ネコミミクラスタ02 ministory
猫たちのYesterday
ハートビートという言葉がある。英語で、心臓の脈拍を意味する。
例えばあなたは、好きな人とすれ違って心臓がバクバクと音をたてたことはないだろうか。規則正しい脈動を繰り返していた心臓が、突然暴れだしてあなたの心を掻き乱す。
逆に、好きな人の心音が気になったことはないだろうか。自分と同じ思いを、相手が抱いているのか気になって、悩んだことは誰にでもあると思う。
今日は、そんな悩みに苦しむ、1匹の猫の話をしようと思う。
これはビートルズが好きな、灰色の子猫のお話だ。
遠い、遠い、昔。
未知のウイルスによって人類は滅亡寸前まで追い込まれた。
ウイルスの名は、キャットイヤーウイルスという。
頭部に猫の耳に類似した器官ができ、死に至る病だ。長い研究の末、ニンゲンたちはワクチンを作ることに成功し、滅亡から免れた。
ワクチンを摂取することは、弱いウイルスに感染することでもある。ワクチンを摂取した人間には、頭部に猫の耳に似たものが生えるようになった。
ニンゲンたちはその器官を、ネコミミと呼ぶようになる。
そして、ウイルスに感染した者の中に特殊な能力を持ったケットシーと呼ばれる人々が誕生するようになった。
例えば、ケットシーの中には楽器を一切使わず、周囲の音で歌を奏でてしまう女の子だっている。彼女は、驚異的な聴力を持ち、持ち前のセンスで雨音も、足音も、海の漣さえ自分の歌の伴奏にしてしまう。
気になる男の子の心音だって。
だから、ソウタはその女の子――ハルという名前だ――が歌を奏でているたびに、自分の鼓動が気になって仕方がない。頭に生えた真っ白なネコミミをひょこひょこ動かしては、彼女はソウタの心音に聴き入る。
ハルが自分の心音をもとに歌をうたっているとき、彼女は自分のことを想っているのだ。
ソウタはとても嬉しい気持ちになって、ネコミミをぴーんと立てる
逆に、ハルが他人の心音で歌をうたっていると、ソウタはしゅんとなってネコミミを伏せてしまう。ハルが、誰の心音を聴いているのか、気になってしまう。
どうしてハルのことが気になってしまうのか、理由は分からない。
悩んで、同じ合唱部に所属するチャコに相談に乗ってもらった。彼女は、呆れたように茶トラのネコミミをたらして、こういったのだ。
「いいかげん、漢になりなよ。ソウちゃん……」
ソウタはどうしていいのか分からず、灰色のネコミミをしゅんっとたらすことしか出来なかった。
「あぁー! 遅れるー!!」
ソウタは常若町に立ち並ぶ、建物の屋根を疾走していた。ソウタが天窓を囲む切妻屋根を飛び越えるたびに、彼の灰色のネコミミ――キャットイヤーウイルスに感染することによって頭部に生じる猫の耳に類似した器官――についた鈴が慌てたように音を奏でる。大通りに差し掛かり、建物の屋根が途切れる。ソウタは大きく跳躍し、向かいにある建物へと華麗に着地した。
ソウタは驚異的な脚力を持つケットシーだ。屋根と屋根の間を猫のように跳ぶことなんて簡単にできる。その気になれば、鳥のように数十メートル先まで跳躍することもできるのだ。
そんなソウタのネコミミに、愛らしい少女の歌声が聴こえてきた。
「ハルっ!」
ソウタは声をあげる。透き通った歌声は、ハルのものだ。ハルは、遠く離れた自分に歌をうたって気持ちを伝えることがある。
少女の声は、灰色の猫を待つ、真っ白な猫の思いを歌い上げる。
白猫は灰猫を待っている。それなのに、灰猫は現れない。
待ちくたびれて、帰ってしまうよ。
白猫は、気まぐれなのだから。
白猫は白いネコミミを持つハルのことを、灰猫はソウタのことを表しているのだろう
ソウタの心音が罪悪感に高鳴る。
大声をあげ、ソウタはハルに謝っていた。
「ごめん!! 義姉さんがぜんぜんレコード貸してくれなくて! 貸す代わりに家の手伝いしてたら遅くなった!!」
――ロックバンド、やってみようよ!!
