第5話
「早瀬君、そろそろゴダリアの砂漠が見えてきたんじゃありませんか? 今日の天気なら、もうザベル・タワーも見えるんじゃないかしら」
愛用の銀縁眼鏡のレンズを拭きながら、森田が窓側の席に座っている凌介に声をかけた。森田と凌介は、明日からゴダリアで開催される医療・健康機器の国際展示会「メディカル・ウェルネス・テック」に参加するため、ゴダリア行きの飛行機に搭乗していた。先程、ゴダリアのザベル国際空港に到着するという機内アナウンスが流れ、乗り継ぎを含めて一日近くかかった空の旅がようやく終わろうとしていた。
「砂漠は見えますが、ザベル・タワーはまだ見えませんね。何だかちょっとかすんでいます。霧がかかったような……砂漠の砂の影響なんですかね?」
「それとスモッグかしらね」
ゴダリアは世界有数の石油産出国であり、国土の八割は砂漠に覆われているが、潤沢なオイルマネーがインフラ整備に投入されたことで、首都ザベルは近代的な都市として発展を遂げていた。飛行機の窓からの風景も、最初は広大な砂漠に古い建物がわずかに見られる程度であったが、ザベルに近づくにつれ、
「ようやく見えましたよ。さすが世界一の高さですね」
「今晩はあそこの展望台で行われる展示会の前夜祭に行く予定ですよ。展望台からの景色を見たら、もっと驚くんじゃないかしらね」
市内中心部を少し過ぎたところで、飛行機はザベル国際空港に着陸した。二人は長い行列に並んで入国審査と荷物の受け取りを終えると、直ちにタクシーでホテルへ向かった。
「いやぁ、さすがに空港を出ると暑いですね。空港の中はクーラーが効き過ぎて寒いぐらいでしたが」
タクシーの後部座席で凌介が額の汗を拭きながら、隣の森田に話しかけた。
「まだマシな方かしら。昼間は四十度超えるんですからね」
「そういや、まだ朝でしたね。時差ボケで妙な感覚です」
「飛行機ではちゃんと眠れました? 今日が一番忙しいんですから、途中でダウンしないでくださいね」
「いやぁ、それが……今日に備えて眠ろうとしたんですが、何度も目が覚めて、まだ頭がボーっとしているんですよね。ホテルにチェックインしたら、すぐ会場に向かうんでしたっけ?」
「ええ、会場に行って、入場許可証をもらったら、アポロンさんと打ち合わせすることになっています。約束の時間までは二時間ぐらいあるけど、ホテルで休んでいる暇は無いわね……そう言えば、アデルに電話するのを忘れてたわ」
そう言って、森田はスマホを取り出した。アデルはアポロン社のゴダリア支社に勤める社員である。凌介達が開発している義手は、アポロン社との共同開発となっており、今回の展示会では、アポロン社のブースで義手を展示することになっていた。凌介達も義手のデモに参加するため、本日の打ち合わせでアデルと詳細な段取りを決めることになっていた。
森田がアデルと電話で話しているのを聞きながら、凌介はザベルの街並みを眺めていた。道路の脇には近代的な高層ビルがいくつも並び、看板も英語で書かれているため、アフリカにいるような気がしなかった。少し遠くに目をやると、海沿いにはリゾートホテルと思われる、中世ヨーロッパの城のような白いホテルも見えた。
「海沿いはレジャースポットよ。スパもカジノも何でもあるわ」
目を細めて景色を見つめる凌介の後ろから電話を終えた森田が説明を添えた。
「森田さん、アデルはもう会場にいました?」
「ええ、昨日から徹夜で準備しているそうよ。打ち合わせの時間を少し早めてもらったわ」
「アデルも大変だな……僕達以上に頭がボーっとしているかもしれませんね」
「一緒にしないでくださいな。私は時差ボケありませんから」
「それは失礼しました、森田さんは普段から『眠らない人』でしたね」
森田は日本にいる時から、ゴダリアやその他の国の研究者と連絡を取り合っており、時差の関係で遅くまである国の研究者と一緒に会議をしていたかと思えば、次の日は早朝から別の国の研究者と会議をしている、というような生活を送っていた。そんな時でも眠そうにしている姿をほとんど見ることがないため、学生からは、「眠らない人」、「ロボット」、「実は双子」などと言われていた。森田は、女性的な言い回しと仕草から学生の間で笑いのタネにされることもあったが、幅広い知識と数々の共同研究を成功させた実績から、学生だけでなく、大学職員や他学部の教授からも尊敬を集める存在であった。凌介が研究室に入って最初に指導を受けたのが森田であったが、当時は森田の豊富な知識と頭の回転の速さに圧倒され、言われたことの半分も理解できなかった。
