第32話


 のんびり夜道の隣を歩く啓に、急に、初花が言った。

「今日は、ありがとな。啓」

 ボソッと初花が言った言葉を聞き逃さない啓は、

「……どういたしまして」

 と、微笑んだ。

 川を越え、初花の家の近くに来た時、啓と初花は怪しい人物を見付けた。

「あれ?」

 啓が問うと、

「あいつだ」

 と初花が答えた。

 初花が『あいつ』と言う相手は、一人しか居ないと考えた啓は、

「じゃあ、あれが、あやめ、さん?」

 と、質問した。

「そうだ」

 大きく頷く初花の答えを聞いて、啓は目を凝らす。

 初花の家の近くをウロウロしている、女性。

 じっーっと見詰めながら、(あれが、噂のあやめさんか)と啓は思った。

 その女性がこちらに気が付いて、駆け寄ってきた。

「初花さん!」

 短く叫んだあやめに何の反応もしないので、啓は催促するような目で初花の方を見て言った。

「呼ばれてるぞ」

 初花は啓を見詰め返して、溜め息を一つ吐いた。

「うん。しょうがないな」

 初花は小さい声でそう呟いてから、「はい!」と大きな声で応えた。

 そうこうしているうちに、女性が二人の目の前に辿り着いた。

 武家屋敷の建ち並ぶ路地には不思議と誰も居なかった。

 街灯だけが温かい光で灯っている。

「初花さん、本当に心配していましたよ」

 心底心配そうな声で、あやめが語る。

 ずっと彼女も初花を探していたのか、冷え切った顔に汗で髪が張り付いている。

 啓は(この人か……)と、ついマジマジと顔を見詰めてしまった。

 女性の顔を不躾に見詰めるのはマナー違反かもな、とは思ったが、正直、好奇心の方が勝っていた。

 あやめという妙齢の女性は優しそうな顔に理知的な瞳の、線の細い美人だった。長い髪を一つに後ろで束ねており、それが着物姿と相俟って、どことなく落ち着いた雰囲気を醸し出していた。

 しかし、あやめは啓の視線には気付かず、真っ直ぐ初花の顔を見据えている。

「本当に、本当に、とっても、心配していたのですよ」

 少しだけ窘める声色で、あやめが言った。

「すみません」

 ぺこりと頭を下げながら、初花が軽い口調で謝った。

 初花は俯いたままだった。謝るときに頭を下げたっきり、固まったようになっていた。

 すると、あやめは「初花さん、頭を上げてください」と言い、まず初花の頭を上げさせてから、次に啓の方を見た。

「あなたが、啓君、ですね?」

 あやめが確信を持って、尋ねた。

 啓は、自分を見詰められて少し緊張しながら、

「はい。俺が、清和啓です」

 と自己紹介した。

「……啓君、ありがとうございました」

 あやめに丁寧に頭を下げられた。

 啓は余計に恐縮する。

 そして、慌てて言葉を足した。

「い、いえ! 俺は特に何も!」

 あわあわ付け足す啓の様子に、面を上げたあやめが、口元を緩めた。

「いいえ。あなたが初花さんを連れ戻してくれました。本当に、ありがとうございました」

「…………どういたしまして、です、ハイ」

 啓が頭を搔きながら答えた。少し照れくさかったのだ。

 それを見て、初花が少し笑った。

「あ、初花、なんで笑ってるんだ!」

「いや、啓が面白くて」

「なにー! 俺は至って、普通です!」

 そんな二人の仲の良さそうな遣り取りを見て、勘の良いあやめは、微笑んだ。

「では、夜も遅い事ですし、今日はこれで。啓さん、本来なら送ってあげたいけれど、一人で帰れますね?」

「はい!」

「では、お気を付けてお帰りください。帰宅したら初花さんにメールを入れてあげてくださいね。私達も、安心できるので」

「わかりました」

 啓は答えて、初花を見た。

 初花は、啓を見て、意味ありげに肯いた。

 (これなら、大丈夫)と啓は感じて、ぺこりと礼をして、帰路に着いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る