同じ合唱部に所属するチャコの言葉を思い出す。学園の合唱部に所属するソウタたちは、再来月の音楽発表会に向けてどんな曲を披露しようか悩んでいた。そんなときに、チャコがトラ柄のネコミミをピーンと立て、ロックバンドなるものをやってみようと言いだしたのだ。
ロックバンドなんてソウタは知らない。調べてみると、キャットイヤーウイルスによって文明が崩壊する、はるか以前に流行った音楽らしい。
発祥の地はアメリカという国で、語源はそこに奴隷として連れてこられた黒人たちの英語から来ているとか。
意味は、ダンスとかセックスとか、交合とか――
恥ずかしくなって、ソウタは読んでいた百科事典をその場で閉じてしまった。 学園の図書館でロックのことを調べるたびに、ソウタはその瞬間を思い出して心臓を高鳴らせてしまう。そうすると、側にいるハルが恥ずかしそうに頬を桜色に染めるのだ。
そんなハルを見て、ソウタはますますロックのことが嫌いになった。
それでも話はとんとん拍子に進み、ロックに使う楽器までチャコはどこからともなく調達してきたのだ。
それにしても、肝心のロックをソウタは聴いたことがない。悩んでいるとき、義姉のミミコがレコードを貸してくれた。
ビートルズという、すっごく昔に世界中で流行ったロックバンドの曲だった。
とてつもなく卑猥な曲だと思いきや、ロックはソウタの想像を大きくかけ離れたものだった。
洗礼された歌詞。優しいギターの音色。何より魅力的なのが、囁きかけてくるようなジョン・レノンの歌声だった。ハルの透き通るような歌声がソウタは好きだが、ジョンのそれはまるで思いを囁きかけてくるような、そんな魅力を持っている。
義姉のミミコにそのことを話すと、ジョンの奥さんは私たちのご先祖様であるニホン人なのよっと、誇らしげに黒ネコミミをぴんっとたてた。
今日、学園は休みだ。だが、ソウタたち合唱部は発表会の練習のため部室に集まる予定だった。ソウタはそのことをうっかり忘れて、ビートルズのYesterdayに聴き入っていたのだ。物悲しい曲に涙を零しそうになったとき、ソウタはハルの歌声に呼ばれ、慌てて部屋の窓から飛び出してきたのだ。
片肩に背負ったリュックにはビートルズのレコードが入っている。ソウタが慌ただしく屋根を走るたびに、リュックに入ったレコードがかちゃかちゃと音をたてる。
その音に合わせ、ハルは歌を奏でた。
嘘、嘘、嘘。
灰猫は嘘をつきたがる。
昨日の嘘をすっかり忘れて、灰猫は笑ってばかり。
白猫は、昨日のことを思う。
恋愛ゲームに疲れた女性のように、白猫は遠い昨日を見つめている。
ドキリとソウタは心音を高鳴らせていた。
ハルに嘘を見破られている。彼女の驚異的な聴覚にソウタは心臓をバクバク鳴らしていた。その心音に合わせ、ハルが歌を奏でる。
昨日のことが嘘のよう。
あなたと一緒にいることなんて、簡単なことだと思っていた。
けれど、あなたはやってこない。
だから、今、あなたが来ないような気がしてならない。
あなたの心音が遠く感じる。あなたがいなくて、心が遠くに行ってしまいそう。
ハルの歌は物悲しく、その歌詞はYesterdayを彷彿とさせる。あぁ、ハルは自分と一緒にYesterdayを聴いていたんだ。そう思い、ソウタは罪悪感に心音を高鳴らせていた。
この曲を聴いていると、ハルがとても遠くに行ってしまうような気がしてしまう。そのせいで、涙が溢れてきそうになる。
ハルも同じ気持ちで、この曲を聴いていたのだろうか。
自分はそのことに気がつかなかった。そんな自分がついた嘘を、ハルはどんな風に受け止めたのだろう。
曲に歌われた恋人と、ハルは同じ気持ちを抱いていたのではないだろうか。
ハルとの距離が、昨日よりもずっと遠くに感じられる。
ソウタは昨日、ハルとした約束を思い出していた。
――一緒に、ビートルズを聴こう。
そうソウタがハルに告げると、彼女は白銀の眼を嬉しそうに桜色に煌めかせた。 それなのに、自分は遅刻をしたうえに、ハルに嘘までついてしまった。
「ごめん、ハル! ビートルズ、一緒に聴こう!!」
ハルの歌声が、とまる。
