにため息を吐いた。


「なんというか、凄いですね、ルクさんは」

「そうかな?」


 よく分からないが、鼻が高くなる。想いを寄せる相手に凄いと言われただけで、これからの人生を前向きに生きていける気がしてくる。


「そうです。人を疑うことを知らないというか、汚れを知らないというか。普通、騙そうとしていたと言われたら、怒るか見放すかするはずです」

「……そういうもん?」

「そういうものです!」


 心なしか憤慨しているように見える。でも、別に自分は人を疑うことを知らないのでも、汚れを知らないのでもない。ただ、ユリアになら騙されても構わないし、ユリアが汚れていても気にならないだけだ。


 それに、まだ怒る理由も見放す理由もない。


「でも、結局騙されてないし、きみはぼくに本当のことを話してくれただろ? ぼくに被害はないんだから、きみに怒るのはおかしい」

「……もし」


 ルクスの言葉に面食らったユリアは、考え考えしたのちに、重々しく口を開いた。


「もし、今の話も全て嘘で、私があなたを嵌めたときも、同じことが言えますか」

「それは無理だ」


 返答に迷いはなかった。ルクスの返答を聞いて、ユリアは残念そうでそれでいてほっとしたような複雑な表情になる。


「全く同じことは言えない。だって、それは騙されてるし、ぼくに被害がある」


 それはそうだと納得する。ユリアは自分がわけの分からないことを言ったことに恥ずかしさすら感じて、自然と俯きがちになってしまう。


 そして次の言葉を聞いて、目を見開いた。


「でも、きみを怒ったりはしない。見放しもしない。——フライアとノットに誓って」


 絶句。神に誓うという行為に、ユリアは絶句した。


 この世界で神は絶対的な存在だ。神は人間の祈りや誓いをしっかりと聞いている。


 一方的にああしてくださいこうしてくださいと言っても無視されるが、これをするので成し遂げられたらこうしてくださいと言えば聞き届けてくれる。もちろん、それが妥当なものであるのなら、だが。


 そして、神になにかを誓えば、反することは死を意味する。神への反逆ととられ、粛清されるのだ。


「……どう、して」


 驚きでうまく言葉が発せられない。これでルクスは、ユリアに嵌められたときに、怒ることも見放すことも出来なくなったのだから。


 それなのに、目の前の少年は明るく笑って平然と言うのだ。


「ぼくはきみを無事に国境まで送り届ける。そう決めたんだ。きみに嵌められたなら、それは騙されたぼくが悪い。違う?」

「それ、は、ちが」


 違うとはっきり言い切れない。これはそうであると賛同しているからではない。ルクスが本当にそう思っているのだと分かったからだ。


 頬を熱いものが流れていくのが分かった。


「——え、あ、ごめんなさい。私、なんで」


 拭っても拭っても涙は留まることをしらないように溢れ出す。


 ずっと苦しかったのだ。両親に狙われていることを知った。笑顔の下に隠された卑劣な笑みを見た。頼った近衛騎士に裏切られた。辛い訓練を共にした仲間に売られた。


 もう誰も信じないと思った。自分の周りには敵しかいない。逃げるためなら、どんなものでも利用しようと決意した。


 それなのに、自分の地位に関心を示さない男が現れた。


 間違いなく王女だと知って尚、言葉遣いも改めない男だった。


 それどころか、そんなことはどうでもいいと言いたげな表情すら見せた。


 つい、謝っていた。純粋に自分を助けたいと思ってくれている彼を騙そうとした自分を許せなかったのだ。それはまるで、両親や騎士、自分を裏切った者のようだったから。


 なにを言っているのか理解出来ていない様子で続きを促されたときは、本当に純粋なのだなと笑ってしまった。


 自らのことを道具のように語ったときに眉根を寄せてくれた彼を見て、こんな人もいるのだなと少しだけ希望を持てた。


 そんなことしないと断言する彼に笑みが漏れた。


 けれど、話し終えれば責められるだろうと思っていた。自分は許されざることをしたのだと、悔いていた。


 しかし、それを話しても、彼は怒ることも顔を顰めることもしなかった。なぜか感心して、そして納得するだけだった。


 たとえ嵌められようが、それを怒り見放すことはしないと神に誓った。なにがあっても必ずきみを無事に国境まで送り届けると宣言された。


 この世に生を授かって、ここまでの信頼を寄せられたことはない。いや、これは信頼ではないのかもしれない。嵌めないだろうと思っているからそう言ったのではなく、本当に嵌められても文句は言わないつもりでいるから言ったのだと直感で分かった。


 裏も表もない人と出会ったのは初めてだった。本当の温もりとはこういうもののことを言うのだなと理解した。


 嬉しい。そうだ、嬉しいのだ。絶対に自分を裏切らない人と出会えたことが、嬉しくてたまらない。


「ど、どうした? 大丈夫?」


 熱い。胸が焦がれるように熱い。彼の声を聞くと熱が高まる。顔を見れば焼け死んでしまいそうだ。


 どくんどくんと脈打つ心臓。恋焦がれるとはよく言ったものだなと思った。


「ふふっ、だ、大丈夫ですよっ」


 笑いも涙も止まらない。彼から見れば自分はおかしな女だろう。涙を流しながら不気味に笑っているのだ。自分ならそんなやつには絶対に近寄りたくない。


 でも彼は自分がおかしくなっても近づいてきてくれるのだろうと、根拠もなく確信していた。


「ルクさん」


 まだ落ち着かないが、ユリアには彼に言いたいことがある。言っておきたいことがある。言わずにはいられないことがある。


「なに?」


 彼の目的がなんなのかは知らない。魔導国に向かうつもりなのか、王国に向かうつもりなのかも分からない。国境まで、という条件を出して来たのなら、おそらくは魔導国だろう。


 魔導国にユリアは着いて行けない。ユリアはルクスのように髪の色を変えることは出来ない。白髪のユリアが魔導国に行けば魔族に殺されてしまうだろう。


「ルクさんの用事が済んだら、また会いたいです。そのときは、私を攫ってくれますか?」


 ルクスはユリアの言葉にしばらく固まり、はっとなったかと思うと、勢いよく口を開いた。


「ああ、もちろん」

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