第20話
森田の部屋で幻覚を見てから、凌介は自分の部屋でも一日に何度か幻覚を見るようになった。最初に自分の部屋で見た幻覚に映っていたものは、天井の照明であった。白い天井に蛍光灯が光っているのを見た凌介は、一瞬、自分の部屋の天井が見えたのかと錯覚した。だが、視力の無い凌介が自分の部屋の照明を付けることは無く、蛍光灯が点灯しているはずが無かった。気を失うことは無かったが、このときも激しい頭痛に襲われ、幻覚は一瞬で消えたものの、頭痛はしばらく治まらなかった。
それ以降も、幻覚のほとんどはこのような天井が映っているものであったが、たまに窓からの風景が映っていることがあった。灰色のビルが見えたが、そこは凌介の知らない場所であった。遠方は
凌介は幻覚が見えるたびに森田の姿を探した。だが、首を動かしても視界は変化せず、最初に森田の部屋で幻覚を見て以来、幻覚に森田が現れることは無かった。
——これは幻覚なんかじゃない。
凌介は次第にそう思うようになったが、なぜ映像が現れるのか、その原因については筋立てた説明ができずにいた。映像の現れる時間は定まっていなかったが、自宅で現れることは無かったため、研究室にある何かによって、自分の脳には新たな障害が発生しているのかもしれない、と考えるようになった。
凌介は、誰かに相談しようかとも考えたが、最初に幻覚の話をした際、永井やアイからは、オカルト扱いされて真面目に取り合ってもらえなかったため、同様の反応を予想して他人には話せずにいた。病院に行く勇気も無かった。
だが、幻覚が始まってから数日経ったある日、その話をする機会が訪れた。その日、凌介と永井は、近々学会で発表する論文のために泊まり込みで作業を行わねばならなかった。作業が一段落し、凌介が自分の部屋で寝ていたところ、また幻覚が現れ、頭痛によって目が覚めた。見えたのは窓からの夜景であったが、今回は凌介が過去に訪れた場所がはっきりと映っていた。
ふと気が付くと、隣の森田の部屋から物音がしていた。手探りで目覚まし時計を探し、時計のボタンを押すと音声は「六時三分」と教えてくれた。まだ起きるには早い時間だが、凌介は自分の部屋から出て、森田の部屋をノックしてみた。
「永井君だろう。入ってもいいかい?」
「おっと、早瀬さん、起こしちゃいましたかね……申し訳ないっス。どうぞ、入ってください」
凌介がゆっくりとドアを開けて部屋に入ると、コーヒーの香りがした。
「ひょっとして徹夜で作業していたのかい? 論文は一段落がついたと思ったんだけれど、まだ問題があったのかな?」
「あ、いや、ここで作業していたのは論文のためじゃないです。例のワイ・ビーの件です」
「ワイ・ビーの件?」
「そうです。この前、サーバーにデータが届いているという話はしましたよね。このところ、論文の傍ら、ログから通信経路を追っていたんですが、ちょっとわかったことがあるんです」
「忙しい中そんなこともやっていたのか……知らなかったよ」
「論文が行き詰まったときにやってたんです。俺、こういう作業の方が好きですから。それでですね、ちょっと早瀬さんに聞きたいことがあったんですよ」
「ん、何かな」
「早瀬さん、最近幻覚を見ていませんか? それも一日数回のペースで」
「えっ!?」
凌介は、不意を突かれた質問にしばらく答えることができなかった。以前、凌介が森田の姿を見たと言ったとき、永井は全く信じていないように思われた。そのため、凌介は永井がカマをかけているのかと思ったが、永井の口調には全くふざけた様子は無く、凌介はややためらいを感じながらも正直に答えることにした。
「……ああ、見ているよ。一日数回のペースで」
「やっぱ、そうっスか! 何が見えているんです? 森田さんですか?」
永井が興奮気味に凌介に尋ねた。
「いや、森田さんの姿は見えない。見えるのはつまらないものだよ。天井とか風景とか」
「風景? どこの風景ですか?」
「それがわからない……いや」
凌介はつい先程、自分の部屋で見た夜景を思い出した。夜景には、緑色に光るザベル・タワーが映っていた。
「おそらくゴダリアだ。さっき、遠くにザベル・タワーが見えたんだよ。ザベル・タワーの大きな鷲の顔が、はっきり見えたんだ。緑色に光っていた」
「緑色、ですか……」
永井はそう言うとパソコンを操作し始め、何かを見つけたらしく「ほぅ」と短い
「鷲の顔はどんな角度で見えました?」
「右を向いていたかな」
「なるほど」
それから永井はまたパソコンをカチャカチャと操作し始めた。たまらず、凌介が尋ねた。
「そろそろ、俺にも永井君が考えていることを教えてくれよ。なぜ、俺が幻覚を見ているとわかったんだい?」
「それはですね……ワイ・ビーの通信ログですよ」
「通信ログ? それが幻覚と関係があると?」
「はい。通信ログの解析を進める中で、通信経路がどれだけの数あるかがわかってきました。ご存知のように、ワイ・ビーは無線でも有線でもその上に通信経路を形成することができます。一つの通信拠点は、この部屋にあるサーバーとのやりとりです。他の拠点は、物理的にどこにあるかはわかりませんが、いつもは四箇所あるようですね」