——大事な事だからもう一度言うわよ、早瀬君。
森田の話が理解できずにキョトンとしている凌介に、森田はよくこう言った後で丁寧に説明を行った。凌介も何とか森田の力になろうとしてこれまでやってきた。大学に残ることを決めたのも森田がいたからであった。さすがに今では森田から半人前扱いされることは無くなったが、それでも凌介は、森田にはとてもかなわないと感じていた。
「ホテルに着いたわよ」
二人の乗ったタクシーはアポロン社が手配したホテルの前で停車した。宿泊料もアポロン社から支払われることになっていたが、ザベル市街中心地にある高級ホテルが一泊いくらするのか、凌介には想像が付かなかった。二人はチェックインを済ませた後、各自の部屋に荷物を置くと、ほとんど休む間もなくホテルを出発した。
展示会の会場であるザベル・シティ・センターは、ホテルから歩いて十分程度のところにあった。距離は近いものの、四十度近い気温のせいで、着いた頃にはすっかり体力を消耗していた。凌介は「歩いてザベルの街並みを見てみたい」と言ったことを後悔した。メインの会場は三階建ての大きな建物で、一階の入口付近には各国の国旗が並び、二階にも第二会場や周辺のホテルと繋がる出入口があった。
「ここでやるのも今回限りらしいわよ。老朽化のために新しい会場を建設中なんですって。いくらお金があるのかしらね、ザベル市は」
「たしかに、よく見ると外壁もかなり傷んでますね。歴史を感じる、とも言えますが」
一階の入口から中に入ると、「メディカル・ウェルネス・テック」とカラフルなロゴで書かれた看板が目に入り、その下にチェックインカウンターがあった。展示会の開催は翌日だが、入場する際のICカードを受領するためにはチェックイン手続きが必要となっており、初日の朝に行われるオープニング・キーノートに参加する場合、前日に手続きを済ませておかないと間に合わないという事情があるため、カウンターには既に行列ができていた。
「前日の朝だというのに、もうかなりの人がいますね」
「そうね、そんなに大きな会場じゃないけれど、一万人ぐらいは参加しますからね。昼になったら、もっと混み合うでしょうね」
カウンター右横のスペースは三階まで吹き抜けになっており、エスカレーターで三階まで移動することができるようになっていた。カウンターの左側は展示スペースとなるホールが連なっており、その入り口周辺では、展示会を運営するスタッフが集合し、明日の打ち合わせを行っていた。カウンターの列はなかなか進まなかったが、三十分程でようやくチェックイン手続きが完了した。
「結構時間がかかったわね。打ち合わせの時間ギリギリだわ。早く三階のアポロン社のブースに行きましょう」
「わかりました……あれ、その封筒は何です?」
森田が持っていた封筒を見て凌介が尋ねた。
「えっ? ああ、これね。明日のキーノートが終わった後、脳神経科学の専門家を集めたディスカッションがあるんですって。その招待状よ」
「俺にはそんな招待状は無かったですね。一緒に申し込んだのに」
国際舞台での疎外感を感じながら、凌介達は上りのエスカレーターに向かった。エスカレーターの上り口にはスタッフオンリーと書かれたプレートがあり、不愛想な警備員が立っていたが、アポロン社の名前を出してICカードを渡すと通してもらえた。しばらくエスカレーターに乗ってから振り返ると、フロアの全体を見渡すことができ、右手にはカウンターとそこに並んでいる人達の行列が見えた。行列はフロアの右手から左手の入り口まで壁伝いに続いていた。
「三十分ぐらいの間に随分行列が長くなりましたね」
「ちょっとカウンターのスタッフが少なすぎるわね。それに手際も悪いから、こんなことになっちゃうのよ」
フロアの左手はガラス張りになっており、ガラス越しにカメラを持ったテレビクルーと思われる集団が外で撮影準備をしているのが見えた。
「テレビ局の中継もやるんですね。あの白いスーツの女性はレポーターかな」
「この展示会も割とメジャーになりましたからね。それに、ゴダリアでやるのは初めてだから、現地のテレビ局あたりが来ているのかしらね」
二階はスタッフの姿も少なく、閑散としていた。奥には大小のホールがあり、明日以降は各種フォーラムが開催される予定になっている。オープンスペースにはソファが並んでおり、そこで眠っている者もいた。アデルのように徹夜で準備をした人が仮眠を取っているのかもしれない、と凌介は考えた。
三階のオープンスペースは展示コーナーがいくつか設けられており、アポロン社のブースはエスカレーターの降り口のすぐ
