第15話
「あなたのためを思って言っているのよ。今はいいわ。でも、将来のことを考えて。ずっと彼の介護を続けるの? 仕事はどうするの? 自分が年を取ってからのことも考えなきゃダメよ」
「あー、もう! ごちゃごちゃ言わないで! 自分のことは自分で決めるわよ!」
香織には凌介と別れる気持ちは無かった。凌介が意識を取り戻したときは本当に嬉しかったし、リハビリに励む姿を見て、彼を助けていかなければならない、と思った。
だが、母親の言う通り、将来のことを考えると不安が無いわけではない。彼と暮らす場合、仕事を辞めざるを得ない。大学は凌介を解雇はしないと聞いているが、彼が今まで通りに研究を続けられるようには思えなかった。
——今日こそ言わないとダメね。
香織は来月からイタリア支社に勤務することが決まっていた。毎年異動希望を出し、イタリア語の学習を続けてきた香織にとって、念願の異動であった。だが、凌介にはまだ言い出せずにいた。
凌介の家の前で車を停めた後、香織は凌介を呼び出した。
「ありがとう、香織さん。私一人じゃ連れ出すのも難しくてね。このところ引きこもりがちなのよ。パソコンが使えるようになってから、パソコンとばかりおしゃべりしているし」
「そうなんですか。凌介、私よりパソコンの方がいいなら、私、帰るわよ」
「そんなわけねーだろ」
車椅子に乗った凌介を助手席に移し、車椅子を折り畳んで車に積んだ後、二人は郊外にあるショッピングモールへ向かった。
「そうだ、まだ言ってなかったわね。誕生日オメデト!」
「どうも」
「あなたもちょっとオジサンに近付いたわね。でも何でプレゼントにサングラスが欲しいわけ?」
「視覚に障害のある人ってさ、目線を気にしてサングラスをかけているじゃない。俺もちょっと目線に違和感があるんじゃないかなって思って」
「へーえ、そういうことを気にするのね。まぁ、私がオシャレなのを買ってあげるわよ!」
ショッピングモールに着くと、凌介は再び車椅子に乗り、香織に押してもらいながら、店舗を回った。
「前方からギャル二人連れが歩いて来るわ。左の子、この季節なのに超ミニよ。凌介の目線からだと見えちゃいそうよ。誤解されるから見ちゃダメよ」
「ハハッ、こっちは見えないのに、いい迷惑だね」
香織は車椅子を押しながら、周囲の状況を凌介に説明してくれた。
眼鏡の専門店に来ると、香織は、凌介の顔にサングラスを試着しては、
「これはハエ男みたいだわね」
「アハハハ、これじゃ映画に出てくるアジアのマフィアだわ」
「昔の刑事モノに出てくる人に似ているわ。ほらぁ、あの最後に撃たれて死んじゃう人よ」
などと感想を述べ、新たなサングラスを試すということを繰り返した。最終的にスポーツ選手も愛用しているというキャッチコピーの付いたサングラスを購入した。
「ちょっと触ってみて。バンドが付いていて、これなら体のバランスを崩しても落ちないわよ。しかも超似合ってるわ。どこかのメジャーリーガーって感じよ」
凌介にはイメージが沸かなかったが、香織が自分のことを考えて選んでくれたことに感謝した。
「ありがとう。これで人前に出る抵抗が無くなったよ」
「そうよ、いつまでも家に引きこもってちゃダメよ」
その後も二人はショッピングモールを散策し、フードコートで食事をした後、帰路に付いた。車中でしばらく沈黙が続いた後、凌介が言った。
「今日は本当にありがとう。楽しかったよ」
「何よ改まっちゃって……せっかくの誕生日なのにフードコートというのは冴えなかったわね」
「いや、あそこじゃ車椅子で行けるところも限られているだろう? 気楽でいいよ」
「まぁ、そう言えばそうね」
「ところでさ」
「何?」
「イタリア行きが決まったんだってね。おめでとう」
「えっ!?」
香織は思わず急ブレーキを踏みそうになった。まだ凌介には言っていない。
「何で凌介が知っているの?」
「香織のお母さんから聞いたよ」
香織には信じられない一言だった。最近の母親の様子から考えると、無理やり別れさせるような話をしていてもおかしくなかった。
「母さんから……母さんから何を聞いたの!」
「何って……辞令が出て、来月からイタリアに転勤になったって、それだけさ」
「……本当に、それだけなのね」
しばらく沈黙が続いた後、凌介が言った。
「俺、いろいろ考えたんだけどさ」
「……」
「俺達、今日で終わりにしないか」
——やはり。母が何か言ったのだ。
「何よ、それ。何なのよ!」
香織は涙があふれ、運転ができなくなった。夜になって閑散とした公園の駐車場を見つけると、そこに車を停めた。
「香織はイタリアでキャリアを築くんだろう? ずっと夢だったじゃないか。遠距離でもしばらく続けられるかもしれないけれど、その先が見えるかい?」
「……」
「俺は……しばらく一人になりたい、と思ってる」
「勝手だわ……」
「ごめん」
香織はしばらく泣いていた。凌介は何も言えず、ただ香織の泣き声を聞いていた。せめて今日だけは彼女と楽しく過ごし、それを最後の思い出にしたかった。だが、別れるなら早く言うべきだという思いも強かった。
「分かったわ……家まで送るわ。それが最後ね」
「ああ。ありがとう」
香織は凌介を家まで送り、車椅子に乗せた。
「イタリアでも頑張れよ。それから、絶対に危険なところには行くなよ」
「心配しないで。凌介も……頑張るのよ」
凌介には香織の表情は見えなかったが、笑顔が戻ったような気がした。
そうして、この日、二人は別れた。
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