第14話

 凌介は久しぶりに実家に帰って来た。意識が回復してから数週間経過したが、視力は全く回復しなかった。

 ——朝起きると突然目が見えるようになっている、悪い夢から覚めたように……そんなことはないものだろうか。ゴダリアの出来事は全て夢の中の出来事だった、そんなことはないものだろうか。

 意識が回復した直後はそんなことを考えたものだった。現実を受け入れられるようになるには時間が必要だった。これから一生、目が見えるようになることは無い。自分の足で歩けることも無い。それでもこれからこの体で生きていくのだ、生まれながらに目が見えない、足が不自由な人だっているのだ——折れそうになる心を自ら立ち直らせ、病院ではリハビリに励んだ。

 だが、本当に辛いと感じたのは病院を退院してからであった。病院では医師や看護師が助けてくれるが、退院してからは自分で生活をしていかなければならない。

 元々実家で暮らしていたのが幸いであった。学生の頃、一人暮らしをしていた時期もあったが、義手の研究が一段落してからは、生活費を抑えるために実家から大学まで通うことにしたのであった。おかげで、実家のどこに何があるかは完全に把握しており、一人でも手探りでトイレや風呂に入ることはできた。膝を使って移動するため、転倒することも無かった。食事も母親が準備し、配膳も教えてくれるので困ることは無かった。たまにこぼすことはあったが、それも母親が片付けてくれた。

 ——赤ん坊に戻ったようだ。

 母親は凌介には愚痴も文句も言わなかったが、毎日のかなりの時間を凌介の介護に費やしていた。たまに外出してはいるが、かなりのストレスを抱えているに違いない、と凌介は思った。

 ——もし、母親が倒れたらどうすればいいのか。

 凌介には兄弟がいなかった。親の面倒を見るはずの自分が親の介護なしには生活できなくなっている。将来のことを思うと、凌介は気が重くなった。

 ——とにかく、早く仕事に復帰しなければ。

 だが、その道のりは長く険しいように思われた。論文が読めない。表やグラフも読めない。点字の学習を始めたものの、習得は容易ではなく、習得してもこれまでのように仕事ができないと思うと、学習意欲も湧かないのであった。

 「凌介、これを使ってみろ」

 ある日、そう言って父親が渡してくれたのは、ノートパソコンであった。

 「パソコンのキー配置は目が見えなくても分かるだろう? 何か打ってみろよ」

 凌介が「hello」と打つと、「ハロー」とパソコンから声がした。

 「どうだ、これならお前でも使えるんじゃないかと思ってな」

 マウスを動かしてみると、マウスポインタの下にあると思われるソフトウェアの名前や文章が読み上げられた。

 「ソフトを立ち上げるときは、呪文を唱えてからソフトの名前を言えばいいらしいぞ」

 呪文というのは、パソコンが音声認識を始めるためのキーワードのことらしい。聞いた通りに呪文を唱えた後、「ブラウザ」と言ってみた。

 「ほら、ブラウザが起動したぞ。このブラウザも特別でな、目が見えない人向けに作られているんだ」

 父親の言う通り、ブラウザは表示されていると思われるページの内容を読み上げ始めた。

 「場所を指定したいときはマウスを適当に動かしてだな、ほら、ちょっと声が変わっただろう、これはリンクの文字にマウスポインタを当てた場合で……ええっと、ちょっと待ってくれ。今、説明書を読むから」

 父親は元来パソコンなどの機器の扱いが苦手な方であった。だが、凌介が説明書を直接見ることができない今は、じれったくても父親に頼るしか無かった。結局、一時間程度、すったもんだ試行錯誤を繰り返した後、ようやく凌介は基本的な使い方をマスターすることができた。

 「ありがとう。ネットで検索ができるようになるなんて思わなかったよ。世界が開けた気分だ」

 「そりゃよかった。深川先生もこれと同じものを職場に用意したと仰っていたぞ。早く習得して復帰しろよ」

 どうやら父親にこのパソコンのことを教えたのは深川らしかった。大学は休職中の扱いになっており、復帰時期もまだ未定であった。ある程度パソコンが使えたとしても、以前と同じような研究ができるとはまだ思えなかった。頼りの森田もいない。

 ——森田先生は生きているのだろうか。

 ゴダリアのテロでは多数の死傷者が出た。展示会の会場では火災や爆発のために未だに身元が分からない死体も多数あるという話であった。NESはテロの犯行声明を出していたが、何故ゴダリアの展示会を狙ったのか、目的については言及していなかった。勢力範囲を広げようとしている、という見方が一般的であったが、一部には、学者を連れ去ることが目的だったのではないか、という意見もあった。テロから数日経ってから、ゴダリア湾沖で、展示会に参加していた学者数名の遺体が見つかっている。彼らはいずれもテロがあった時刻には第二会場におり、第二会場にいた学者は全員が行方不明になっていた。そこで、第二会場にいた学者は拉致され、どこかに連れていかれた後、一部は殺されてゴダリア湾に捨てられたのではないか、という見方が出てきた。だが、実際に数十名もの学者が拉致されるところを目撃した者はいなかった。

 ——もう森田先生にも頼れない。一からやり直すしかない。

 パソコンが扱えるようになって、凌介は少し自信を取り戻した。凌介は一日で投げ出してしまった点字表を手探りで見つけ出し、点字の学習を始めた。

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