「森田サン!」
アラブ系の男性が手を振っていた。アデルである。凌介は電話会議で話をしたことはあったが、実際に会うのは初めてであった。陽気なアラブ人、という印象であったが、実際に会ってみると、長身で彫が深く、長い
「日本からわざわざお越し頂き、ありがとうございます。お疲れじゃありませんか?」
アデルは日本人のように一礼をしてから、英語で挨拶をした。
「いえいえ、ホテルまで準備してくださってありがとうございます。とても立派なホテルで驚きましたよ」
森田も英語で答えた。
「早瀬サンもありがとうございます。アイデアをいろいろ頂いたデモの件ですが、結局、ジャンケンにしましたよ」
そう言って、アデルは展示コーナーの端に設けられたスペースに二人を案内した。そこには凌介達が開発した義手が置かれており、隣のボードには日本のジャンケンのルールが説明されていた。義手のデモでジャンケンをしよう、というのは凌介のアイデアであった。義手に取り付けられたカメラは、周囲の状況を監視しており、予めどのような場合にどう動くかをプログラミングしておくと、状況の変化に素早く反応することができる。凌介が組み込んだプログラムでは、装着者が手を動かそうとしなければ、ジャンケンの際に相手がグー、チョキ、パーのどれを出すかを瞬時に判断し、必ず勝つことができる。厳密には後出しなのだが、瞬時に判断するため、相手には同時に出しているようにしか見えない。
一方で、この義手は、体との接点に流れる微弱電流も監視しており、装着者の意志がある場合はその意志を優先する仕組みになっているため、義手の根元の部分を指で操作すれば、わざとじゃんけんに勝たないようにすることも可能になっているのであった。
このデモは日本では受けがよかったものの、ゴダリアにはジャンケンの習慣がないために伝わりにくいのではないか、という意見もあった。
「日本の文化、としてジャンケンをそのまま紹介することにしました。ルールを紹介するビデオを流しておけば、待ち時間の間にルールを覚えられますからね」
そう言って、義手の横にあるモニターを指差した。モニターでは和服を着た二人の外人がコミカルにルールを説明していた。その中の一人をアデルが演じていた。
「このビデオを日本の文化と言われると、どこか違う気がするけれど、なかなか面白いじゃない。アデルの侍姿もなかなか似合っているわ」
「これ、私の私服なんですよ。いいでしょう」
「あら、そうなの。こんなのよく持ってたわね。ホホホ」
デモの説明を受けた後、凌介達も参加して簡単な打ち合わせが行われた。翌日の午後三時からは、オープンスペース中央のプレゼンコーナーで義手に関して技術的な説明を行うことになっており、内容はインターネットでライブ中継される。プレゼンは森田と凌介が交互に行う形式となっており、日本では数回リハーサルを行ってきていたが、打ち合わせの後、アプロン社のスタッフを前にプレゼンコーナーでリハーサルを行うことになった。説明の概要はアプロン社に伝えていたが、実際に内容を見せるのは今回が初めてであった。やや緊張しながらも、二人は台本通りにプレゼンを行うことができた。
「森田サン、早瀬サン、素晴らしいです。とても面白かったですよ」
リハーサルの後、アデルが拍手しながら称賛の言葉を送った。
「ありがとう。明日はもっと人数も多いでしょうから、緊張しちゃうわね」
森田先生が緊張している姿は見たことがないな、と思いながら凌介が答えた。
「そうですね。今日のように笑いが取れるといいんですけど」
「大丈夫ですよ。ゴダリア人はノリがいいから」
アデルも他のスタッフもプレゼンには満足したようである。表情には
「では、打ち合わせは以上でいいかしら? 私達、これからマリオンにも行く用事があるのでそろそろ行かなくちゃ」
「今回もまたマリオンに行かれるんですか?」
アデルの表情が曇った。
「ええ、やりかけの仕事があるのよ。今回もゴダリアに行くって言ったらマリオン政府から呼ばれちゃって。小林さんにも会うつもり」
「ご存知とは思いますが、最近のマリオンは危険ですよ。ゴダリア人も行こうとはしません」
「ええ、わかっているわ。無理はしないから。じゃ、前夜祭で会いましょうね」
「はい……ご無事をお祈りします」
不安そうなアデルを残し、凌介と森田はザベル・シティ・センターを後にした。
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