「そうじゃない場合もあるということかい?」
「そうです。四箇所が五箇所に増えることがあるんです。そして、五箇所に増えた場合だけ、それまで一対一で行われていた通信経路の一つが、一対二で行われるようになっているんです。中身はわからないんですけど、同じデータが二箇所に届いています」
「ワイ・ビーの規格からすると、それは変だな……」
「ええ、ちょっと意図しない挙動のように思いますね。そして、この通信拠点の増える原因が、ついさっきの調査でわかりました。その原因がですね、早瀬さんなんですよ」
凌介は、永井が言っていることが理解できず、言葉を失った。
「……よくわからないな」
「……ですよね。これから説明します。俺もまだ半信半疑って感じなんですけどね。今朝、通信ログとにらめっこして、通信拠点が変化する時間を調べてみたんですが、そこで気づいたんですよ。早瀬さんが隣の部屋にいると通信拠点が五箇所になり、早瀬さんがいなくなると四箇所に減っているんです。そして、最初にこの増えた拠点にデータが流れた時間を調べてみると、早瀬さんがこの部屋で気を失った時間と一致しているんですよ。そして、さっきも幻覚を見たとおっしゃいましたよね。通信ログでデータが流れた時間を調べると、六時二分でした。ひょっとして、幻覚で目を覚まされませんでした?」
凌介にも幻覚の原因に関して永井がどういう仮説を立てたのかがわかってきた。
「その通りだよ。時間もぴったりだ。重複したデータが流れるのが、一日数回のペースなんだね?」
「そうです」
「つまり、俺が五箇所目の通信拠点だと言いたいんだな。でも、俺自身はワイ・ビーの通信機器は持っていない。あるとすれば……」
凌介はその先を言おうとして、言葉に詰まった。自分でも信じられないような考えが頭に浮かんだ。
「あるとすれば、俺の頭の中だな。俺は開頭手術で何が行われたか、知らないんだ。無線を飛ばす通信機器が埋め込まれている可能性はある。生体発電を使えば、四年間電池無しで稼働することも可能だ。あくまでも可能性の話だけどね」
「……」
永井は何も言わなかった。だが、否定もしないことから凌介と同じことを考えているように思われた。
脳に映像を送る——そんな研究に関する論文を凌介は読んだ覚えがあった。だが、成功したという話は聞いたことがない。自分が目にしたような鮮明な映像が、外部から脳に送り込まれたものであるという仮説は、とても確信が持てるようなものではなかった。
「ちょっと信じられない話だが、仮に俺の頭に映像を送ることができたとしよう。でも、いったい誰がそんなことをしているんだろうか? 例えば、永井君が映像を送ることはできるのかい?」
「いえ、それはできません。ワイ・ビーには認証の仕組みがありますから、認証情報を持っている通信拠点からしかデータは送れないはずです」
「そうだよね。やはり意図せずに、どこかへ送るはずのデータが送られてきてしまっている、ということなんだろうか……他にわかっていることと言えば、ゴダリアの映像だということぐらいかな」
「いや、もう少し特定できますね。ザベル西部周辺の画像がほぼリアルタイムに送られてきている、というところまでは言えると思います。早瀬さんは鷲の顔が緑色に光っているという話をされましたけど、それは今のザベル・タワーの状況に一致しています。ザベル・タワーのライトアップは日によって色が変わるんですよ。ライトアップしない日もある。ネットで確認したところ、今日は緑色にライトアップされているようです」
「なるほど。そして、ザベル西部周辺というのは、鷲の顔の角度からそう考えられるということかい?」
「そうです。鷲の顔が見えるということは、ザベルの中心地に近いところではないでしょうか」
「ちょっと思い当たる場所は無いんだけど、そういうことになるね。もう少し情報発信元を特定したいところだけれど、しばらくヒントになる映像が送られてくるのを待つしかないかな」
「そうですね。映像がヒントになると思います。このまま監視すれば、残りの拠点の映像も見られるようになる可能性がありますよ」
ワイ・ビーの通信を監視すると何ができるのかは凌介にもわかっていた。
「それは……ひょっとして、例の
「そうです。盗み見するのは気が引けますが、でも、そもそもうちのサーバーに勝手に他からアクセスしてきているのですから……」
「……わかった。もし問題になったら俺が責任を取るよ」
「では、心おきなくやらせてもらいます!」
「お願いします、と言いたいところだけれど、ちょっと待って」
「えっ、何です?」
「永井君、今まで徹夜でやってたんだろう? まずは一眠りしないか」
「俺はまだ平気ですけど……でもまぁ、休みましょうか。ちょっとスッキリしたし、気持ちよく眠れるかもしれません」
「俺もかなりスッキリしたよ。永井君のおかげだ。ありがとう」
「ハハッ、じゃ、お休みなさいっス」
「お休み」
永井は研究室の大部屋に置かれたソファへ向かい、凌介は自室の布団に戻った。だが、凌介はなかなか眠りにつくことはできなかった。
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