気に障ることを言ってしまっただろうか。ソウタは心臓を悲しげに鳴らしていた。
その音に応え、歌が聴こえてくる。
昨日までは、自分に悩みがあるなんて考えもしなかった。
それなのに今は、ずっと悩みが自分の中にある。
私は、昨日を信じている。
Yesterdayをハルが歌っている。
囁きかけてくるような、優しくも悲しい歌声。その歌は、ソウタは寂しげな心音をメロディにしていた。
「ハル」
ソウタの心音が、驚きに高鳴る。
突然、私は中途半端な人間になったよ。
私の中には、影がある。
その影が、昨日やってきたんだ。
歌声が高くなる。ハルは高鳴るソウタの心音に合わせて、歌を続けていく。
どうして、あなたが遠くにいるのか分からない。
あなたは、なにも言ってくれない。
私が悪いのかしら。今は、あなたが側にいてくれた昨日が恋しい。
歌詞は、ハルによってアレンジされているようだった。ハルの歌は心音をメロディにして、ソウタにその想いを伝えていく。
ソウタはYesterdayの曲調を思い出していた。ネコミミにジョンの優しい歌声と、囁くようなギターの音色が蘇ってくる。
ソウタの心音は自然と、Yesterdayの曲調に合わせて奏でられていた。
昨日、あなたは側にいた。
だけど今は、遠くにいる。
私は、それでも昨日を信じているんだ。
ソウタの心音を側で聴きたい。一緒にレコードを聴こうと約束した昨日のように。
ハルは、そんな気持ちを歌に託しているように思える。ソウタは走るスピードをあげ、途切れた屋根から勢いよく跳躍した。
横に眼を向けると、鮮やかな夕焼けが海を照らしていた。
今日が、終わろうとしている。
ふっと、茜色の夕空が寂しく思えて、ソウタは眼を伏せる。
ハルの歌を聴いている今でさえ、昨日となり、過去の出来事になってしまうのだ。
そのとき、自分はこの瞬間を覚えているのだろうか。
ハルを遠く感じている今という日々を、過去という名の影にしまい、忘れたりしないだろうか。
向かいにあった屋根に着地し、ソウタは一心不乱に駆けていた。
学園は近くなっているはずなのに、ハルを側に感じられない。ハルが今この瞬間も、遠い存在になろうとしている。
「ハルっ!」
ソウタは叫んでいた。
彼女を側で感じたい。彼女の歌声を、ずっと聴いていたかった。
どうして、あなたが遠くにいるのか分からない。
あなたは、なにも言ってくれない。
私が悪いのかしら。今は、あなたが側にいてくれた昨日が恋しい。
歌詞が繰り返される。
それでも、ハルの歌声は寂しさに震えているように思えた。ソウタを遠くに感じ、悲しんでいるように感じられた。
自分と同じ気持ちを、ハルが抱いている。そう思い、ソウタは心臓を高鳴らせる。
ソウタはハルの存在を近くに感じていた。昨日よりも、彼女との距離が縮まった気がする。
ふっと、ソウタは微笑んでいた。
どうして、ハルのことが気になるのかわからない。彼女が誰の心音を聴いているのか、いつも気になってしまうことも。
でも、ソウタはハルの歌が好きだ。彼女の歌声を聴いていると、沈んでいた心が慰められる。彼女の歌を通じて、多くの人が笑顔になる。
ハルの側にいると、ソウタは楽しくていつも笑っているのだ。
ハルの、側にいたい。
今が過去の出来事になっても、彼女の歌声を思い出せる様に、ハルを側で感じていたい。
ソウタは、ハルとともにYesterdayを口ずさんでいた。ソウタの声はだんだんと大きくなり、ハルと輪唱を奏でる。
心音をメロディに、2人の歌声は、夕空に溶けていく。
――今行くからね。ハル。
その想いを歌声に託し、ソウタは屋根を駆け抜ける。ソウタの心音が、軽やかに歌のメロディを奏でる。
夕焼けの中をソウタは跳んでいく。
今日が昨日になっていくこの瞬間を、確かなものにするために。
ハルを側で感じるために、ソウタは駆ける。
心音を軽やかに鳴らし、ハルとともにYesterdayを歌いながら。
ハルとの約束を、果たすために――
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